第四章・漣の場合(その6)

 そして問題の日曜日が来た。秋の空は青く澄んで晴れわたり、穏やかな陽光が部屋の中にまでさしこんでいたが、潮音は服も秋物のニットに清楚な感じのロングスカートと決めると、覚悟を決めて自分が男の子だった頃の写真を収めたアルバムを持っていくことにした。確証はないものの、潮音は漣ならば自分が本当のことを全て打ち明けたとしても、偏見を持たずに受け入れてくれるのではないかと心の底で感じていた。


 潮音が家を後にする間際、綾乃が声をかけた。


「あんた、ほんとにその若宮さんって子に会って自分のことを話すつもりなの?」


 潮音は綾乃に、漣のことについて前もって説明していた。


「…ああ。あの子だったらほんとのことを話しても、変な顔をせずにそれをちゃんと聞いてくれる。なんとなくだけど、そんな気がするんだ。あの若宮さんって子からは、オレが中三のときにいきなり女になって、どうしていいかわからないまま戸惑っていた頃と同じようなものを感じるんだ」


 そこで綾乃が、潮音に釘をさした。


「あんたは人に自分の話を聞いてもらうことばかりを期待していないで、あんたこそ人の話をちゃんと聞かなきゃダメだよ」


「そんなこと、言われなくてもわかってるよ」


「たしかにあんたは、若宮さんって子の悩みや問題そのものを取り除いてやることはできないかもしれない。でもそばにいて、話を聞いてくれる人がいる。それだけでだいぶ違うんじゃないかしら」


「…そうだね。姉ちゃんと話しているだけでも、気が楽になったよ。どうもありがとう」


 潮音は綾乃に背を向けると、ドアを開けて秋の陽が照らす通りへと足を踏み出した。



 潮音はあらかじめ、駅で漣と待ち合わせて一緒に流風の住んでいる屋敷に向かうことにしていた。潮音が約束の時間より少し早めに駅に着いて改札口のそばで待っていると、しばらくして電車が着き、ホームから階段を下りてきた人波の中には漣と並んで花梨の姿もあった。潮音が手を上げて漣に合図をすると、漣と花梨もそれに気がついて潮音の方に寄ってきた。


「富川さんも一緒に来たんだ」


「この子が休みの日に友達の家に誘われるなんてこと、今までなかったからね。心配だから私もついて来たの」


 潮音は花梨の、相変わらずの明るく元気な様子には内心でほっとさせられた。


 しかし花梨がかわいらしい感じのする私服を着ていたのに対して、漣はパーカーにはき古したジーンズ、薄汚れたスニーカーと、今一つあか抜けない装いをしていた。潮音がやや当惑気味にその二人の対照的な様子を見比べていると、花梨がじれったそうに口を開いた。


「せっかく流風先輩の家にお呼ばれしたんだから、漣ももう少しおしゃれしたらいいのに」


「でも若宮さんには若宮さんの趣味や好みがあるんだから、あまりそんなことは言わない方がいいよ」


 潮音は花梨をたしなめるように言った。


 そして三人は潮音の案内で流風の住む屋敷へと足を向けたが、潮音はその途中も少し気が重かった。潮音にとって、自分の運命を一変させるきっかけとなった鏡のある流風の屋敷に行くのには、やはりどこか心の底でわだかまりが抜けなかった。そこで潮音は、ふと息をついて青く澄んだ秋の空を見上げながら感慨に浸っていた。


──あの日からもうすぐ一年が経とうとしてるのか。


 そう思うと潮音は不思議な気分になった。潮音にとって、自分が男の子だった日々ははるか遠くのように思えて、むしろまだあれから一年も経っていないことの方が意外に感じられた。


 そうしているうちに、潮音たちは神社の参道の前を通りかかった。


「この神社ではもうすぐ、十月のはじめになると秋祭りがあるんだ。子どものころは毎年この季節になると、流風姉ちゃんやうちの姉ちゃんと一緒にお祭りを見に行ったよ」


「潮音って家にもお姉ちゃんがいるんだ」


 潮音の話に興味深げに耳を傾けていたのは花梨の方だった。その一方で潮音は漣が駅で会ってからもあまり話をしようとしないので、思い切って漣にきいてみた。


「若宮さんって、いつも休日はどんなことしてるの? 何か趣味とか好きなことはないの?」


 すると漣は、やや気恥ずかしそうに口を開いた。


「休みの日には本を読んだり音楽を聴いたりしてるかな。好きなアニメなんかもあるんだけど…」


「だったら本やアニメのことでいいから、もっといろいろ話をすればいいのに」


 潮音の優しそうな顔は、かえって漣を気後れさせたようだった。そのような漣の様子を見て、花梨は息をついてやれやれとでも言いたげな顔をした。



 そうこうしているうちに、潮音と漣、花梨の三人は、昔ながらの街並みの中にどっしりと構えている、流風の家に着いた。花梨と漣も屋敷の構えの立派さに驚いたようで、きょろきょろと辺りを見回していたが、潮音はいざ流風の屋敷の玄関の前に立つと、いやおうなしに自分の運命を変えた秋の一日のことを思い出して、身震いがせずにはいられなかった。


