第四章・漣の場合(その5)
布引女学院の学園祭が終り、九月も終りに近づくと、暑さも一段落して街を照らす光も柔らかさを増していった。その中で潮音は勉強や劇の練習に忙しい日を送っていたが、その間も潮音の脳裏からは、「銀河鉄道の夜」の劇でジョバンニの役を演じたときの漣の表情がずっと離れなかった。漣が文化祭のときに言った、「話したいこと」とは何なのかと潮音はいぶかしんでいたが、そうなると潮音の心から「もしかして」という疑念が抜けなかった。それでも潮音は、自分の身に起きたことはそうそうあるようなことではないと思っていたから、少々強引にでも「まさか」と思い込むことによって、心の中の疑念を打ち消そうとした。
潮音はこのような悶々とした気持ちを抱えながら過ごしていても仕方がない、どこかで気持ちを切り替えなければならないということはわかっていたものの、直接漣に会って自分の疑念を問いただすほどの勇気はなかった。そのような心の迷いは身振りにも表れるようで、潮音はある日の放課後にバレエの教室に通っても何度かミスをした。そのような潮音の様子を見て、紫は調子が悪いか、何か気がかりなことがあって練習に集中できないようなら、練習に参加せずに見学するように言った。
バレエの練習が一段落すると、紫だけでなく一緒に練習に参加していた流風までもが心配そうな顔で潮音に寄ってきた。
「潮音ちゃん、松風の文化祭で劇に出ることになって、練習で大変なんでしょ? きついようだったら、バレエのレッスンは少し休んでもいいよ」
紫も気づまりな顔で潮音に声をかけた。
「流風お姉ちゃんの言う通りよ。あまり無理して練習に参加して、ケガなんかしたらバレエどころじゃなくなるよ」
しかしここで、潮音は紫に向かって首を振った。
「紫、流風姉ちゃんに少し話したいことがあるんだ」
紫が心配そうな表情で潮音の方を振向きながらレッスンルームを後にすると、レッスンルームの中には潮音と流風が残された。潮音はさっそく流風に話しかけてみた。
「流風姉ちゃん…こないだ布引の文化祭の劇でジョバンニの役をやっていた若宮さんと、いっぺんちゃんと会って話がしてみたいんだ」
流風は潮音から唐突に言われて、一瞬困惑の色を浮べた。
「潮音ちゃんはそんなにあの子のことが気になるのかしら」
「なんかあの子のことを見てるとほっとけないんだ。この前の『銀河鉄道の夜』の劇に出たときだって、あの子は何か『悩み』なんて言葉では表しきれないような重いものを抱えていて、それがあの劇の中のジョバンニに重なって見えたんだ」
その潮音の言葉を聞いて、流風は神妙な面持ちになった。
「潮音ちゃんは自分自身が大変な思いをしてきたからこそ、あの子の気持ちがわかるのね」
そう言われて潮音は、いささか気恥ずかしそうな顔をした。
「『大変』なんてほどじゃないけどね」
潮音が答えると、流風はさらに言葉を継いだ。
「あの若宮さんって子は私より学年は一つ下だけども、あの子のことをはじめて知ったのは、私が中二のときのクリスマスだったわ。そのころの若宮さんは入学してから一年もたっていなかったけど、クラブも何も入らず、クラスの中でも孤立気味だったから、そのことを心配した富川花梨ちゃんが、あの子をボランティア活動に誘ったのだけど…。これからボランティアにはちょくちょく参加してるけど、そこからもっといろんなことを話せるような仲間でもできたらいいのにね」
その話を聞いて、潮音はやや顔を曇らせながらぼそりと口を開いた。
「私だって自分が女になってからしばらくの間は、誰にも話しかけてほしくなかったし、全ての物事から目を背けていた。でもそんなことしてたって何もならないってわかったから…」
潮音の話を聞いて、流風はますます困惑の色を浮べた。
「潮音ちゃんはあの子が自分と同じだと思うわけ?」
「考えすぎだということはわかっている。でも、あの子を見ていると、なんか直感的にほっとけないものを感じるんだ」
潮音のきっぱりとした口調を聞いて、流風もどこか納得したようだった。
「わかったわ。潮音ちゃんがそこまで言うなら、私の方でも若宮さんに話してみるわね。それで潮音ちゃんがほんとに若宮さんと友達になれて、あの子の力になれるならいいけど」
そこで流風は、潮音を誘ってレッスンルームを後にした。潮音が着替えを済ませて、帰り支度をしている間に流風が声をかけた。
「私…潮音ちゃんと一緒にバレエの練習ができるのももうちょっとかもしれないよ」
流風に言われて、潮音は少し不安げな面持ちになった。
「そうなんだ…流風姉ちゃんもやはり来年は大学受験だものね」
「大学生になってもバレエは続けたいと思ってるんだけどね。でも大学だって、東京か京都の学校に行きたいと思ってるんだ。…入れたらの話だけどね。そうなったらほんとに潮音ちゃんと一緒にバレエをやれるのは夏休みくらいになってるかもしれないね」
「その頃になったら、私の方が受験で大変だから…でも私はまだ、どこの大学に行きたいか、いやどこの大学に行けるかなんて全然決めてないんだ。自分はこのところ、目の前の現実になじむのが精一杯だったから…。私の知っている子には、すでに弁護士になりたいという目標を持って、東大目指してる子だっているのに」
そこで潮音は、心の中で昇のことを思い出していた。しかし流風はそこで、不安げにしている潮音を慰めるように言った。
「焦ることなんかないよ。潮音ちゃんは大学入試まであと二年半あるんだから、その間にいろんなことをやったり勉強したりして、そこから自分は何がやりたいか、何になりたいかじっくり考えたらいいよ」
潮音はあと少しで流風と別れることになるかもしれないという現実に対して、心の底で一抹の寂しさや不安を感じていたことは事実だった。しかしそこで潮音は、こればかりは仕方がないことだと思い直して、このような感情を打ち消そうとした。
バレエ教室を出て潮音と別れる間際、流風は潮音に声をかけた。
「若宮さんのことだったら私も話してみるからね。これで若宮さんも何か悩みごとでもあるなら、それを打ち明けてくれたらいいんだけど」
潮音は帰宅してからも、漣ともし出会えたとして、果たして自分が漣のことを助けることができるのだろうかと不安を覚えずにはいられなかった。そこで潮音は、覚悟を決めて自分が男の子だった頃の写真を取り出して、しばらくの間眺めてみた。
写真の中の潮音は、家族や友達と一緒に無邪気な笑顔を浮べていた。その写真を眺めているうちに、自分は今でもこのような笑顔を浮べることができるだろうかという疑念を抱いていた。
そして潮音は、心の中で一つの決意を固めていた。
──あの子には全てを、隠すことなく全て打ち明けよう。こんな自分でもなんとか頑張っていることを知ってもらうだけでも、あの子にとって力になるならば…。
そして潮音は、アルバムをそっと閉じた。
その翌日の放課後、文化祭の劇の練習が一段落したころになって、潮音のSNSに流風から連絡が入った。その内容は、漣が次の日曜日に潮音に会うことに同意したというものだった。しかもその場所は、流風の自宅に決まったとコメントされていた。流風によると、漣はこれまで休日に友達の家に遊びに行ったことなどないようで、流風の家を訪ねることにも躊躇の色を示していたようだったが、それをなんとか漣に同意してもらったということだった。
しかし潮音は、流風の家こそが自分の運命を変えた現場なので、むしろおあつらえ向きの場所だと感じた。潮音は心の中で覚悟を決めると、漣に対して何を話すべきか、あらためて考えこまずにはいられなかった。
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