第六章・ロミオとジュリエット(その3)

 文化祭の前日になると、授業も中断されて校内は文化祭の準備一色になり、生徒たちの手で華やかな装飾がなされて立て看板が立ち並ぶようになる。そして校庭でも、模擬店の準備が着々と進みつつあった。潮音たちの桜組も、劇の舞台の大道具造りが最後の佳境に入っていたが、潮音は昼休みになって準備が一段落したときに、暁子と一緒に弁当を食べながらふと感慨を漏らしていた。


「もしこれが男女共学の学校だったら、重い荷物運ぶなどの力仕事や大工仕事は男子ばかりがやりそうなものだけどな。でもうちの学校じゃ、これをみんな自分自身でやらなきゃいけないんだから大変だな」


 それを聞いて暁子も、少しため息混じりに潮音に答えた。


「確かにそうだよね…。だから中等部からこの学校にいる子たちは、変に男子に頼ってデレデレしたりも、逆に男子に対して変に意地を張ったりもしないで、自分のやることをしっかりとやれるんじゃないかな」


 そこで潮音は、紫や光瑠、琴絵や愛里紗といった、松風女子学園で顔を合わせた少女たちのことを思い出していた。彼女たちが皆、自分の個性を遠慮することなくのびやかに打ち出しているのも、男子の目を意識しなくていいからなのだろうかと潮音は考えていた。


 しかしそこで暁子が、潮音にこっそり耳打ちした。


「あんたは中学の文化祭のとき、積極的に力仕事やってたっけ。文化祭の準備サボって男子同士でふざけて遊んでばかりいたくせに」


 暁子の言うことが図星だっただけに、潮音は決まりの悪そうな顔で苦笑いした。


「オレがもしあのままだったら、どこの高校に行ってたのかは知らないけれども、少なくとも自分が文化祭の劇に出ようなんて思わなかっただろうな」


 潮音がそのように答えたのを聞いて、暁子はやや考え気味に口を開いた。


「あんたはよくがんばったよ。あたしだってうちみたいな女子校でちゃんとやっていけるか心配だったのに、あんたがそこまでやってるんだから」


 暁子に言われて、潮音もあらためて感慨に浸っていた。


「オレが女になってから、もう一年になろうとしてるんだよな…。長いような、あっという間のような一年だったな」


 潮音はこの一年間を振り返ってみて、その間に自分が経験したことは、これまでの自分が想像もできなかったようなことばかりだったとあらためて感じていた。潮音は一年前の自分は、突きつけられた現実を受け入れることができずに戸惑うばかりだったが、今の自分はそのころの自分に比べて、自分の意志で考え行動することができているだろうかと考えていた。


 そのように考えこんでいる潮音を見て、暁子はなだめるように声をかけた。


「あんたはもっと自分に自信持ちなよ。みんなあんたのことを変な目で見たりせずに、あんたのことを認めてくれたじゃん。その気持ちを忘れなければ大丈夫だよ」


「暁子こそもっと自分に自信持てよ。もし暁子がいなかったら、オレはこの学校でやっていくことなんかできなかったと思うから」


「でも潮音って、あたしの前じゃ自分のこと相変らず『オレ』って言うんだね。最近ほかの子と一緒にいるときには、『私』って言うようになったのに」


「やっぱり自分のこと『オレ』というのは変なのかな」


 潮音は当惑気味に答えた。


「でも…ほんとのこと言うと、あたしは潮音には、自分が男の子だったってこと忘れてほしくないんだ。もしあんたが女として生きたいと言うのなら、それでも構わない。でもあたしの前では、あんたはちっちゃな頃にいつも一緒に遊んでいた頃のあんたでいてほしいんだ。…あんたにだってあんたの考えややりたいことがあるわけだし、これってわがままだっていうことは十分わかっているけど」


 暁子が心中を打ち明けたのを聞いて、潮音はまじまじと暁子の顔を見つめながら言った。


「暁子はやっぱり、オレには男でいてほしかったのか?」


 それに対して暁子は、じっと沈黙したままだった。潮音は暁子の気持ちだって理解できるだけに、二の句を継ぐことができなかった。そのようにして互いに気まずい思いを残したまま昼休みが終ったので、潮音は劇の準備、暁子は手芸部のバザーの準備にそれぞれ向かうことにした。


 劇の練習に向かう間も、潮音の心の中からは暁子の寂しそうな表情が消えなかった。


──ごめん暁子。お前の気持ちだってわかるよ。でもオレだって昔のままのオレじゃいられないんだ。オレだって前に進むしかない、そして今自分のできることをやるしかないんだ。でもやっぱり…暁子は男だったときのオレが好きだったのか?


