第三章・海の輝き(その2)

 翌朝になっても、夏の青い空はすっきりと晴れ渡り、その真ん中には白い夏雲がぽっかりと浮かんでいた。そして朝から真夏の強い日差しが港町の古い家並みを照らしつけて濃い影を作り、セミの鳴き声が至る所から聞こえてきた。


 潮音は目を覚ますと、窓を開けて新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。今日はみんなで海水浴に行く日だと思うと、潮音は海で泳ぐのが楽しみな一面、ビキニの水着を着ることには一抹の不安も覚えずにはいられなかった。潮音はとりわけ栄介が、自分に対してどのような視線を向けるかが気になっていた。


 やがて暁子と優菜も目を覚まして、一家そろって朝食を済ませると、潮音はさっそく海水浴に行く準備を整えた。水着だけでなく浮き輪やビーチボールなどが次々と車の中に詰め込まれたが、特に智也はうきうきとした様子をしていて、みんなで海水浴に行くのがことのほか楽しみなようだった。優菜もそのような智也の様子を見ているうちに、自然と笑顔になっていた。


「智也くんはみんなで海に行くのが楽しみなん?」


「うん。暁子姉ちゃんと栄介兄ちゃん、それに暁子姉ちゃんの友達もいるからね」


「優菜ってなんか智也と仲良さそうじゃん」


 暁子に言われると、優菜はいささか照れくさそうな顔をした。


 潮音と暁子、優菜は一登の運転する車、栄介と智也は睦美の運転する車に分乗し、暁子の祖父母に見送られて家を後にした。やがて車が家並みを抜けると、車窓には青い瀬戸内の海と島影が見え隠れした。


 そこで潮音は、同じ車に乗っていた暁子にぼそりと話しかけた。


「暁子と一緒に海に行くのっていつ以来だっけ」


「小学生のときには、うちの家族と潮音の家族で一緒に家の近くにある海水浴場に行ったこともあったよね。綾乃お姉ちゃんや栄介も一緒になって」


「あの頃はもっと暁子とも自然につき合うことができたような気がするのに」


「そんなこと言ったってしょうがないよ。だいたいどうしてあんたって、そうやって物事を何でも深刻な方向にとらえようとするわけ? 前はそんなことなかったのに」


「アッコの言う通りやで。せっかくこうやってアッコのおじいちゃんが家に誘ってくれたんやから、あまり難しいことばかり考えへんでパーッと楽しんだらええやん」


 優菜にも声をかけられると、潮音はその二人の懸念を振り払おうとでもするかのように、語調を強めながら言った。


「そんなことわかってるよ。でもあの後ろの車で、栄介は智也とどんなこと話してるのかな。少しは仲良くなってくれるといいんだけど」


「栄介もこのところ、やたらと気難しくなって困っちゃうよ。反抗期ってやつなのかな。綾乃お姉ちゃんだったら、もっとあんたに対しても上手に接してたと思うけど」


 暁子がため息混じりに綾乃のことを口にしたので、潮音は今までずっと家の中では綾乃に逆らえなかったことを思い出して、思わず身が縮こまるような思いがした。


「そんなことないよ。暁子は姉ちゃんの上っ面しか知らないからそう思うのかもしれないけど、あの姉ちゃんには昔から何をやってもかなわなかったし、それに怒らせるとこわいからな」


 そう話すときの潮音の表情を見て、暁子もやれやれとでも言いたげな顔をした。



 そうこうしているうちに、車は海水浴場に着いていた。瀬戸内の島影を目前に臨む海水浴場は、すでにいくつかビーチパラソルが立ち、色とりどりの水着を着た多くの家族連れや若者たちでにぎわっていた。そしてその海や島影の彼方には、突き抜けるように真っ青に澄みわたった夏空が広がり強い日差しが白い砂浜を照らしつけていた。


 潮音が車を降りて海水浴場に向かうと、潮の香りが辺り一面に漂い、かすかに波の音が聞こえてきた。潮音が砂浜で靴を脱ぎ棄てて裸足になると、真夏の日差しを浴びて熱気を帯びた砂の感触が潮音の足の裏に伝わってきた。こうなると潮音はもはや、はやる気持ちを抑えることはできなかった。潮音はそのまま、青く澄んだ海に向かって一直線に駆け出していた。


 潮音の心の中には、まだ小さな頃に家族で海水浴に出かけたときの記憶が蘇っていた。海の香りや風、そして照り返す真夏の太陽は、潮音の心の中に積もっていたわだかまりを解きほぐして、子どもの頃の純粋な気持ちを呼び覚ましたかのようだった。波打ち際で寄せては返す波とたわむれる潮音の顔には、いつしか自然に微笑みが浮んでいた。


 そこで潮音の背後から暁子の声がした。


「潮音、海に来たからといって何はしゃいでるのよ。ほんとにあんたって子どもっぽいんだから。早く水着に着替えようよ」


 潮音は暁子の言葉に我に返ると、脱衣場に向かった。


 潮音が脱衣場に入り、玲花と一緒に選んだブルーのビキニの水着を取り出すと、さすがに心拍数が高まるのを感じずにはいられなかった。しかし潮音は玲花と一緒にこの水着を選んだのは自分自身なんだし、ここまで来るともう後には退けないと思い直すと、思いきって服を脱いでビキニの水着に着替えてみた。


