第三章・海の輝き(その3)

 潮音はビキニの水着で砂浜に出て潮風を頬に受け、素足で熱のこもった白い砂を踏みしめると、真夏の強い日差しを体全体で浴びる感触に思わず息をつかされた。そのとき潮音は、中学生のときの夏に学校の屋外プールで、水泳の練習に明け暮れていたときのことや、さらにもっと幼い日に家族で海に行ったときのことを思い出して、どこか懐かしさを覚えていた。


 もはや潮音は、じっとしていることはできなかった。そのまま潮音は、波打ち際に駆け出して打ち寄せるさざ波に素足を浸していた。潮音が足首を波がなでていき、足元の砂が流されていく感触に身を任せていると、心の中からはビキニの水着を着るときに感じていたわだかまりも、自分が男から女になって以来ずっと感じていた戸惑いも消え失せていた。潮音はただ、潮の流れと一体になれるような感触に心地良さを覚えていた。


 潮音が海水に腰まで浸かって、両手で海水をすくいながらはしゃいでいる様子を、優菜は波打ち際からやれやれとでも言いたげな表情で眺めていた。


「ほんま潮音って子どもっぽいんやから」


 優菜は口ではそのように言いながらも、潮音が海を前にして楽しそうにしている様子を見て、内心で安堵していた。そして優菜も潮音のそばに来ると、二人でそのまま水をかけあったりしてはしゃいでいるうちに、優菜もいつしか満面の笑みを浮べていた。


 そこで潮音と優菜は、砂浜に敷かれたレジャーシートの上から遠巻きに自分たちを眺めている暁子に目を向けた。暁子は潮音が今ビキニの水着を着てはしゃいでいることに対して、いささか複雑な思いを抱いているようだった。そのような暁子に対してまず声をかけたのは優菜だった。


「アッコもこっち来て、みんなと一緒に遊べばええのに」


 潮音も優菜に同調して言った。


「そうだよ暁子。せっかく海に来たんだからみんなでもっと楽しまなきゃ」


 潮音にとっても、暁子がこのように当惑したような態度を取っているのは自分のせいだとわかっていただけに、暁子のことがより気になっているようだった。暁子も潮音と優菜にそこまで言われるといつまでも引下がってばかりはいられないとでも思ったのか、ようやく腰を上げて海に入ることにした。


 暁子がためらい気味に海に入ると、潮音はいきなりウォーターガンで暁子に海水を浴びせた。そこで暁子は、やったなとでも言わんばかりの顔つきで潮音にとびかかった。潮音は体のバランスを崩して海の中へと倒れこみ、全身ずぶ濡れになってしまったが、その表情は明るかった。


 そのまましばらく潮音と暁子は海の中ではしゃいでいたが、優菜までもが全くこの二人はしょうがないなとでも言わんばかりのにんまりとした表情をしながら、この二人の様子を眺めていた。そして優菜がビーチボールを取り出すと、潮音と暁子もそれに応えて一緒に遊び出した。


 そのような三人の様子を見て、最初は潮音や優菜のビキニ姿にどぎまぎしていた栄介と智也も、遠慮がちながら海に入りそろそろと潮音に近づいてきた。


「栄介も遠慮してないでこっちに来ればいいのに」


 潮音に呼び止められると、栄介はますます顔に戸惑いの色を浮べていた。栄介は潮音がビキニの水着を着て、笑顔を浮べている様子がいまだに受け入れられないようだった。


 そのような栄介の様子を見て、暁子も思わず声をあげていた。


「栄介、やはり潮音が女の子になっちゃったことに戸惑っているわけ? そりゃ栄介の気持ちだってわかるけど、潮音だって今の自分の姿を受け入れるまでにはだいぶ悩んでたんだよ。潮音には男とか女とか関係なしに、もっと自然に接した方がいいんじゃないかな」


 そこで優菜は、智也が潮音に対して疑問を抱くのではないかと感じてぎくりとした。しかし智也が、暁子の言ったことの意味が分からずに狐につままれたような表情をしているのを見て、優菜は胸をなで下ろしていた。


 そのまま潮音たちがビーチボールで遊んだり、浮き輪で波間を漂ったりしているうちに、いつしか栄介の表情からも緊張の色が抜けて、自然と笑みを浮べるようになっていた。潮音はやはり海の広大な景色の中でのびのびと遊んだことによって、栄介も多少は心の中のわだかまりをほぐすことができたのだろうかと感じていた。


 しばらくして潮音は、ゴーグルとシュノーケルをつけて海の中に潜ってみた。潮音はいざ海に潜って、波のうねりを感じながら海水を透けてさしこむ真夏の太陽の光を浴びてみると、いつもの水泳の練習で感じているのとも違う感触に最初は戸惑いを覚えていた。海水浴場の喧騒とは打って変った海の中の静かさも、潮音の心を戸惑わせた。


 しかし潮音は青く澄んだ海の中を漂っているうちに、自分も大きな海の中に溶け込めたかのような心地良さを覚えていた。そうしているうちに潮音は、日ごろの自分の悩みや、自分の体が女に変ってからずっと心の底に抱いてきたわだかまりすらも些細なことのように思えてきて、心の中に強くて確かな感情が湧き起ってくるのをしっかりと感じていた。


 潮音は海の上に顔を出すと、栄介にもシュノーケルで海に潜ってみるように勧めてみた。潮音は栄介が海で遊んでいるときの無邪気な表情を眺めながら、栄介も多少は気難しい年頃にさしかかっているとはいえ、根本は小さな頃によく一緒に遊んだ時の栄介と変っていないと感じていた。



