第四章・漣の場合(その2)

 文化祭の演目が決まって以来、桜組の雰囲気はよりざわついたものとなっていった。配役をはじめとして、衣裳や大道具、音響や照明などの担当は九月の半ば近くのホームルームであらためて決定することになったとはいえ、琴絵は休み時間も様々な本とにらめっこしながら、脚本づくりに苦慮していた。潮音も「ロミオとジュリエット」の本を読んで、あらすじと登場人物くらいは把握しておけと紫から言われていたものの、文庫本を借りても最初のページからちんぷんかんぷんで、登場人物の名前やその相関関係を覚えるのすら一苦労だった。


 そのような潮音の苦労をさしおいて、クラスの中ではもっぱら、主役のロミオとジュリエットの役を誰が担当するのかが関心の的になっていた。下馬評ではロミオを光瑠、ジュリエットを紫が担当するのではないかという予想が大本命だったが、脚本を担当している琴絵は、この予想にあまり納得していないように見えた。


 そんなある日、潮音は琴絵に声をかけてみた。


「寺島さん、このところちょっと無理しすぎじゃないの? 休み時間なんか眠そうにしていて、このところあまり寝てないの、見ててもわかるよ。夜くらいちゃんと寝た方がいいよ」


 潮音にそこまで言われると、日ごろは落ち着いた琴絵も、少し決まりが悪そうにしていた。


「うん…それはわかってるんだけど、原作をもとにして脚本書くのはなかなか難しくてさ。気がついたら真夜中になってたなんてしょっちゅうだよ」


「ところで寺島さん、配役は誰がいいと思う?」


「それは私が決めることじゃないわね。ロミオにしてもジュリエットにしても、その役をやりたいと思う人がやる、それだけの話じゃないかしら」


 そこで潮音は、紫から自分がジュリエットの役に立候補してみてはと勧められたことを琴絵に明かした。その話を聞いても琴絵の態度は、あくまで落着き払っていた。


「紫は冗談でそんなこと言うような子じゃないわね。何度も言うけど、決めるのは藤坂さん自身だわ。やりたいと思うならやればいいし、いやならいやとはっきり言うことね」


 琴絵が突き放したような態度を取ったので、潮音はますます不安になった。


「寺島さんは私にジュリエットの役ができると思うの?」


 そこで琴絵は、かすかに笑みを浮べて言った。


「私は十分できると思うよ。藤坂さんは高等部からうちの学校に入って、何でも体当たりでぶつかっていって、学校の雰囲気を変えてくれた。その気持ちで取りかかってみれば舞台だって生き生きしてくるし、そうなると桜組のみんなも藤坂さんのことを認めてくれるんじゃないかな」


 そこで潮音は、口調を変えてみた。


「寺島さんにも話したけど…オレは一年前まで男だったんだぜ」


 しかしその潮音の言葉を、琴絵は一刀両断に切り捨てた。


「そんなの関係ないでしょ。それを言うんだったら、歌舞伎だって男の俳優が女の役をやるのよ。演技の上手下手に男も女もないわね。むしろ藤坂さんみたいな人がジュリエットをやった方が、今までなかったような目新しい劇ができるかもしれないよ」


 琴絵に言われると、潮音はますます当惑の色を深めていった。潮音は暁子にも相談しようかとも思ったが、そうしたところでまたつれない態度を取るだけだと思ったので、やめておくことにした。



 そのような潮音の戸惑いをよそに、文化祭の劇の配役を決めるホームルームの当日が来た。潮音はホームルームの始まりから、ずっと緊張したままだった。


 教室の前の黒板には、配役が次々と書き出されて、それぞれの役について脚本を担当した琴絵が簡単な解説をした。それと同時に、生徒たちの間にもざわめきが起きていた。


 配役を決めるのは、まず主役のロミオからだった。席についている生徒たちの間からはすでに、小声で光瑠を推す声がささやかれていたが、実際に進んでロミオの役に立候補する生徒はいなかった。そこで光瑠が、桜組の委員長として司会をやっているにもかかわらず、仕方がなさそうに自ら声をあげた。


