第七章・再会(その1)

 潮音はその日は帰宅してからも、ずっと気分が晴れなかった。玲花からもう一度浩三に会ってほしいと懇願されたとはいえ、今さらどんな顔をして浩三に会えばいいか、そして浩三をどのようにして勇気づければいいのか、そのためのいい方法はあるのかとあらためて問われると、潮音もそれにきちんと答えられる自信はなかった。


 潮音はあらためて、定期入れの中に収めていた、中学生のときに水泳部のメンバーたちと一緒にプールサイドで撮った写真を取り出してみた。その写真の中の潮音は、自分をそのしばらく後に見舞う運命などそ知らぬかのように、水泳パンツ一丁で平らな胸をあらわにしながら、他のメンバーたちと一緒に強い夏の陽射しの中で何の屈託もなく笑顔を浮べていた。


 潮音はその写真を眺めているうちに、水泳の練習に明け暮れていた夏の日のことを思い出していた。タイムがなかなか縮まずに縄んだこと、玲花の水着姿にひそかに胸をときめかせたこと、さらにプールを照らしつけていた強い夏の陽射し…。しかし水泳部員たちの間でも、筋骨隆々のがっしりとした体格を持つ浩三の実力は頭一つ抜きんでていた。その浩三がスランプに陥って苦しんでいるということは、潮音にとっても意外だった。


 しかしここで潮音は、浩三が中学校の卒業式のときに見せた、重苦しい表情を思い出していた。


──椎名はやはり、オレが女になったことに対して戸惑っているのか?


 そう考えると、本当に今の姿で浩三に会ってもいいのか、それが本当に浩三のためになるのかという潮音の疑念はますます深まっていくばかりだった。潮音はベッドに身を投げ出してうつぶせになると、拳を握りしめてベッドのマットレスを叩きつけると、悔しげな表情を浮べた。


──オレは今のこの現実を受け入れて、そこになじもうと努力してきた。でもそれが椎名にはやはり受け入れられないのか? だったらどうすりゃいいんだよ。


 しかしそこで、潮音は一人でウジウジ悩んでいたって何の解決にもなりやしないと思い直すと、ここは暁子や優菜にも相談するしかないと腹を決めた。



 翌日の昼休み、潮音は校内のカフェテリアで、暁子や優菜と一緒に弁当を食べながらテーブルを囲んでいた。潮音が前日に玲花から聞かされた一部始終を話すと、暁子よりもむしろ、中学の水泳部で潮音や浩三と一緒に活動していた優菜の方がショックを受けていたようだった。


「そりゃ南稜の水泳部は厳しいから、中学みたいにはうまくいかへんやろうとは思っとったけど、早速そうなるとはな」


「そりゃ椎名君はたしかにガサツで騒々しいやつだったけど、だからこそクラスを盛り上げてみんなを元気にしてきたじゃない。でもその椎名君に、あんなに精神的にもろいところがあったなんてね」


 戸惑いの色をあらわにしている暁子に、潮音は声をかけた。


「暁子、あいつは人の知らないところでずっとプレッシャーに耐えてきたんだ。スポーツの世界でトップに立ち続けることがどれだけ大変か、そのために椎名はどれだけ練習や筋トレをして、食べるものにも気を使ってきたか、それでもいつ思うように泳げなくなるかもしれない、自分にもかなわないライバルが現れるかもしれないという不安に耐えなきゃいけないかなんてことは、オレだって想像がつかないよ」


 しかしそこで、優菜は潮音の顔をあらためてまじまじと見つめた。


「で、潮音はどないするん。やはり椎名君に会ってて励まさなと思っとるん」


 潮音が黙ってしまったのを見て、暁子は一気に表情を曇らせた。


「潮音…まさか椎名君が元気なくしたのは自分のせいだと思ってない? あんたはこの半年ほどの間ほんとによくがんばったと思うよ。人のことなんか気にすることないじゃん。ちょっときついこと言うようだけど、そんなことで傷つくようなやつなんかほっときゃいいじゃない」


