第二章・花火大会(その5)
花火大会は始まってから一時間半ほどが経って夜の闇が深まりかけた頃に、大輪の花火が夜空一面に打ち上げられて終了した。観客たちが列を作ってぞろぞろと公園から引き上げ始めた頃になって、紫が愛里紗に声をかけた。
「どう? 今日は楽しかった?」
それに対して、愛里紗はやれやれとでも言いたげな表情で答えた。
「私…今までこういうところに来たことあまりなかったけど、なかなか楽しかったわ」
「榎並さんって、中等部の頃は自分から変に周りに対して壁作っていたようなところがあるよね。そんなことしないで、もっと自然にみんなと付き合えばいいのに」
紫の言葉に対して、愛里紗は照れくさそうに口をつぐんでいた。潮音はそれを聞きながら、自分自身も松風女子学園という今まで経験したことのない世界の中で周囲と壁を作らないように努力してきたつもりだが、果たしてその通りになっているだろうかと自問していた。
そこで恭子が、愛里紗に声をかけた。
「私もはっきり言って、榎並さんってなんかつっけんどんでいやな子やなと思ったこともあったけど、今になってそれが偏見やったとわかったわ」
「そんな…。学校やみんなに対して偏見持ってたのは私の方だよ。でも峰山さんはそんな私でもこうして一緒にいてくれるのだから」
愛里紗がようやくみんなに対して素直な態度で接することができるようになった様子を見て、潮音も内心で安堵していた。
そうやってみんなで話しているうちに公園を後にする花火大会の見物客の列も途切れかけて、周囲も空いてきた。そこでようやく潮音たちが駅に向かおうとしたとき、潮音を呼びとめる声があった。流風の声だった。
潮音があらためて流風の声がした方を向き直すと、流風は白を基調にした清楚な感じの浴衣を身にまとっていた。フィリピン系のハーフである流風にもその浴衣はよく似合っていただけでなく、宵闇の中でもひときわ目をひいていた。
そしてその傍らには、潮音が先ほど布引女学院に水泳部の合同練習に行った際に一緒になった、富川花梨と若宮漣の姿もあった。花梨は浴衣でかわいらしく装っていたのに対し、漣はTシャツにハーフパンツという、普段着のままのお世辞にもおしゃれとは言い難い装いをしていた。
潮音の姿を見るなり、花梨は陽気で明るい声をあげた。
「こないだ水泳部の合同練習に来ていた、流風先輩の親戚の子じゃない」
花梨がすでに潮音に対しても親しげな様子を見せているのには、潮音の友達も皆一同に驚きの表情を向けた。しかしその一方で漣は、どこか気恥ずかしそうな表情をしながらもじもじしていた。漣は潮音たちに対して、どのように声をかけていいのか戸惑っているように見えた。
流風は紫に目を向けると、親しげに声をかけた。もともと流風と紫は同じバレエ教室に通っているので、互いに気心の知れている仲だった。
「紫ちゃんも潮音ちゃんと一緒に花火大会に来てたのね。その浴衣、なかなか似合ってるじゃない」
「流風先輩こそ浴衣がよく似あいますね」
「でも紫ちゃんは来週になるとすぐに、信州にバレエの合宿に行くんでしょ?」
「はい。明日中に荷物をまとめて、明後日朝一番の新幹線で家を出て信州に向かう予定です」
「あの合宿は五日間練習漬けらしいけど、頑張ってね」
そこで愛里紗がため息混じりに、紫に声をかけた。
「峰山さんはやっぱりすごいよ…。私は来週からもずっと部活と塾の夏期講習だからね」
そこでキャサリンも口を開いた。
「私ももうすぐロンドンに帰って、夏休みが終わる頃に戻ってくる予定です。ロンドンの両親や友達にも、いろいろな土産話ができそうです」
キャサリンがロンドンに帰るのを心待ちにしている様子は、周囲の目にも明らかだった。流風も笑顔でキャサリンの方を向き直した。
「松風にはイギリスからの留学生も来ていることは、潮音ちゃんからも聞いていたわ。ロンドンから帰ってきたら、私にもいろいろ話聞かせてね」
しかしそこで、漣は黙ったまま流風と紫やキャサリンが話すのを聞いていた。潮音はそのときの、漣のどこか寂しそうな表情が気になっていた。花梨もそのような漣の様子に気がついたらしく、困ったような表情で漣に声をかけた。
「漣もちゃんと挨拶しなよ」
花梨に強い口調で言われて、漣はぼそりと挨拶をした。そこで潮音は、思いきって漣に声をかけてみた。
「若宮さんっていったっけ…。せっかく流風姉ちゃんから花火大会に誘ってもらったんだから、もうちょっと楽しそうにすればいいのに」
潮音が親しげに声をかけてきたのに、漣は少し戸惑いの色を浮べているようだった。そして漣は、ようやく重い口を開いた。
「藤坂さんって流風先輩の親戚って言ってたよね…何となくだけど、なんかぼくに似てるようなところがあるような気がする」
漣がいきなり自分のことを「ぼく」と呼んだのに、潮音は意表を突かれた。それに対して、花梨があわててフォローを入れた。
「あ、いや、その…。漣ってどうしてか知らないけど、自分のこと『ぼく』って言うんだ。私はもう慣れちゃったけど」
しかし潮音は、これで心の底にくすぶっていた「もしかして」という懸念が、ますます強まっていくのを感じていた。そこで潮音は漣の方を向き直すと、はっきり言った。