「だったら私がやるわ」


 その瞬間、クラス中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。それを見て琴絵は、やれやれとでも言わんばかりの顔をしながらため息をついていた。


 その次はジュリエットの番だ。しかし潮音が周囲を見渡しても、自分から積極的にジュリエットの役に名乗りを上げようとする生徒はいなかった。


 そのときクラスの間から、キャサリンをジュリエットの役に推薦する声が上がった。しかしキャサリンは、ここは英国からの留学生である自分より、日本人の生徒がジュリエットの役をやった方がいいのではないかと言ってその推薦を断った。ほかに何人かの生徒にクラスのみんなの目が向いたが、その子たちも部活の出し物があって忙しいと言っていい顔をしなかった。


 そこで潮音は、ちらりと紫の顔を見た。すると紫は、潮音の立候補を勧めるかのように、潮音の顔を見て目配せをした。そこで潮音は軽く息を吸い込むと、清水の舞台から飛び降りるかのような心地で、思い切って手を上げてみた。


 潮音がジュリエットの役に立候補したとき、クラスの生徒たちの間でどよめきが起きた。一年桜組の生徒たちは潮音の無鉄砲な行動に振り回されることもこれまでたびたびあったとはいえ、今回も潮音が積極的にジュリエットの役に名乗り出たことに対して、やれやれとでも言いたげな表情をしていた。


 そのとき、クラスの中から声が上がった。声の主は長束恭子だった。


「すみません。ここは藤坂さんより、バレエの経験も豊富な峰山さんの方がいいんじゃないでしょうか」


 恭子のその言葉には、潮音も一瞬気まずそうな顔をした。しかしそこで紫は、恭子をたしなめるように言った。


「長束さん、ここは私がジュリエットをやるより、藤坂さんがジュリエットをやった方が、今までになかったような目新しい劇になるんじゃないかしら。藤坂さんはこれまでいろんなところでクラスを盛り上げてくれたから、適任だと思うけど」


 恭子はどこか煮え切らない表情をしながらも、紫にそこまで言われた以上は返す言葉がないようだった。さらに紫の言葉には桜組の生徒たちもみんな納得したようで、ほかに立候補者も現れなかったことから、ジュリエット役はすんなり潮音に決定した。潮音はそこでちらりと暁子の顔を見たが、暁子はただ黙ったまま何かを考え込んでいるようだった。


 それに続いてホームルームでは、紫はロミオの父親のモンタギュー、美鈴はジュリエットの親戚のティボルト、恭子はジュリエットの乳母と、次々と担当が決められていった。潮音はここであらためて暁子を見返したが、暁子は劇の配役に立候補する気配はなかった。配役に続いて音響や照明、道具などの担当が決まっていく中で、潮音は暁子が、どこか気づまりな表情をしていることが気になり始めていた。


 ホームルームが一段落すると、美鈴がさっそく潮音の方に来て快活そうに声をあげた。


「藤坂さん、ようジュリエットを引受けてくれたな。そりゃ峰山さんがジュリエットをやってもええんやけど、峰山さんばかりがヒロインをやってもおもんないからな。むしろ藤坂さんがジュリエットを引受けたおかげで、クラスのみんなもやる気になったような気がするよ」


 さらにその隣には恭子もいた。


「そりゃあたしは紫がジュリエットをやるの見たかったけど、こう決まった以上はしゃあないな。あたしもできる限り協力はするけど、そのかわりジュリエットの役は大変やで。紫もビシバシ厳しくいきそうやから、覚悟しとくんやな。」


「ああ、劇のことはわかんないことばかりだからさ…そのときは頼んだよ」


「困ったときはうちに任しとき」


 潮音と恭子の様子を、美鈴はご機嫌そうな顔で眺めていた。


「藤坂さんと長束さんって日ごろはケンカばかりしとるけど、これは『ケンカするほど仲がいい』ってやつかもしれへんな」


 美鈴の言葉に潮音と恭子は、互いの顔を見合せながら当惑の色を浮べた。その間にも潮音はほかにも何人かの生徒から声をかけられ、気恥ずかしそうにそれに答えるしかなかったが、そこにロミオの役に決まった光瑠が現れると、皆が一斉に静まり返った。