 それでも潮音は大きく息を吸い込んで気持ちを落ちつかせると、覚悟を決めて流風の屋敷に足を踏み入れた。すると玄関口では、明るく陽気なモニカが潮音たちを出迎えた。


「いらっしゃい。こうして流風の学校の子が休みの日に家に来てくれるなんて、今までなかったわね」


 モニカの陽気さや元気さには、花梨までもが潮音の顔を見て苦笑いを浮べた。モニカのそばにいた流風も、すっかりモニカの存在感の陰に隠れてしまった感があったが、それでも流風は、潮音たちの方を向いて丁寧にあいさつをした。


「今日は家に来てくれてどうもありがとう。潮音ちゃんが駅からみんなを家まで案内してくれたのね」


 そしてモニカと流風は、潮音たちを居間に通すと、紅茶とケーキをはじめとするいろいろなお菓子を出してくれた。モニカは花梨と学校のことや流風と花梨が知り合うきっかけとなったボランティア活動、先ほどの文化祭のことなどの話題をあげながら談笑していたが、漣は今一つその話の輪の中に入るきっかけをつかめずにいるようだった。


「どうしたの? 若宮さんも何か話をすればいいのに」


 寡黙なままの漣の様子には、流風も気がかりなものを感じているようだった。そこで潮音は、やや重くなりかけたこの場の空気を振り払おうとするかのように、一同に声をかけた。


「あの…私、若宮さんと二人ではなしたいことがあるから、若宮さんと一緒に隣の部屋に行っていいかな」


 潮音のこの発言には、漣も少し驚きの色を見せたようだった。そこで潮音は流風に目で合図を送ると、流風も潮音の意図を理解して首を縦に振った。


「私も潮音ちゃんと一緒に行くわ。この場合、私もいた方が若宮さんにもわかりやすそうだしね」


 潮音はアルバムを入れたカバンを手にすると、漣や流風と一緒に居間の隣の和室に移り、ちゃぶ台を挟んで漣と向き合った。そこで潮音はさっそく、ちゃぶ台の上にアルバムを広げて、自分自身の小中学生のころの写真を漣に示してみせた。


 漣はアルバムの写真の中の男の子と、今目の前にいる潮音の姿を交互に見比べながら、明らかに当惑の色を顔に浮べていた。そこで潮音は、畳みかけるように漣に言った。


「この写真の男の子が、昔の私自身の姿だって言われたらどうする?」


 その潮音の言葉を聞いて、漣は多少は驚くようなそぶりは見せたものの、潮音が真実を打ち明けた他の人たちと比べて、事実を淡々と受け入れているように見えた。そこで潮音はかねてから感じていた「もしかして」という疑念がより深まったものの、漣を落ち着かせるとあらためて、事情を一つ一つ丁寧に漣に説明してみせた。


 自分は一年ほど前までは男の子だったこと、そしてこの屋敷の土蔵の中で古い鏡を見つけたときに、その鏡に封じられた力のために女の子になってしまったこと、それから高校の進路についてだいぶ悩みながらも、結局は女子として松風女子学園に入学することに決めたこと、そして今では女子校でみんなとなじもうと頑張っていること…。


 そこで漣は気づまりな表情をしながら、ちらりと潮音の隣にいた流風に視線を向けた。


「私もずっと悩んでいたの。あの日潮音ちゃんを私の家に呼んだりしなければ、潮音ちゃんは男の子から女の子になったりはしなかったんじゃないかって。でもこんなことで悩んでいてもしょうがないって、今でもこうやって前向きに頑張っている潮音ちゃんを見て思ったの。だから若宮さんも、悩みごとや相談したいことがあるなら、遠慮なくこの私でも潮音ちゃんでもいいから、何でも腹を割って話してみるといいよ」


 潮音と流風の話を聞いて、漣も覚悟を決めたように背筋を正すと、おもむろに口を開いた。


「さっきの潮音さんの話を聞いていて、ぼくも少し気が楽になりました。…実はぼくも、小学五年生のときに、男の子から女の子になってしまったんです」


 漣がはっきりと自分のことを打ち明けると、しばらくの間潮音と流風も目を伏せて口を開くことができないまま、重苦しい沈黙が古びた和室の中を漂っていた。潮音も漣と出会って以来、心の奥底ではずっと「もしかしたら」とは思っていたとはいえ、漣自身の口からあからさまに真実を突き付けられると、あらためてショックを受けずにはいられなかった。


 しばらくして潮音の隣にいた流風が、動揺の色を浮べながら神妙な面持ちで漣に話しかけた。


「よく話してくれたわね。今まで誰にも話せずに、つらい思いをしていたのかしら」


 その一方で潮音は、漣の方が自分より早く女の子になっていたということに対して、あらためて戸惑いを覚えていた。


「まさか私みたいな子が本当にいたとは…。もしよかったら、もっといろいろ話聞かせてくれないかな。いやなら無理に話さなくてもいいけど」


 潮音がそっと話すと、漣は黙ってうなづいた。

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