第六章・ハッピー・バースデー(その5)

 そうやって皆で一通り遊んだ後で、初夏の陽が西に傾いた頃になって誕生日のパーティーはお開きになった。一通り片付けを済ませて、暁子の家を後にするときには、紫と玲花は意気投合しておしゃべりに興じていた。潮音もみんなから遅れて暁子の家を後にしようとすると、暁子が潮音を呼び止めた。


「潮音、もうちょっと話していかない?」


 西日が照らす散らかった居間も、皆が帰るとがらんとしていて、先ほどの喧騒が幻のようだった。そのような居間の一角で、暁子は潮音にふと息をつきながら声をかけた。


「尾上さんがしばらく見ないうちにあんなになってるとは思わなかったよ。高校デビューってやつかな…」


「尾上さんは中学では真面目そうにしてたけど、内心ではそういうのに憧れていたのだろうか。それでも尾上さんは、紫と最初は反発していたのに、結局は仲良くなっちゃうんだもんな…。見た目は全然違うのに、どうしてあんなになれたんだろう」


「峰山さんも内心では案外、自分には持ってないものを持っている尾上さんにちょっと憧れたのかもね。正反対だからこそパズルのピースが合うように仲良くなれたのかもしれない」


 しかしそこで、暁子はいきなり目を伏せてためらい気味にぼそりと口を開いた。


「あたしも…尾上さんみたいになれたら少しは物事にも積極的になれて性格も明るくなれるかな」


 その暁子の話を聞いて、潮音は頭の中で暁子が今日の玲花のようなギャル風の服を着ている様子を想像すると、思わず吹き出してしまった。


「やめとけよ。あんなかっこ、暁子に似合うわけないだろ」


 潮音がいきなり笑ったのに、暁子はむっとした表情を浮べた。潮音はそこで、「暁子は暁子らしいのが一番」という言葉が喉の奥まで出かかったが、そのとき潮音は少し前に優菜と話したとき、優菜が言った言葉を思い出していた。


──そない言うけど、潮音こそ「アッコらしい」ってどんなことか、ほんまにわかっとったん。


 潮音は暁子の表情を見つめながら、自分が変ったのと同様に、暁子も変ってきているのかもしれない、このままでは自分の暁子との関係はこれまで通りにはいかないかもしれないということをひしひしと感じ取っていた。


 とりあえず、潮音は暁子にこのように声をかけることしかできなかった。


「もっと元気出せよ。自分は他人のようにならなきゃいけないなんて、そんな風に考えることなんかないってば。暁子には暁子のいいところがあるはずだろ」


 それを言われたときの暁子は、ただ黙って考え事をしているようなそぶりを見せるのみだった。


 ちょうどそのとき、玄関の方で物音がした。栄介が外から帰ってきたのだった。栄介は居間に入ってくるなり、潮音と暁子の姿を見てそのまま固まってしまった。栄介は自らが幼い頃から一緒に遊んできた潮音が、女性になってしまったことをいまだに心の中で受け入れられないように見えた。潮音に向けられた栄介の眼差しからは、動揺と困惑の色がありありと見てとれた。


「栄介…どうしたんだよ。オレが女になって、やはり戸惑っているのか?」


暁子も栄介の当惑したような表情を目の当たりにして、あわてて栄介をなだめようとした。


「栄介…潮音だって女の子になりたくてなったわけじゃないんだよ。潮音が今こうやって学校に行ったりみんなと遊んだりできるようになるまでに、どれだけ苦しんだと思ってるの」


 そこで潮音は、思わず声を上げていた。


「暁子も少し落ち着いてよ。栄介の気持ちだってわかるし、ここは少し栄介をそっとさせてやってよ」


「あんたっていつもそうなんだから。あんたはちょっと優しすぎるよ。栄介だって今の潮音のことを受け入れなきゃいけないのに」


 暁子が潮音に対して語調を強めるのを聞いて、栄介も困ったような表情をしながら声をあげた。


「姉ちゃんもやめてよ。たしかに潮音兄ちゃんが女になっちゃったときは驚いたし、なかなか受け入れられなかったよ。今でも潮音兄ちゃんが男のままだったらって思うことはよくあるよ。でも…潮音兄ちゃんがこうやって頑張って姉ちゃんとも一緒にいるのを見てると、やはり今でもちっちゃな頃からいつも一緒に遊んでいた潮音兄ちゃんと変っていないなと思うんだ」


 栄介が潮音と暁子に打ち明けたのを聞いて、暁子は表情をゆるめていた。


「栄介、よく話してくれたね。あたし…このところ栄介のことが気になってたんだ。あたしが話しかけようとしても、つれない返事ばかりして全然話に乗ろうとしないし。やはり潮音のことが気になっているのかなって…」


