第四章・漣の場合(その7)

 漣は一呼吸おくと、自分は神戸の街から車で一時間あまり離れたところにある、緑豊かな田園の広がる田舎の町で生れ育ったと語り出した。


 しかし漣は、自分は小さな頃から、自分自身が周囲の子どもたちに対してどこか違う、そしてその輪の中に入ることができないとうすうす感じていたと話した。漣は友達と一緒に遊ぶよりも、本を読んでそこからいろいろなことに空想を巡らせたりする方が好きなタイプで、友達と話をしようとしてもなかなか話題を合わせることができず、幼稚園でも小学校でもクラスの中から浮いてしまうことがしばしばだった。そのことを気にした幼稚園や小学校の先生からも、もっと友達と一緒に遊ぶようにとよく注意されたが、漣にとっては自分の好きなことをしているだけで何も悪いことなどしていないなのに、なぜそのようなことを言われなければならないのかと疑問を抱かざるを得なかった。


 さらに漣は、自分はグズで泣き虫でスポーツも苦手な、「男らしさ」とは全く正反対の子どもだったと話した。遊ぶときも家に居る二人の姉と人形やゲームなどで遊ぶことが多く、そのことを気にした父親が近所のスポーツのクラブに参加させても、チームの足手まといになるばかりで、そこでいじめやしごきを受けてますますスポーツが嫌いになるという悪循環になっただけだった。そのような具合だから、学校でも乱暴でガサツな男子が嫌いで、クラスの悪ガキから「弱虫」とバカにされたり、いじめを受けたりしたこともしばしばあった。


 そのような漣の運命を一変させた出来事が起きたのは、小学五年生の秋のことだった。その年の漣は夏休みが明けた頃から体調がすぐれなかったが、医者が診断しても病状は何なのかと首をかしげるばかりだった。そして十月に入ったある日、漣は朝目を覚ますと高熱を出して体中を重苦しさが襲い、ベッドから起上ることすらままならなくなってしまった。そのまま漣は入院することになったが、漣が病室で数日間の眠りから目を覚ますと、その間に髪はするすると伸びて、体は女性へと変化していた。


 漣が女の子になったことに対して両親は当惑していたが、もともと男の子の中にいることに対して居心地の悪さを感じていた漣は、それによって自分が多少なりとも解放されたように感じたことも事実だった。たしかにトイレで用を足すときや、下着も女子用のものをつけなければならなくなったときは当惑せざるを得なかったが。


 しかし漣が再び小学校に通い出すと、漣のクラスには波風が立ち始めた。漣の通っていた小学校にはもともと制服があったが、漣がこれまでのワイシャツにズボンではなく、ブラウスにスカートといういでたちで登校するようになると、学校の男子も女子も漣に不審なものでも見るようなまなざしを向けるようになった。いちおう学校からは、漣は男子から女子になったのだから、そのことで漣をいじめたりからかったりしないようにという注意はなされていたものの、むしろそのためにクラスの生徒たちは漣のことを敬遠して遠ざけているようにすら感じられた。


 いちおう漣の方でも、クラスの女子に話しかけようとしたことはあった。しかし漣はこれまで男子の輪に交じってスポーツや悪ふざけをすることに居心地の悪さを感じていたとはいえ、いざ女子の輪に交じろうとしても、女子たちとは話題や感じ方が合うはずもなかった。


 そのようにしているうちに、漣は学校で生徒みんなの視線を受けることさえプレッシャーに感じられるようになり、次第に学校に足が向かなくなっていった。自分は男子に交じることもできないし、女子になりきることもできない…この悩みがますます漣を追い詰めていくようになった。


 そのような漣の様子を見た漣の両親は、漣に神戸に住んでいる伯母のところに引っ越して、そこで新たに学校生活を始めてはどうかと提案した。漣にとって両親や二人の姉のもとを離れることには抵抗がないはずがなかったが、それでも今の学校に自分の居場所はないことを思うと、漣もそれに同意するほかはなかった。


 そして小学六年生から、漣は神戸の街中にある伯母の家に引っ越してそこで暮らすことになったが、転校先の学校の子たちもどこかボーイッシュな雰囲気をたたえた漣のことが気になるようだった。漣が転校した先の学校では制服はなかったので、漣はいつもボーイッシュな装いで通していたが、しかしそれでも小学六年生にもなると、漣もブラジャーをつけなければならないようになってくる。漣が伯母に連れられてジュニアブラをはじめて買いに行ったときには、潮音はやはりそこから逃げ出したいような衝動にとらわれた。


 さらに漣の伯母は、漣に布引女学院を受験することを勧めた。漣の伯母は布引女学院の卒業生であり、漣の学力では十分私立の中学にも行けると判断したこともあるが、漣にとって布引女学院のような落ち着いた女子校の方が、自分は女性であるという現実と落ち着いて向き合うことができると考えたからだった。


 漣はもちろんその伯母の提案に対して、最初はもちろん、自分がまさか女子校に行くことになるなんてという戸惑いを覚えずにはいられなかった。しかし漣自身も、その頃になると自分は女子として生きるしかないのだろうかと徐々にではあるが覚悟ができつつあった。さらに漣は、これから先いやがおうでも自分の体が女性らしくなっていくにつれて、それに周囲の男子がどのような視線を向けるようになるかと思うと、自分自身がこれまで男子だっただけに身震いがした。そこで漣は、布引女学院を受験するようにという伯母の勧めを受け入れ、受験にも合格して中学から布引女学院に進学することになった。