 やがて真夏の太陽が、青く澄みわたった夏空の中空にまで上がった頃になって、みんなで睦美の用意した弁当を食べることにした。


 しかし潮音が砂浜を歩いていると、海水浴場にいた若い男たちの視線はビキニ姿の潮音に釘づけになった。その中には潮音にナンパをしようと、声をかけるタイミングをうかがっているように見える者すらいた。潮音もそのような男たちの視線に気後れを感じずにはいられなかったが、自分自身が少し前はその視線を向ける側だったと思うと、ますます複雑な気持ちになっていった。


 暁子と優菜も、潮音が周囲の若い男たちの注目を集めていることを感じ取っていた。そこで優菜が、暁子にそっと耳打ちした。


「みんな潮音の方を見とるやん」


 そこで暁子も、優菜に耳打ちで返した。


「そりゃ潮音は、水泳とバレエで鍛えていてこんな引き締まった身体してるんだもの。それに…どうしてあたしより肌だってツヤツヤしてるし、プロポーションもいいわけ?」


 そう話すときの暁子は、どこか潮音に嫉妬しているように見えた。そこで優菜は、意地悪っぽく暁子に声をかけてみた。


「いっそアッコも、来年はビキニの水着着てみたらどないなん?」


「優菜のバカ」


 暁子は、ますます赤面しながら唇を噛みしめていた。


 潮音たちは砂浜の上に敷かれたレジャーシートで、睦美の握ってくれたおむすびをぱくついた。その元気な様子を、一登と睦美の夫婦もニコニコしながら眺めていた。この二人は、潮音たちの若さと元気さに押されっぱなしのようだった。


 しかし海で目いっぱい遊んだ潮音たちにとって、それだけでは食欲を満たしてくれないようだった。潮音は栄介と智也を誘って海の家に向かうと、さっそく焼きそばを買い求めた。その様子を暁子は呆れ気味に眺めていた。


「そんなに食べてばかりいると、太ってせっかくのプロモーションが台無しだよ」


「余計なお世話」


 潮音は暁子に対して悪態をついてみせると、栄介と智也にも声をかけた。


「何か食べない? 高いものでなければお金は出してあげるよ」


 栄介と智也は照れくさそうにしながらも、それぞれ食べ物を注文した。その様子を見て、優菜はいささかほっとしたような面持ちをしていた。


「なんか栄介ちゃんは、潮音が女の子になったことに対してショックを受け取ったんやないかな。でも今日こうやって海で遊んだことで、ちょっとは気が晴れたんやないかな」


 そう話す優菜も、いつの間にか海の家で買ったかき氷を口に運んでいた。


「優菜、栄介は潮音とも昔からよく一緒にあそんでいたからね。栄介は潮音のことを、頼れるお兄ちゃんのように思ってたんじゃないかな。その潮音がいきなり女の子になっちゃうと、それをなかなか受け入れられないのも当り前だよ…それ以来ずっと栄介は潮音のことを避けるようにしていたけど、今日になってやっと潮音は昔と変ってないってわかったんじゃないかな」


「やっぱりクヨクヨ悩んでるんやったら、その間に何かやってみるのが一番やね」


 優菜がしんみりとした表情で話すと、暁子も黙ってうなづいていた。



 午後になってからもしばらく海で遊んだ後、夏の日が西に傾きかけて影が長くなりだした頃になって、潮音たちは帰途に就くことにした。


 家に戻る途中の車の中で、一登はハンドルを握りながら潮音に声をかけた。


「この島の近辺ではこうやって海水浴もできるけど、釣りができるところもあるんだよ。おじさんも休日にはよく智也と一緒に釣りに行くんだ」


 そこで「釣り」という言葉を聞いて、潮音は思わず身を乗り出した。


「私の父は釣りが趣味で、小さな頃はよく一緒に釣りに連れて行ってもらったんです」


 その潮音の話を聞くと、一登も嬉しそうにしていた。


「じゃあ明日一緒に釣りにでも行かない? 栄介や智也も誘ってさ」


「いいですね。でも釣具はあるのですか? 釣りに行けるような服だっているし」


「その点は心配いらないよ」


 すっかり乗り気になっている潮音に、優菜が声をかけた。


「今日あんなに海で遊んだのにまた明日釣りに行くなんて、潮音はずいぶん元気やね。明日どんな魚が食べられるか楽しみやわ」


「あまり期待しない方がいいよ。釣りもしばらくやってなかったからね。この歳になると、親父と一緒に釣りに行くこともないし」


 少し困惑気味の潮音を横目に、優菜はニコニコしていた。


「それはそうと、今日の海水浴の写真、玲花にも送っとこうっと」


 そう言って優菜はスマホを操作し、海水浴場でみんなが集まって撮った写真を玲花に送信した。しかし暁子は海で遊びすぎたのか、いささか疲れ気味だった。


「あんた、そんなに遊んでばかりいて夏休みの勉強は大丈夫なの? 夏休みの終りになってから慌てても知らないよ」


 勉強の話を聞かされて潮音が表情を曇らせたのには、一登もハンドルを握りながら笑みを浮べた。


 潮音たちを乗せた車は、そのまま西日の照らす海沿いの道を一登の家に向けて走っていた。真っ青に澄みわたった夏空も明るさを失いかけ、車窓から見える海も波間がオレンジ色の光を浴びてキラキラと輝いていた。

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