 それを聞いて潮音は、息をつきながら言った。


「栄介も気難しい年頃だからな。このくらいの歳の男の子なんてだいたいそういうものだよ。気にすることなんかないよ」


 暁子は潮音の話を聞いて、わかったようなわからないような、戸惑ったような表情をしていた。


「でも綾乃お姉ちゃんは、あんたに対してももっとうまく接することができてるのに…」


「何度も言わせるなよ。暁子は暁子のままでいいって。暁子はちゃんと栄介の面倒を見てきた、それでいいじゃないか。たしかに暁子はうちの姉ちゃんみたいにはなれないかもしれないけど、暁子には暁子しかないものがあるはずだろ」


 その潮音の言葉には、むしろ栄介の方が照れくさそうにしていた。そこに久美がかけつけると、久美はそっと栄介をなだめながら潮音に声をかけた。


「潮音ちゃんもこういうところ見てると、やはり昔のままよね。今日は暁子のために、わざわざケーキまで焼いてくれてありがとう。これからもずっと、暁子や栄介と仲よくしてくれるといいのにね」


 久美にそこまで言われると、潮音も気後れせずにはいられなかった。そのまま潮音は、暁子の家を後にして自宅に戻った。


 その日の晩になって、潮音がスマホを見ると、SNSにメッセージが入っていた。そのメッセージの送り主は玲花だったが、玲花は今日行われた暁子の誕生日パーティーが楽しかったとお礼を言うとともに、潮音と話したいことがあるからできるだけ近いうちに時間を作って会ってほしいというメッセージを送っていた。潮音は先ほど、玲花と話していて話題が浩三のことになったときの玲花の気づまりそうな表情を思い出して、玲花と浩三の間に何かあったのだろうかと直感的に感じていた。



 暁子の誕生日パーティーから数日たった放課後、潮音は神戸の街中で玲花と待ち合わせて、喫茶店に入るとテーブルに向かい合って腰を下ろした。玲花はTシャツにデニムのスカートを合わせて肩にリュックを背負ったラフな装いだったが、むしろ潮音の制服姿に視線を向けていた。


「やっぱ松風の制服ってかわいいわあ」


「そんなに言うなら、尾上さんこそ松風に入学すれば良かっただろ」


 潮音がむっとした表情で答えても、玲花は取り澄ました表情をしていた。


「女子校っていうのがどうもねえ。私はやっぱり共学の方がええかなと思ったんやけど。こないだの誕生日に来てた松風の子かて、いかにもお嬢様って感じの子やったやん」


「その割には尾上さんは峰山さんと仲よさそうにしてたじゃん。やっぱり尾上さんは峰山さんと気が合ったわけ?」


 しかしそこで、潮音は気を取り直して、あらためて玲花の顔を見つめた。


「でも今日尾上さんがわざわざオレのことを呼びつけたのはそんな話じゃなくて、椎名のことだろ。いったいどうしたんだよ」


 潮音に問われると、玲花はたちまち表情を曇らせた。


「その話やけど…椎名君はたしかに水泳部の強化選手としてスポーツ推薦で南稜に入ったんやけど、最近スランプになっとるみたいなんや。タイムかて落ちとるし」


 その玲花の言葉を聞いて、潮音は顔に当惑の色を浮べた。


「いったいどういうことだよ」


「そりゃ南稜の水泳部にはそれこそ遠いところからも選りすぐった優秀な選手が集まっとるし、練習や寮生活かて厳しいからスランプになるのも無理はないよ…。うちらの中学の水泳部でお山の大将だった頃とは違うんよ」


 潮音は自分自身が松風女子学園で、勉強にも優れてリーダーシップもある少女たちを何人も目にしてきただけに、浩三の気持ちもわかるような気がしたが、潮音は浩三の抱えているプレッシャーはそれどころではないのだろうということは容易に想像できた。しかしそれでも、潮音は玲花の話に動揺せざるを得なかった。


「でも椎名はスポーツ推薦で入学したんだろ? それで成果出せなかったらどうするんだよ」


 それに対して玲花は困惑した表情を浮べながら黙っていたが、しばらくして言葉を継いだ。


「それだけやないで。どうやら椎名君は、学校のたちの悪い子たちのグループともつき合い出しとるみたいなんや。このままやったら、ほんまに椎名君はだめになってまうかもしれへんよ」


「あのバカ…あいつから水泳取ったら何が残るんだよ」


 そこで玲花は、懇願するように潮音の顔を見た。


「だから藤坂さんは、椎名君に会って励ましてほしいんよ。そしたら椎名君かてちょっとは元気出るかもしれへんから」


「でも…いつどこで会えばいいんだよ。南稜の運動部の寮はあまり自由に外出もできないんだろ」


「日曜の半日くらいやったらなんとかなるから…お願い、いっぺん椎名君に会ってよ」


 潮音は玲花にそこまで懇願されたら、それを断ることはできなかった。しかし潮音は喫茶店を後にして玲花と別れると、重責を引受けさせられたことをひしひしと感じて、思わず不安で身を引きそうにならずにはいられなかった。

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