 しかし漣にとって、本当の試練は布引女学院に進学してからだった。布引の制服はお嬢様学校っぽくてかわいいと周囲でも評判だったが、漣はその制服が家に届いたときには、小学校で女子の制服を着て登校したときの周囲の目を思い出して思わず身を引いてしまった。しかしそこで漣は、これから行くことになる学校では自分に奇異の目を向ける人はいないと思い直して、ようやく制服を手に取ることができた。それでもスカートの感触になれるのには時間がかかったし、私服はずっとボーイッシュなパンツスタイルで通していたが。


 さらに中学に入学してからも、漣は女子たちの輪に溶け込むきっかけをなかなかつかめずにいた。漣は休み時間にも友達との会話に加わろうともせず、いつも教室の片隅にぽつんと一人でいることが多かったが、そのような漣の様子を気にして、中学一年生の中間考査を過ぎたころになってから漣に対して積極的に声をかけてきたのが富川花梨だった。


 最初は花梨の明るく積極的な様子に戸惑いを感じていた漣も、やがてぽつりぽつりとながら花梨と会話ができるようになっていった。そしてどこの部活動にも入らず、それに興味を示そうともしない漣に、花梨は一度学校が行っているボランティア活動に参加してみてはどうかと提案してみた。もともと布引女学院はボランティア活動にも力を入れている学校だったが、漣は花梨に誘われるままに老人ホームや障がい者の施設などを訪問するようになった。そこで漣は、学年が一つ上の流風とも知り合いになることができたのだった。


 しかしそれでも、漣は学校の生徒たちとは距離を取っていた。そのような漣に転機が訪れたのは、文化祭に「銀河鉄道の夜」の劇を上演することが決ったときだった。もともと本を読むのが好きだった漣にとって、「銀河鉄道の夜」は好きな話だったが、ここで漣に主演のジョバンニの役を演じるように勧めたのは流風だった。漣は最初こそ尻込みしたものの、なんとかしてカムパネルラ役の流風の協力もあって、なんとかしてジョバンニの役を演じ切ることができた。その体験は、引っ込み思案だった漣の心をも動かしたようだった。



 漣は話を終えるとき、自分に対しても変に分け隔てすることなく接してくれた花梨や流風、そして自分の話を最後まで聞いてくれた潮音に対する感謝の言葉を忘れなかった。しかしそれでも、流風も潮音も、漣の話を最後まで一通り聞いた後では、しばらく口を開くことができなかった。それどころか、いつの間にか花梨とモニカもいつの間にか漣のそばに来ていて、漣の話に聞き入っていた。


 やがて重苦しい沈黙を振り払うかのように、流風がそっと漣の手を取って口を開いた。


「よく話してくれたわね。今までこのことを誰にも打ち明けられなかったのはつらかったでしょうに。私だって潮音ちゃんがこんなことになるまでは、そんな話を聞いても信じられなかったと思うよ」


 しかし潮音は、漣の話を聞いていて話の内容がますます自分の心に突き刺さるように感じていた。自分と同じ困難や苦悩を抱えてきたのは自分だけではないと感じると、潮音の目尻にはいつしか涙が浮んでいた。


「オレは女になってからまだほんの一年ほどだけど、漣はもう小学生の頃から五年くらいもこんな思いをしてきたんだね」


 潮音のこの言葉を聞いたとき、漣は自分の心の中に押しとどめていた感情が、一気にあふれ出すのを感じていた。漣はそのまま潮音の胸元で、両目から涙を流しながら、喉の奥からこみあげてくる嗚咽をおさえていた。その様子を見た流風やモニカ、花梨も皆涙で瞳を濡らしていた。


 やがてそれが一段落すると、モニカが明るい声で漣に声をかけた。


「漣ちゃんももう一人でクヨクヨ悩んだりせんことやね。潮音ちゃんも流風もおるんやから、悩みごととかあったら遠慮せんと相談したらええよ」


 そこでなんとか話がまとまると、潮音たちは漣や花梨と一緒に帰宅することにした。三人で駅に向かう途中で、漣がぼそりと口を開いた。


「藤坂さんって…水泳部に入っているのですか」


「ああ。私だって自分がいきなり女になってしまったときにはどうすりゃいいか迷ってばかりだったけど、そのときプールで泳いでみて自分自身を取戻すことができたようなきがしたんだ。泳ぎに男も女もないからね」


「…藤坂さんは勇気があるんですね。ぼくなんか…水着になるだけでもいやなのに」


「漣もそんなかしこまった言葉遣いする必要なんかないよ。名前呼ぶのだって『潮音』でいいからさ」


 潮音に言われると、漣はますます当惑したような表情を浮べた。潮音は駅で漣や花梨と別れてからも、漣は自分と同じだからこそ彼女の閉ざされた心の鍵を開けるのは容易ではない、むしろ彼女とは慎重につき合わなければならないかもしれないと感じていた。

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