第四章・漣の場合(その1)

 九月になって新学期が始まると、夏休みの間は静まり返っていた松風女子学園の校舎にも賑わいが戻ってきた。潮音は夏休みの終盤は宿題に追われて疲れ気味だったが、暁子に押されるようにして桜組の教室に入ると、クラスメイトたちのはつらつとした表情が潮音を出迎えた。


 その中でも皆の注目を集めていたのは、桜組の中でもクールでかっこいいと評判の吹屋光瑠だった。光瑠はこの夏休みはバスケ部の練習に打ち込んだだけでなく、家族で沖縄のリゾートホテルに出かけて沖縄の海でスキューバダイビングを楽しんできたのだった。光瑠は周囲の友達にも、青く澄みわたったサンゴの海に潜ったときの感動を生き生きと話していた。その光瑠は浅黒く日焼けしていて、より健康的で生き生きとしているように感じられ、それがますますまわりの生徒たちの熱い視線を引きつけていた。


 さらに天野美鈴も、夏休みに家族で祖父母の家に行き、夜には満天の星空を見上げたり蛍が来たりするのを眺めたりするなど、のどかな田舎の自然を満喫したことを我先にと話していた。ただでさえ元気な、クラスのムードメーカーだった美鈴が、この帰省で一まわり元気になったことは周囲の目にも明らかだった。


 キャサリンも夏休みに祖父母と一緒に飛騨や北陸を旅行したり、英国に一時帰国したりしたときに撮った写真を周囲に見せていた。キャサリンがレンタルした着物を着て金沢の古い街並みを歩いている写真を見せたときは、だれもがキャサリンに着物も案外似合うのに驚いていたが、旅先で撮られた数々の写真からは、キャサリンが祖父母と共に水入らずの旅を満喫した様子がありありと伝わってきた。


 さらにキャサリンはロンドンで祖父母からもらったあでやかな浴衣を着てみると、両親も喜んだだけでなく、キャサリンの友達からも褒めてもらったと嬉しそうに話していた。特に読書家の寺島琴絵や、ロックに興味のある能美千夏は、キャサリンのスマホに映し出されるロンドンの風景を興味深げに見つめていた。


 そうやって夏休みの間の話題で皆が盛り上がっているところにクラス担任の美咲が現れて、学期初めのホームルームが始まった。


 ホームルームの議題は、まず間もなく予定されている下期の生徒会役員の選挙のことだった。生徒会の顔ぶれが改まって、十月になるとクラスの委員長も交代することになるが、そのときは誰が委員長になるのだろうと潮音は考えていた。


 次にホームルームの議題は、十月の末に開催される文化祭に、一年桜組の出し物を何にするかに移った。このような場合、ホームルームの司会はクラス委員長の光瑠が担当し、紫は聞き役に回るのが常だったが、ここで紫が少し気恥ずかしそうに手を上げた。紫の提案は、クラスでメイド喫茶をやろうというものだった。


 この紫の提案は、日ごろ真面目な優等生として振舞っていた紫のイメージとはかけ離れたものだっただけに、クラスのみんなが呆気に取られたような顔をした。紫は学校のみんなには黙っていたものの、体育祭の後で愛里紗から借りてメイド服を着たときの感触が忘れられなかったからだったが、そこですかさず、体育祭で愛里紗たちの楓組がやったことの真似ではないかという指摘が入った。さすがに紫も、それにはしゅんとしてしまった。


 そこで桜組の副委員長の天野美鈴が紫の向こうを張って、このように提案した。


「それやったらいっそ、逆に男装喫茶というのはどないやろ」


 その「男装」という言葉を聞いて、桜組の生徒の中には、教室の前で司会を行っていた光瑠に視線を向ける者もいた。その視線を感じると、光瑠はどこかいやそうな顔をした。しかし桜組の生徒の大半は、他人が男装しているのを見るのはともかく、自分自身が男装をするのにはどこか抵抗があるようだった。


 そのようにして、クラスの話がまとまりそうにないのを見た副委員長の寺島琴絵が一つの提案をした。


「それだったらいっそ、劇をやってみたらどうかしら。劇だったら男装やメイドだってできるかもしれないし」


 その提案にはクラスのみんなも納得しかけたが、そうなるとどのような演目で劇をやるのかが次の問題になった。潮音は一瞬、子どもの頃から絵本で読んでいた「人魚姫」が脳裏に浮んだが、高校生でこれを劇としてやるのは少し幼稚すぎるかもしれないと思った。


 しかしそこでも、琴絵ははっきりとした案を示してみせた。


「『ロミオとジュリエット』なんかどうかしら。たしかに劇の演目としては定番だけど、これくらいわかりやすい方がいいかもね」


 その提案には、桜組の生徒たちも互いに顔を見合せていた。そうなるとロミオをはじめとする男役も何名か出演しなければならなくなるからだった。中等部から松風女子学園に在籍している生徒の中には、昨年の文化祭で一学年上の松崎千晶が娘役の椿絵里香と共に男役を見事に演じ、学校中の評判になったことを思い出した者もいた。