「若宮さん…夏休みで時間あるんだったら、いっぺん私と会って話してみない? あまり人に話したくないことだってあるかもしれないけど、それでも自分の話を聞いてくれる人がいるだけでも少しは気が楽になると思うから。無理に話さなくてもいいから、いつでも自分のSNSに連絡をくれたらいいよ」
潮音にそう言われて、漣はますます戸惑ったような表情をして顔を上げた。そこで流風が、軽く漣の肩を叩きながら声をかけた。
「若宮さんも潮音ちゃんとは仲良くなれそうじゃない。何かあったら潮音ちゃんにもいろいろ相談してみたらいいよ」
潮音は流風が自分のことを「ちゃん」づけで呼ぶのにいやそうな顔をしたが、これまで緊張気味だった漣の表情が少し柔らかくなったように感じられたのには内心でほっとしていた。
そうやって話しているうちに一同は元町駅に着いたので、そこで解散することにした。駅は花火大会から帰る客でごった返していたが、その中で潮音たちはなんとかして、帰る方向が同じ子たちと一緒に電車に乗り込んだ。
電車が動き出すと、玲花は潮音に言った。
「今日は楽しかったよ。あたしはこれから水泳部が高校総体に出るための準備で、マネージャーとしてますます忙しくなるからね。勉強かてせなあかんし」
玲花の口から「勉強」という言葉を聞いて、潮音は宿題や補習のことを思い出して少しいやそうな顔をした。しかしそこで、玲花はしんみりとした表情で話を続けた。
「今日見とって思ったけど、やっぱ松風ってかわいい子ばっかりやわ。でも藤坂さんも言うとったけど、だれか一人くらい彼氏連れて来ようって子おらへんの?」
そこで潮音は答えた。
「そりゃ私だってそう思うことあるよ。みんなその気になりゃ彼氏なんかすぐにできそうだけどね。でも女同士でワイワイやってるのもそれはそれで結構楽しいものだよ」
そこで暁子が横から口をはさんだ。
「でもあたし、まさか潮音がここまで女子校になじんじゃうなんて思わなかったよ。でもそれって、潮音が女子校だからって変に気張ることなく、中学のときまでと同じように自然にしてたからこそ松風のみんなも潮音のこと受け入れてくれたんじゃないかな」
潮音は照れくさそうな顔をしたが、そこで優菜がどこか気がかりな表情で口を開いた。
「でも…潮音はやっぱりあの布引の子のことが気になるん? なんかあの子、自分のこと『ぼく』って呼んどったけど。せっかく潮音のいとこのお姉ちゃんがいろいろ気を使ってくれとるのやから、もっと楽しそうにすればええのに」
潮音は優菜が、流風は自分のいとこだと誤解していることに気づいたが、そのあたりの真相を話すといろいろややこしいことになると思ったので、優菜の思い違いを訂正せずそのままにしておいた。
「ああ…あの子、なんか周りになじめていないような気がしたから…自分だってもしかしたらああなっていたかもしれないし…それになんかあの子、自分にちょっと似ているような気がするんだ」
そこで暁子と優菜は、驚きの色を浮べて互いの顔を見合せた。
「ということは…もしかしてそういうこと?」
暁子と優菜だけでなく、玲花までもが当惑の色を浮べたが、そこでも潮音は落ち着いていた。
「…あくまでも『もしかしたら』だけどね。なんとなくだけど、そういう感じがするんだ」
そこで暁子が、潮音をなだめるように言った。
「潮音、ちょっと考えすぎだよ。そういうときはもうちょっと元気が出るようなこと考えようよ」
そこで暁子は、つとめてこの場を明るくしようとするかのように、あらためて潮音と優菜を向き直して言った。
「こないだの春休みに行った広島のおじいちゃんが、潮音と優菜にまた家に来ないかって言ってるんだけどどうする? おじいちゃんたちは潮音と優菜のことが気に入ったみたいよ。今の季節は海水浴もできるしね」
「ごめんアッコ。あたしは水泳部のマネージャーで大変やから行けそうにないわ」
玲花は残念そうな顔をしたが、優菜はまた暁子の実家がある島に行けるかもしれないと思ってほくそ笑んだ。しかし潮音は、漣のことを思うと暁子の誘いも心から喜ぶことができなかった。
やがて潮音がみんなと別れて自宅に戻ると、玄関で綾乃が出迎えた。
「どう? 混んでなかった?」
「ああ。でもむしろ、浴衣着てると疲れたよ。下駄はいてたから足痛いし」
そこで家の奥から則子の声がした。
「お風呂沸いてるから入りなさい」
そこで潮音はようやく浴衣を脱いで、風呂で汗を流した。風呂から上がると潮音は夏物のパジャマを着て、軽く夕食を取った。
その後で潮音が自室に戻ってからも、脳裏からは先ほどの漣の表情が離れなかった。今日漣が自分のことを「ぼく」というのを聞いたとき、潮音は自分の抱いていた疑念がますます大きくなっていくのを感じていた。
──あの子…ひょっとしたらオレと一緒なのかもしれない。確かな証拠はないけど。でももし万が一そうだとしたら、オレはいったいどうすりゃいいんだろう。暁子の言う通り、ただの思い過ごしだったらいいけど…。
このように考えれば考えるほど、潮音の心の中では疑念ばかりが深まっていった。そこで潮音は、闇に閉ざされた窓ガラスの外に目を向けた。暗い夜空には、まだ花火大会の余韻が残っているかのように思えた。
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