第三章・海の輝き(その1)

 花火大会から数日が経って、キャサリンは実家のある英国へと一時帰国し、紫は信州の高原で行われるバレエの合宿へと出かけていった。さらに玲花も、浩三たちが出場する高校総体に向けてマネージャーの仕事が忙しくなっていった。


 そのような折、潮音は優菜も一緒に、春休みにも訪れたしまなみ海道沿いにある瀬戸内海の島にある暁子の実家に誘われた。潮音と優菜は二つ返事でそれを了承したが、さらに今回は暁子の二つ年下の弟の栄介も来年が高校入試になるので、祖父の家に行くのも今のうちというわけで一緒に行くことになった。


 とはいえ、栄介はみんなで西明石から新幹線に乗り込んでも、口数も少なくむっつりとした表情をしていた。栄介は暁子だけでなく潮音や優菜といった、年上の女の子三人に囲まれて、どこか居心地が悪いように見えた。


 そのような栄介の様子を見て、優菜はいささか心配そうな表情をした。


「今日の栄介ちゃん、なんか気難しそうにしとるな。栄介ちゃんはいつももっと元気やったのに」


 その優菜の言葉に潮音は答えた。


「栄介も中二になってくると、いろいろと気難しい年頃になるからな。このくらいの年頃の男の子なんて、だいたいそういうもんだよ。だから優菜や暁子も気にすることないって」


 そう言う潮音は、淡いブルーを基調にした、軽やかな生地でできた清楚な感じのワンピースを着ていた。その潮音の装いには、むしろ暁子の方が気後れを感じているようだった。


「あんた…ずいぶんかわいい感じの服着てるじゃん」


 そう話す暁子は、Tシャツにキュロットというラフな装いをしていた。その表情も、どこか複雑そうだった。


「この服? 着てみたらけっこう涼しくていいぞ。暁子だってもうちょっとかわいい服着てみりゃいいのに」


 潮音の取り澄ました様子には、暁子だけでなく栄介も戸惑いの色を顔一面に浮べていた。栄介にとっては、自分が幼い頃から慣れ親しんできた潮音が女の子になってしまったということがどうしても受入れられないようだった。潮音にとっても、そのような栄介の心の中も理解できるだけに、栄介に接するのにはより慎重にならなければいけないと思わずにはいられなかった。


 やがて新幹線が新尾道の駅に着くと、夏の空は真っ青に澄み渡っており、むっとするような熱気と強い日差しが潮音たちを包んだ。そこで優菜が思わず声を上げた。


「ここめっちゃ暑いな。ちょっとでも外歩いたらふらふらになりそうや」


 駅前のロータリーには、すでに暁子の伯父の石川一登の車が待っていた。一登は潮音と優菜の顔を見るなり、親しげに声をかけた。


「春休み以来久しぶりだね。特に智也は藤坂さんのこと気に入ってるみたいだよ」


 その言葉に潮音は、気恥ずかしそうな顔をした。次いで一登は栄介に目を向けた。


「栄介もこんなにかわいい女の子ばかりに囲まれているからといって、そんなに遠慮することないのに」


 しかし栄介は、そのような一登の言葉にも無言を貫いたままだった。



 潮音たちを乗せた車が海峡に架かる大きな橋を渡ると、三月に島を訪れたときのうららかな春の陽光が照らす穏やかな海の様子とは打って変って、青く澄んだ海の波間は夏の強い光を反射してキラキラと輝いていた。潮音たちは海と穏やかな島影がもたらす美しい風景に思わず見入っていた。


 やがて車がどっしりとした構えの暁子の祖父の家に着くと、一登の家族たちも潮音たちを玄関口で出迎えた。特に一登の息子で小学生の智也は、潮音の姿を見るなりすぐに駆け寄ってきた。


「智也は潮音ちゃんと言ったっけ、お姉ちゃんのことが気に入ったみたいね」


 一登の妻で暁子の伯母にあたる睦美も、にこやかな表情で潮音と智也の様子を見守っていた。睦美にまでそのような視線を向けられると、潮音はますます照れくさい気分になった。


「ともかく暑くて疲れたでしょう。暁子ちゃんたちもゆっくりしていきなさい」


 そう言って睦美は、冷たい麦茶とスイカを出してくれた。潮音が勢いよくスイカにかぶりつこうとするのを、暁子は呆れたような視線で眺めていた。


「あんた、スイカももう少しお上品に食べられるようになったらどうなの。口のまわりがスイカの汁で汚れちゃうよ」


「暁子こそ、ちっちゃな頃うちの母さんにスイカを切ってもらったときにはむしゃむしゃかぶりついていたくせに」


 潮音が暁子に向かって悪態をついても、睦美はにこやかな表情を崩そうとしなかった。


「ほんとに暁子ちゃんと潮音ちゃんって仲いいのね」


「そりゃ私はずっと暁子の隣の家で暮らしてきて、小学校に入る前からずっと一緒だったからね」


「潮音ったら調子のいいことばかり言っちゃって。潮音こそちっちゃな頃はほうれん草が嫌いで、潮音のお母さんから好き嫌いしちゃダメだと怒られてたくせに」


 暁子が呆れたような表情で話すうちに、一登の家族も皆いつしか笑顔を浮べていた。優菜もそのようなみんなの様子を見て口を開いた。


「潮音とアッコはずっとこの調子やから、あまり気にせんといて下さい」


 そこで智也が、ゲーム機を持って潮音のところに来た。


「潮音姉ちゃん、一緒にゲームしようよ」


 智也から「姉ちゃん」と呼ばれて、潮音は内心でこそばゆい思いがしたが、智也が自分に対して親しげな様子で接しようとすること自体に悪い思いはしなかった。しかしそれに対しても、暁子はどこか焼きもちを焼いているように見えた。