 しかしそこで、潮音たちの背後から声がした。


「みんな何の話してるのかしら。『椎名君』とか言ってたけど、もしかしてそっちの方面の話なの? その割にはみんな辛気臭そうな顔してるじゃない」


 紫の声だった。ニコニコしている紫を見て、潮音たち三人はあわてふためいたような表情をした。


「そんなんじゃないよ」


 そこで潮音は紫に、だいたいの事情を説明した。


「椎名君って、藤坂さんの中学の水泳部にいた男子ね。藤坂さんの家に行ったとき、卒業アルバムで見せてもらったわ」


 紫は潮音の話を一通り聞き終ると、潮音にはっきりと言った。


「たしかにその椎名君が今壁にぶちあたっているということはわかるわ。でもこれはどんなアスリートだって、いやアスリートじゃなくたってどんな分野だっていつかはぶち当たる壁だし、そして誰もが一度は乗り越えなきゃいけない壁なのよ」


 そして紫はふと息をつくと、あらためて話を継いだ。


「私だってずっとバレエをやってきて、いくら練習しても思うように踊れなくて悩んだことなんかいくらでもあるわ。そしてバレエの公演を見に行ったり、一流のバレエダンサーの演技をブルーレイで見たりすると、自分にはこんなすごい演技はできない、自分はまだまだ全然至らないと思うことなんかしょっちゅうよ。しかしなんとかしてその壁を乗り越えたら、新しい景色が見えてくるんじゃないかしら」


 そこで暁子が口をはさんだ。


「壁だったら、あんただっていくつも乗り越えてきたはずでしょ。たしかにあんたは水泳じゃ椎名君に、バレエじゃ峰山さんにはとてもじゃないかもかなわないかもしれない。でもあんたはあんたしかないものがあるはずだから、無理に椎名君や峰山さんになる必要もないよ。むしろ自分こそがいくつもの壁を乗り越えてきたことを、椎名君に示してあげるといいんじゃないかな」


 潮音が気恥ずかしそうな顔をしていると、紫はあらためて潮音の顔を見つめ直した。


「ともかく椎名君に会うかどうかは、潮音自身が決めることだわ。もうちっちゃな子どもじゃないのだから、椎名君に会うなら会う、会わないなら会わないと自分ではっきりと決めなさい。優柔不断にグズグズしてるのが一番良くないわよ」


 紫にきっぱりと言われて、潮音も覚悟が決ったような気がした。しかしそこで、紫は途端に表情を崩してニコニコすると、改めに潮音に問い直した。


「で、椎名君の彼女は尾上さんなんでしょ」


 日ごろはクールに振舞っている紫も、他人の恋バナに多少は気を動かされたようだった。


「紫ってこないだの暁子の誕生日パーティーのときも尾上さんと仲良さそうにしてたじゃん」


「尾上さんとはあれからSNSも交換したよ。あんなギャルっぽい子、うちの学校じゃあまり見かけなかったけど、話してみたらなかなかいい子じゃない。南稜の話とかもっと聞かせてもらえるといいんだけど」


「そりゃ尾上さんは中学では美人で成績も学年トップで、男子に人気あったからな。高校であんなに一皮むけてギャルっぽくなるとは思わなかったけど。もしかして紫って外面はお嬢様っぽくしてるけど、内心ではギャルにちょっと憧れてるんじゃないか?」


「さあね。そうかもしれないけど」


 そこで紫がおどけた態度を取るのを、暁子と優菜もやれやれとでも言いたげな表情で眺めていたが、潮音は自分とタイプが異なる人でも受け入れる懐の深さこそが、紫のいいところではないかと感じていた。


 しかしそこで優菜が、不安そうな表情で口を開いた。


「でもほんまに大丈夫なんかな。椎名君が水泳部の寮を抜け出して女の子と会ったことが周りにバレたら、厄介なことになるかもしれへんで。ただでさえこの六月の終りには高校水泳の県大会があって、練習かて忙しいのに」


「会うったってちょっと話をするだけで、一時間もかからないから…ここは玲花と話し合って、セッティングをしてもらうしかないかな」


 そのときの潮音は浩三のためなら、ある程度泥をかぶるのも仕方ないと覚悟を決めていた。


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