 教室の中が少しざわついたのを見て、紫がなんとかして周囲の生徒たちをなだめた。


「誰がどの役をやるかとかは、焦らずにこれからじっくり考えて決めればいいんじゃないかしら。脚本だったら、寺島さんに任せとけばよさそうね」


 クラスの出し物としてほかに目ぼしい提案もなかったので、ここは琴絵の提案通り「ロミオとジュリエット」の劇をやることになった。


 ホームルームが終って放課後になってから、潮音は紫に少し気恥ずかしそうにたずねてみた。


「『ロミオとジュリエット』って名前はよく聞くけど、どんな話だったっけ」


 その潮音の反応を見て、紫は呆れたような表情をした。


「あんた、高校生でバレエをやってるんだったら、『ロミオとジュリエット』の内容くらい知らないと恥ずかしいよ。ちゃんと調べておきなさい」


 そう言って紫は、下校のついでに潮音を自分の家に誘った。潮音が紫の家を訪れるのは、五月にパーティーに行って以来だったが、紫の家の立派な造りには、訪れるたびに目を奪われた。


 潮音が紫に誘われて玄関に上がると、紫の双子の妹の萌葱と浅葱が姿を現した。二人とも潮音とはバレエ教室で顔なじみだったので、玄関で潮音の姿を見るなり笑顔で潮音の元に駆け寄ってきた。


「潮音お姉ちゃん、一緒に遊ぼうよ」


 潮音に声をかけたのは、双子の中でも元気で快活な浅葱の方だった。潮音もそれに笑顔でこたえようとしたが、それを紫がぴしゃりとおさえた。


「こら。潮音は遊びに来たんじゃないのよ」


 そこで潮音は、紫をなだめた。


「まあまあ。せっかくここまで来たんだからちょっとくらいいいじゃないか」


 そこで紫は潮音を居間に待たせると、「ロミオとジュリエット」のバレエのDVDを持ってきた。


「『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアの有名な劇だけど、バレエの演目にもなっていて、世界中のバレエ劇場で上演されているのよ。だから潮音もこのDVDをちゃんと見ておきなさい」


 そしてそのまま潮音は、「ロミオとジュリエット」のバレエのDVDを紫の家の居間で鑑賞することになった。登場人物やストーリーについて、ところどころ紫の解説が入ったが、潮音もいつしか舞台の上で繰り広げられる華麗なバレリーナたちの演技に目を奪われていた。


 DVDを見終わると、紫は潮音に感想を求めた。


「どうだった?」


「ロミオもジュリエットも最後に死んじゃうのだから、かわいそうだよね」


「でもこれだからこそ、ロミオとジュリエットの愛の強さが際立つんじゃないかしら。だからこそこの劇は何百年も上演されてきたのよ」


「ところでうちの文化祭でこれをやるとして、配役はどうすればいいのかな」


「それはみんなの意見も聞いて、じっくり考えていくしかないわね」


「ロミオの役なら吹屋さんあたりが似合いそうな気がするけど」


「そうかな。光瑠はああ見えて結構かわいいものとか好きだけどね。逆に光瑠がジュリエットでもいいかもしれない」


「紫こそジュリエットじゃないのかよ」


「わかんないよ。この辺琴絵がどのように脚本を書いて演出をするかにもよるけどね」


 そこで紫は、悪戯っぽい表情で潮音の顔を見つめながら言った。


「そうだ。いっそ潮音、あなたがジュリエットの役に立候補してみたら?」


「冗談はよせよ。こんなヒロインの役なんかやれるわけないじゃん」


「あら。案外似合うかもよ。潮音が気づいていないだけで。あなたもバレエやってきたんだからもっと自信持ちなよ」


 すっかりあわてふためいている潮音の様子を、紫はニコニコしながら眺めていた。そのときの紫の謎めいた笑顔が、かえって潮音を当惑させていた。


 そこに再び萌葱と浅葱が現れて、口々に声をかけた。


「潮音姉ちゃん、一緒にゲームしようよ」


 萌葱と浅葱の勢いにおされて、潮音もしぶしぶながらゲームのコントローラーを手にした。しかしゲームが進むうちに、潮音もいつしかゲームの画面にのめりこんで萌葱や浅葱と一緒にゲームに興じているのを見て、紫はため息をついていた。


 潮音はゲームのコントローラーをいじりながら、萌葱と浅葱に質問してみた。


「二人とも小学五年生だろ? 中学はやはりお姉ちゃんと同じ松風を受験するの?」


 すると二人とも元気に返事をした。


「うん。だから今から塾に通ってるんだよ。バレエもやってて大変だけど」


 潮音は萌葱の話を聞いて、小学生のうちから受験勉強をするなんて大変だなと思った。


「でも萌葱と二人で、松風もいいけど布引の制服だってかわいいよねって話してるんだ」


「もし萌葱と浅葱が松風に受かったら、私はもう高三だよね。一年しか一緒に学校に行けないけど」


 潮音がゲームをしながら萌葱や浅葱と親しげに話すのを、紫はどこか困ったものでも見るかのような表情で眺めていた。

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