第四章・漣の場合(その3)

 劇の配役が決まって以来、文化祭に向かってクラスの雰囲気もますます盛り上がっていった。そして潮音は、放課後も劇の練習に参加することが多くなった。勉強や部活と並行して練習に参加するのは大変で、発声練習で声がかれそうになることもあったが、それでも潮音は自分から役に名乗りを上げた以上は後に退くことができないと思っていた。


 しかし紫は、日ごろの温和な様子とは打って変って、劇の練習のときには厳しい表情を見せた。潮音はセリフに情感がこもっていなかったり、演技がうまくいかなかったりすると紫の厳しい声が飛び、何度もやり直しをさせられた。


 潮音が汗だくになって練習を終えると、恭子がそばに寄ってきてタオルとペットボトルに入ったお茶を差し出した。


「お疲れさん。なかなか大変やね」


 潮音が肩で息をしながらタオルで汗をぬぐっていると、恭子が言葉を継いだ。


「紫は中等部におるころから、こういうところでは妥協せんととことんまでやるタイプやったけど、まさかここまでやるとは思わんかったわ。でも紫は、人に対して厳しくする以上に、バレエでも勉強でも自分自身に対して厳しく練習しとるからね。そうやなかったら、学校のみんなもそこまであの子について来うへんよ」


 潮音は日ごろ紫がバレエの練習もストイックに打ち込んでいるのを目にしていただけに、恭子の言葉にも納得できるような気がした。そこで恭子はそこであらためて、潮音を向き直して言った。


「でも藤坂さんもようついてきとるやん。紫があんたに対して厳しくしとるのも、あんたにはそれに耐えられるだけの根性がある、厳しく鍛えたらそれだけ伸びるだけの素質があると見込んでるからやと思うよ。そのことについてはもっと自信を持ってええんやないかな」


「長束さんからそんなに褒められるとは思わなかったよ。学校入ったばかりの頃はケンカだってしたのに」


 潮音に言われると、恭子は頬を膨らませて露骨にいやそうな顔をした。


「もう…。そんな昔のこと言わんといてよ。たしかにあたしはあんたが学校入ったばかりの頃は、紫と変に仲良うしていけすかんと思ったこともあったけど、あんたは今までだいぶクラスを盛り上げてくれたと思うよ」


 潮音は恭子にそこまで言われると、気恥ずかしい思いがしてならなかった。


「私だって高等部からこの学校入ったばかりの頃は、中等部からうちの学校にいる子って、いかにもお嬢様って感じで自分がその輪の中に入れないような感じがして、はっきり言ってあまり好きじゃなかった。でも学校入ってから半年がたって、体育祭やいろんな行事をいっしょにやったりしたおかげで、そんなのは偏見だとわかったよ。今じゃだいぶみんなと打ち解けられるようになったし、そこから多くのものを学べたような気がするんだ」


「高入生は中入生となじむのに苦労する子もおるみたいやからね。その点でもあんたはよう頑張ったよ。でもあんたがまたあたしとテニスで勝負したいと言うてきたら、いつでも相手になったるで」


 恭子が自信たっぷりの表情で潮音を向き直すと、潮音は少し気まずさを感じた。


「遠慮しとくよ。テニスは長束さんほど得意じゃないからね」


 潮音が恭子との話を切り上げて、制服に着替えて帰り支度を済ませると、紫も帰宅の途につこうとしていた。そこで潮音が紫と一緒に学校を後にし、自宅の最寄駅で電車を下りると、ちょうどそこで布引女学院の制服を着た流風にばったり出会った。紫も流風と同じバレエ教室に通っていて面識があったため、紫は流風に丁寧にあいさつをした。


「潮音ちゃんも紫ちゃんとはいつもそうやって一緒に学校に通っているの?」


「いや…別にそういうわけじゃないけど」


 そこから潮音と流風は取りとめもない世間話を始めたが、その中で潮音は文化祭に向けて劇の練習が大変だと明かした。


「潮音ちゃんもいろんなことを頑張ってるみたいね。元気そうで何よりだわ」


 流風も潮音が元気に学校に通っている様子に安堵したようだった。そこで流風はさらに、潮音と紫に話した。


「うちの学校でも九月の終りに文化祭をやるの。そこで私も、『銀河鉄道の夜』の劇に出ることになったんだ」


「『銀河鉄道の夜』って、宮沢賢治ですね」


 流風が劇に出演すると聞いて、紫は目を輝かせた。


「潮音ちゃんや紫ちゃんも良かったら見に来ない?」


 その流風の誘いには、紫も積極的に身を乗り出した。


「いいですね。私たちとしても、布引の学園祭を見るといろいろと参考になることがあると思います」


 流風もその紫の乗り気な様子を見て嬉しそうな顔をすると、紫と潮音に文化祭のパンフれったを手渡して潮音たちと別れた。


 潮音は帰宅すると、流風からもらった布引女学院の学園祭のパンフレットを広げてみた。潮音がさっそく目を向けたのは「銀河鉄道の夜」の劇を紹介しているページだったが、その配役を見て潮音は息を飲んだ。流風が演じるのは主人公のジョバンニと共に銀河鉄道で旅をするカムパネルラの役だったが、そのジョバンニの配役には、はっきりと「若宮漣」の名が書き込まれていた。


 そこで潮音は、夏休みに布引女学院に水泳部の合同練習に行ったときに出会った若宮漣の表情を思い出していた。潮音はあれ以来心の片隅で漣のことがずっと気になっていただけに、パンフレットで漣の名前を見たときには胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。


 潮音はあらためて、本棚から「銀河鉄道の夜」の本を取り出してみた。貧しくて孤独なジョバンニがカムパネルラと一緒に銀河鉄道で幻想的な世界を旅する物語を読み返していて、潮音は漣と出会ったときのどこかさみしそうな表情が脳裏から離れなかった。潮音は、見るからに引っ込み思案そうな漣に果たして劇の主役がつとまるのか、気がかりでならなかった。

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