 潮音は心の中の疑念と不安を強引にも打ち消しながら、劇の練習に向かった。



 潮音は劇の練習に集中することで、先ほどの暁子の不安げな表情を忘れようとした。しかしそうなると今度は、凛々しい態度でロミオの役を臆することなく演じる光瑠や、モンタギューの役を演じる紫に対して気後れを感じずにはいられなかった。


 潮音ははっきりと感じていた。自分はこれまで女子校で自然に活動してきた紫や光瑠には、どうしても追いつけない隔たりがあるということに。潮音はこのままでは、劇を演じても注目を集めるのは光瑠や紫ばかりだろうと思うとともに、自分は果たしてジュリエットの役を演じきれるのだろうかと不安を覚えずにはいられなかった。


 特に潮音が何度も練習のやり直しをさせられたのは、ジュリエットがバルコニーから身を乗り出してひそかに会いに来たロミオと出会うシーンや、終盤のジュリエットが毒薬を飲んで横たわるロミオを前に短剣で自らの命を絶つシーンだった。


 ほかにも劇の序盤にロミオとジュリエットが仮面舞踏会で初めて出会い、そのままダンスをするシーンでは、潮音は気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。光瑠はダンスもなかなか上手で、潮音は光瑠にリードされっぱなしだった。


 潮音のそのような様子は、紫の目にも明らかなようだった。通しの練習が一段落すると、紫は潮音に声をかけた。


「潮音、自分はちゃんと劇をやれるかやっぱり心配なの?」


 潮音は首を縦に振りながら言った。


「ああ。自分はみんなに比べて全然演技もできなくて、こんなことで大丈夫なのかなって…」


 しかしそこで紫は語調を強めていた。


「潮音、もっとしっかりしなさい。あなたは森末先生のもとでバレエだってやってきたし、ここまで練習について来たんでしょ。私が潮音がジュリエットの役ができないと思ったら、潮音にそれを勧めたりはしてないよ。それにこの劇には出演している私たちだけじゃなくて、桜組のみんなが音響や照明、衣裳や舞台道具作りで協力してるのよ。そこまでやっておきながら、いいかげんな態度で舞台に上がったりしたら許さないからね」


 そこで光瑠が、紫をなだめた。


「紫、ちょっときつすぎるんじゃない? 藤坂さんだって一生懸命やってるよ」


 しかし潮音は、光瑠のとりなしを断った。


「…峰山さんの方が正しいよ。テストで悪い点取ったり、スポーツの試合で負けたりしたとき、『一生懸命やりました』なんて言ったら許してもらえるのかよ」


 潮音のその態度には、光瑠も困った顔をした。そこで紫は気まずくなりかけた空気を払拭するために、潮音に気分転換をすすめた。


「ほんとに潮音って強情なんだから。そこまで言うなら、楓組も別の部屋で練習やってるみたいだから見に行ってみる?」


「私も一緒に行くよ。楓組にもあいさつをしておきたいからね」


 その紫の提案には、光瑠も従うことになった。


 潮音が紫に連れられて廊下に出ると、それぞれの教室では部活や同好会、クラスの展示や出し物の準備がたけなわだった。紫もそのような生徒たちに対して、生徒会の副会長として気さくに声をかけていた。


 しかし生徒たちの間にも、高等部の生徒会副会長になった紫や、バスケットボール部で活躍している光瑠に対して、熱い視線を向けている者もいた。特に中等部の生徒たちの間では紫と光瑠は憧れの的であるようで、この二人が劇に出演すると聞きつけた生徒が積極的に集まって声をかけてきた。それには一緒にいる潮音の方が、気後れを感じずにはいられなかった。


 そうしている間に、潮音たちは楓組が練習をしている部屋の前まで来ていた。その教室の外まで、主演のヒースクリフを演じる愛里紗の声が聞こえてきた。


 部屋の入口に紫たちの姿があるのを見ると、愛里紗は少しいやそうな顔をしたものの、それでも潮音たちの前でヒースクリフの役を演じてみせた。しかし潮音は、その愛里紗の情感がこもったヒースクリフの演技を見ると、しばらく声を出すこともできなかった。それほどまでに愛里紗は、不幸な生い立ちのもとで育ち、激しい恋の炎を胸に復讐の鬼と化したヒースクリフの役を見事に演じていた。


 劇の練習が一段落するころには、潮音はただ呆気に取られていた。その潮音の様子には、むしろ愛里紗の方が気になっているようだった。


「いったいどうしたのよ」


 そこでは紫が口を開いた。


「この子がちょっとスランプになっているようだから、気休めに来たの」


 それに愛里紗も答えた。


「藤坂さんが主役のジュリエットをやるんでしょ? プレッシャーを感じて当然よ。そのへんの心のケアをなんとかするのも、峰山さんの仕事じゃないかしら」


 しかし潮音は、そこで口を開いていた。


「私…さっきも榎並さんの演技を見てて、本当にすごいと思いました。うちの桜組だって、峰山さんも吹屋さんも自分よりずっと劇がうまいし、どうすればみんなに追いつけるんだろうって…」


 そこで愛里紗は、潮音のぐずぐずした態度を一刀両断に切り捨てた。


「そりゃあんたが、ちょっとやそっと練習したところで峰山さんたちに追いつけるわけがないじゃない。でもそこは、無理に人に追いつこうなんて思わないことね。あんたはあんたらしく役を演じるのが一番だと思うよ」


「その『あんたらしく』って…」


「そんなこと、いちいち人に聞かなくたってあんた自身が一番よくわかってるはずだと思うけど」


 その言葉を聞いて、潮音は気恥ずかしい思いがした。そこで紫が、そっと潮音に声をかけた。


「ともかく明日が本番だから、今日は家に帰ってゆっくり休みなさい。一人でウジウジ悩んでたって何にもならないよ」


 そしてそのまま紫は、潮音をそっとなだめると愛里紗のそばを立ち去った。

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