 光瑠はほのかに笑みを浮べると、潮音にそっと声をかけた。


「まさか藤坂さんがジュリエットの役になるなんて思わなかったわ。でも藤坂さんならきっと大丈夫だと思うよ。だからクラスのみんなと一緒に、文化祭がんばろうね」


 松風の王子様的存在として生徒たちから一目置かれている光瑠からあらためて声をかけられると、潮音はすっかり冷静さを失って取り乱してしまった。そこで光瑠が握手を求めて潮音もそれに応えると、それを囲んでいた生徒たちが再びざわめき立った。クラスの雰囲気が文化祭に向かって盛り上がっていることは、潮音にもひしひしと感じられた。


 そして潮音が帰宅の途につこうとすると、暁子が教室の入口で潮音を出迎えた。


「よくやったね、潮音。あんたのそうやって何でも積極的に取り組むところは…正直言って偉いよ」


「暁子はクラスの劇に出ないのかよ」


「あたしは手芸部の方でバザーの準備とかで忙しいからね。大道具を作るのくらいだったら協力できるかもしれないけど」


「どうしたんだよ、暁子。なんか元気なさそうだけど」


「いや…そんなことないよ」


 そして潮音と暁子が一緒に校舎を出ようとしたところで、優菜から声をかけられた。


「潮音、桜組の劇で主役になるんやって? もう噂になっとるで。すごいやん」


「優菜の楓組は何をやるんだ?」


「うちらは『嵐が丘』という劇をやることになったんやけど、主役のヒースクリフは榎並さんがやることになってね」


 潮音は「嵐が丘」というのはどのような話なのかよく知らなかったので戸惑っていると、背後でキャサリンの声がした。


「『嵐が丘』というのは、エミリー・ブロンテの『ワザリング・ハイツ』のことですね。日本でもこんなに知られているとは思いませんでした」


 潮音たちが気がつくと、いつの間にかキャサリンがそばに来ていた。


「『嵐が丘』のヒロインの名前も『キャサリン』という名前やね」


 優菜に言われると、キャサリンも照れくさそうな顔をした。


「この『嵐が丘』は、楓組の担任の山代先生が松風の生徒のときにヒースクリフの役をやったんやて。そのときは同級生やった吉野先生がキャサリンの役だったみたいやわ。で、そのときの写真見せてもろたら、ヒースクリフ役の山代先生がめっちゃかっこええんやから。今回も榎並さんのヒースクリフが楽しみやわ」


「榎並さんが主役やるってことは、うちのクラスも負けてられないな」


 潮音は愛里紗だったらその役についても全力でかかってくるだろうから、気を抜くことはできないと感じていた。


 しかし優菜の目にも、潮音が文化祭に向けて意気込んでいるのに対して、暁子がどこか元気がなさそうなのは明らかなようだった。


「アッコ、もしかして自分は潮音に比べて何やっとるんやろとか思ってない?」


 暁子はそれに対して答えようとしなかった。


「アッコもそんなことあまり気にせえへんと、自分のやりたいことやればええのに。手芸部ではバザーをやるんやろ? それに向かって頑張ったらええやん」


 優菜に元気よく叱咤されて、暁子はかすかながら元気を取り戻したようだった。


 暁子は潮音が、これまで暁子が知っていた潮音の姿から変っていくことに対して不安を抱いていることは、潮音の目にも明らかだった。それでも潮音は、暁子のそのような懸念を、心の中で断ち切っていた。


──悪いな暁子。オレも以前のままじゃいられないんだ。オレは自分の決めた道を前に向かって進むしかないんだ。そのためにはこの劇だって、自分から声を上げた以上は全力でやってみせる。


 しかしこうやって潮音が決意を固めている傍らで、キャサリンは怪訝そうな顔をしていた。


「あの…どうして日本の学校なのにシェイクスピアとかブロンテとかの劇をやるのですか? 日本の劇をやればいいのに」


 無邪気に質問するキャサリンには、潮音たちもみな答えに窮していた。

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