 潮音がいざビキニの水着を身につけてみると、潮音は水泳部の練習で競泳用の水着を身につけることには慣れていたとはいえ、そのときの感触とも全く異なっていた。潮音はビキニの水着が身体の多くの部分を露出していることに対して、あらためて気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。


 そこで潮音は、大きく息を吸い込んで気を落ち着けようとした。


──もっと落ち着けよ。オレが初めて女子の水着を着てプールで泳いだときだってそうだっただろ? あのとき思いきってプールで泳いでいなかったら、今の自分はなかったわけだろ? あのときのことを考えたら、今の自分がしようとしていることなんて何でもないじゃないか。


 そしてようやく潮音は、目を上げると脱衣場の一角にあった姿見に自分の姿を映してみた。しかしそこで潮音は、ビキニの水着をつけた自分自身の姿に思わず目を奪われていた。潮音の贅肉のない引き締まった身体のスタイルに、ビキニの水着はしっかりフィットしていた。鮮やかなブルーのビキニの生地は、むしろ潮音の素肌のきめの細かさやつややかさを強調しているようにさえ見えた。潮音はいつしか、姿見の前でいろいろなポーズを取っていた。


 そこで潮音が背後に人の気配を感じて後ろを振り向くと、そこには水着に着替え終った暁子と優菜の姿があった。優菜はセパレートとはいえフリルなどで飾られたおとなしいデザインの水着を着ていたが、ワンピースタイプの水着を身にまとっていた暁子は、潮音がビキニを着た自分自身の姿に見入っている様子にいささか呆れているかのようだった。


 しかし暁子と優菜も、いざ潮音のビキニ姿を目の当りにすると、今の潮音にビキニが良く似合っている様子にあらためて息を飲んでいた。水泳部で潮音と一緒に練習してきた優菜ですら今の潮音の姿に驚きを隠せないようだったが、特に暁子は幼い頃から見知っていた潮音の姿がすっかり変ってしまったことにあらためて当惑せずにはいられなかった。


「あんた…なんでビキニ着ていてもそんなに似合ってるのよ。あたしは…とてもそんな水着なんか着られないよ」


 暁子の動揺したような表情を見て、潮音は思わず口調を強めていた。


「暁子こそ変に引け目を感じるのはよせよ。人のことなんか気にしないで、自分の好きなかっこしてりゃいいじゃないか」


 そして潮音は、そのまま暁子の手を引いて脱衣場を後にした。その間暁子は、心の中でもやもやするものを感じていた。


──潮音のバカ…。あたしの気持ちなんか全然わかっちゃいないんだから。あたしが今の潮音を見て悩んでるのはそんなことじゃないのに。


 潮音たちが砂浜に出ると、栄介と智也はとっくに水着に着替えて待っていた。栄介はいささか待ちくたびれているかのようだったので、暁子がなだめてやった。


「栄介、女の子の身支度には時間がかかるものよ」


 しかし智也は、潮音がビキニ姿で現れたのに驚き、目のやり場に困っているようだった。その智也の表情を見て、潮音は自分自身も昔は今の智也のように、女の子の水着姿にドキドキする側だったのにと思うと、いささかちぐはぐなものを感じずにはいられなかった。


 それは栄介も同じようだったが、栄介はさらにそれに加えて潮音がつい先日までは男の子だったことを知っているだけに、今の潮音の姿に対してますます当惑と動揺を感じている様子が、潮音の目にもありありと見てとれた。潮音はこのような栄介の様子を見て、どことなく栄介をだましているかのような後ろめたさを感じずにはいられなかった。


──栄介はこのところ無口で気難しくなったような感じがするけど、これはやはりオレが女になったことに対して戸惑っているせいもあるのだろうか。


 そこで潮音はちらりと暁子の横顔を見たが、暁子も栄介に対して今の自分と同じようなことを感じているかのように見えた。潮音はやや重くなりかけたこの場の空気を振り払おうとするかのように、つとめて元気よく声を出した。


「みんなせっかく海に来たんだから、今日は目いっぱい楽しもうよ。みんなで早く海に入らない?」


 そう言って潮音は、青い海をめがけて砂浜を駆け出した。優菜と智也もそれに続き、栄介もちょっと遅れてそれについていった。暁子の伯父と伯母の一登と睦美も潮音や優菜の若々しい元気さを見てご機嫌そうな表情をしていたが、暁子は海を前にはしゃごうとするかのような潮音の様子を、少し離れたところからやれやれとでも言いたげな眼差しで眺めていた。


 そのような暁子の様子を見て、睦美が少し心配そうに暁子に声をかけた。


「暁子ちゃんももっとみんなと一緒に遊べばいいじゃない。それに昔の暁子ちゃんは海に来たら、栄介ちゃんよりも早く海へと駆けだして元気に遊んでいたのに」


 暁子は今の自分の心中や、それを取り巻く事情を一登や睦美には簡単には説明できないかもしれないということに、内心でもどかしさを感じずにはいられなかった。

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