「ちょっと智也、私とは一緒にゲームしないの」


「暁子も後で一緒にやればいいだろ」


 潮音に言われても、暁子もややふて腐れたような表情をしていた。


 ゲームが進むうちに、栄介もいつしか智也と一緒にゲームをするようになった。潮音はそこでゲームのコントローラーを栄介にゆずったが、新幹線に乗ったときからずっと気づまりな表情をしていた栄介も、これで少しは気がまぎれたかもしれないと思って内心でほっとしていた。


 そうやって潮音たちがゲームに興じているうちに、夏の日も西に傾きかけていた。そこで睦美が、夕食の準備をしている間に潮音たちは銭湯に行ってきてはどうかと言った。潮音は春休みのときに訪れた古びた銭湯にまた行くのかと思ったが、春休みのときに比べて暁子や優菜と一緒に入浴することへの抵抗はほとんどなくなっていた。


 潮音と暁子、優菜の三人は狭い路地を抜けて古びた銭湯に着くと、服を脱いで浴室に入るなり念入りに体を洗った。


「暑くて汗かいたからな。こうやって風呂入るのは気持ちいいよ」


 潮音は熱い湯で体の汗を流すと、ようやく一息つけたような気分になれた。


「でも潮音も、髪の手入れもだいぶ慣れてきたよね…こうしてみると、あんたは元から女の子だったみたい」


 暁子にそう言われて、潮音は先ほどまでの栄介の様子を思い出して少し気づまりな表情をした。


「栄介…やっぱりオレが女になったことを受け入れられないのかな」


 そこで暁子はきっぱりと言った。


「潮音、そんなの気にすることないよ。あんたはいきなり男の子から女の子になっちゃって、それでも自分なりにしっかり生きようと努力してきた。そのことはあたしや優菜だってわかってるから」


「アッコの言う通りやで。人があんたのことどう思っとるかなんか気にせえへんで、もっとあんたのやりたいようにやったらええやん。そしたら栄介ちゃんかてきっとわかってくれるよ」


 暁子と優菜の言葉にも、潮音は今一つ晴れない表情をしたまま湯船につかっていた。


──もしオレが女になっていなかったら、こうやって暁子の親戚の家に泊まりに行くこと自体なかっただろうな…。オレはこうなって、暁子と一緒にいられて嬉しいと思っているのだろうか。


 潮音はこのように考えながら、手のひらで湯船の湯をすくうと、その手をしばらくじっと眺めていた。


 やがて潮音たちは風呂から上がると、髪をちゃんと乾かして服を着た。潮音は旅に着てきたワンピースに代わって、Tシャツにハーフパンツというラフな装いになった。さっそく優菜は、番台で売られていたフルーツ牛乳を買い求めた。


「やっぱ風呂上りにはこれが一番やな」


 そう言って優菜は、うまそうにフルーツ牛乳を飲み干した。


 潮音たちが銭湯を後にすると、島影の彼方に広がる夏空一面に夕焼けが広がり、雲が赤く染まっていた。そして港町の古びた家並みも、オレンジ色の西日に照らされていた。その雄大な景色に、潮音はしばし見入っていた。そして夕暮れ時になると、海から吹く風も日中よりだいぶ涼しくなって心地良かった。


 潮音たちが暁子の祖父の家に戻り、日が暮れた頃になって、夕食が始まった。料理の並ぶちゃぶ台を囲んでからも、暁子の祖父はビールの入ったコップを手にしながら、ご機嫌な表情で潮音や優菜に声をかけた。


「暁子の友達がまたこうして来てくれて、家もにぎやかになるな。でも暁子ももう高校生で、神戸のお嬢様学校に通ってるとはね。それに栄介だって中学生とは、いつの間に大きくなったじゃないか」


 暁子の祖父に目を向けられると、栄介も照れくさそうにしていた。


「この前行ったときに食べたお好み焼き、めっちゃおいしかったです。また連れて行って下さい」


「ああ。いい店だったらほかにも知ってるから任しとき」


 優菜が笑顔で話すと、一登も喜んで返事をした。その席でも、睦美は智也と潮音を交互に見比べながら言った。


「智也は一人っ子だからね。暁子ちゃんのお友達が来ると、お姉ちゃんができたみたいな感じがして嬉しいんじゃないかしら」


 潮音はここでまた「お姉ちゃん」と言われたのに、気恥ずかしい思いがした。


 そして夕食が終ると、さっそく庭で花火をすることになった。みんなで手持ちの花火にろうそくの火をつけて、それがさまざまな色の光を放ったときには、智也もどこか楽しそうな表情をしていた。


 花火が終ると、潮音たちは二階の部屋で三人一緒に寝ることになった。寝る前には睦美が潮音たちに釘をさした。


「おしゃべりするくらいならいいけど、あまり夜中まで騒いだりしたらダメよ。明日はみんなで海水浴に行くんだから、早く寝なさいね」


 三人で布団に潜り込むと、優菜が潮音に声をかけた。


「潮音はやっぱり、夏休みのはじめに買ったあのビキニの水着を持ってきたん?」


「ああ。そのために水着買ったんだろ」


「でも大丈夫かな。潮音がビキニの水着着とるところ見たら、栄介ちゃんや智也君はどんな顔するやろか。尾上さんにすすめられたとはいえ、潮音があんなビキニ選ぶとは思わんかったわ」


「そりゃ潮音は、私や優菜と比べてもスタイルいいからビキニ着ても似合うよね」


「優菜だけじゃなくて、暁子まで何言ってるんだよ。そんなことばかり考えてないで早く寝た方がいいぞ」


 そう声をあげると潮音は、夏物のタオルケットにくるまった。

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