第六章・ハッピー・バースデー(その2)

 暁子の誕生日パーティーが近づいたある日、潮音が帰宅しようとすると校門で優菜が声をかけた。


「潮音、アッコの誕生日の準備進んどる?」


 優菜に尋ねられても、潮音はしんどそうに息をついた。


「さっぱりだよ…。暁子のためにケーキを焼こうと思ったんだけど、今までそんなこと全然やったことなんかなかったから、わかんないことだらけでさ」


「無理して難しい料理を作る必要なんかあらへんやん。潮音が心を込めて一生懸命作ったものこそ、アッコは喜んでくれると思うよ」


「それはわかってるんだけどさ…」


 そこでまた潮音は肩を落しながら、ため息をついた。


「ほんまにじれったいな。うまくできへんとか言ってうじうじ悩んでばかりおっても、前に進むことはできへんよ。そんなときはちょっと気分を変えてみたらええやん」


 潮音が優菜に疑問の入り混じったまなざしを向けると、優菜はにこりとしながら潮音を見返して言った。


「木曜の放課後、久しぶりにあたしと一緒にプールで泳がへん?」


 潮音はいきなり、優菜からそのような提案をされたことに少し驚いた。


「優菜が水泳部に入ったということは聞いてたけど…おれもプールで泳いでいいの?」


「木曜日は水泳部の練習ないけど、プールは開放しとるからうちの学校の生徒やったら誰でも入れるよ。ま、うちは水泳部と言うても、部員もそんなにおらへんし、大会とかに出とるわけでもないけどね。潮音も水着は持っとるやろ?」


「ああ…そうやって気分転換したら気持ちもすっきりするかもしれないな。プールで泳ぐなんて久しぶりだから、どのくらい泳げるかはわかんないけど」


 不安そうな顔をする潮音を、優菜はなだめるように言った。


「そんなん気にせんでもええやん。むしろ今の方が、タイムを縮めなあかんとか競争に勝たなあかんとか考えへんで、泳ぐこと自体を楽しむことができるやろ?」


「そうだな…優菜と話してみて、ちょっと気が楽になったよ。木曜日にプールに行ったときにはよろしくな」


 そう言ったときの潮音は、どこかふっ切れて気分が晴れたような表情をしていた。優菜もそのような潮音の顔を見て、中学生のときに潮音と共に水泳部で練習をしていたときのことを思い出しているようだった。


 潮音は帰宅すると、クローゼットの中から競泳用の水着とスイミングキャップ、ゴーグルとタオルを取り出してプールで泳ぐ準備を整えた。



 そして潮音が優菜と一緒にプールで泳ぐことを約束していた木曜日、ホームルームが終ると潮音と優菜はさっそく校内にある温水プールに向かった。


 潮音はプールのロッカールームで、優菜と並んで水着に着替えるときにはやはり緊張せずにはいられなかった。潮音は自分も女子としての生活になじむにつれて、体育の授業の前後には女子と一緒に着替えることに対して以前ほどは抵抗を感じなくなっていたとはいえ、いざ優菜と一緒に水着に着替えるとなると、自分が今の学校で他の生徒から隠していたものを、あらためてさらけ出さなければならなくなったような気がしていた。


「どないしたん? やっぱり水着になるのいやなん?」


 潮音が水着を手にしたまま立ちすくんでいると、優菜は怪訝そうな表情をした。しかしそこで潮音は、あえて首を振った。


「いやだったらそもそもここにいるわけないだろ。ただ、中学のときに水泳部にいた頃のことをちょっと思い出しちゃってね…」


「だからそのクヨクヨした気持ちを忘れるために、今日このプールに来たんやろ? だったらさっさと着替えな」


 優菜に言われて、潮音はようやく着替える気になった。潮音はまずソックスを脱ぐとスカートに手を入れて、スパッツとショーツを水着に履き替えた。ようやく下半身に水着の感触がなじんでくると、潮音はまずスカートのホックを外して両足から引き抜いた。さらに胸元のリボンを外してブラウスのボタンも外すと、肌を露出しないようにして水着をじりじりと引き上げていき、ブラも外して水着の生地を両胸に当て、水着の肩紐に両腕を通した。


 潮音が制服をきちんと畳んでロッカーにしまい、髪を結んでそれをスイミングキャップに収めると、優菜も着替えを済ませていた。そして潮音と優菜はシャワーを浴びると、連れ立ってプールに向かった。


 窓から午後の陽の照らす室内プールは泳ぐ人も少なく、しんと静まり返っていた。潮音は準備運動を済ませて、目にゴーグルを当てて少しプールで泳いでみると、中学生のときに夕凪中学のプールで水泳の練習に明け暮れていた夏の日の感触を思い出していた。今の潮音にとっては、プールの水の中で体を目一杯動かすことができるだけでも心地よい思いがした。


 優菜も一緒に泳ぎながら潮音の泳ぐ姿を眺めていて、潮音の表情から不安げな様子が消えて自然さが蘇ってくるのをあらためて感じていた。潮音は一通り泳ぎ終ると、プールサイドで優菜と一緒に休憩を取ることにした。


「潮音、こないしとると中学で水泳部におった頃のことを思い出してしまうよね」


「ああ…椎名も尾上さんもいないけどな。椎名も尾上さんも、南陵でちゃんと元気にやってるんだろうか」


「そんなに心配やったら、潮音も連絡取ってみたらええやん」


「尾上さんはともかく、椎名は水泳部の強化選手として寮で厳しい生活を送ってるみたいだからな。…それに尾上さんに連絡取るのもなんか照れくさくてさ」


「あの頃の潮音は、尾上さんの方ばかり向いとったくせに」


「悪かったな。…あの頃のオレは、優菜がオレのこと好きだなんて全然気づいてなかったから」


「それはしゃあないよ。尾上さんはあたしなんかよりずっと美人で大人びとるもの。でもそれ言うんやったら、アッコかてそうやろ」


「…あいつに限ってそんなことあるわけないって思ってたけどな。…でも塩原さんって、このオレが女になってしまってどう思ってるわけ」


「だから何べんも同じことばかり言わせんといてよ。今日はパーッと泳いでそんな難しいことなんかみんな忘れようって」


 そう言って優菜は再びプールに入ると、クロールでプールを悠然と一往復した。


「潮音もおいでよ」


 優菜に誘われるままに潮音も再びプールに入り、そのまま何往復か泳いだ。今の潮音は、プールの水で自分の脳裏にこびりついた雑念まで洗い流してしまいたいと思っていた。


 そうしているうちに下校時間も近づいたので、潮音と優菜は泳ぎを切り上げて帰宅することにした。


「今日泳いでみて、少しは気分がすっきりしたやろ?」


「ああ…久しぶりに泳いでみて楽しかったよ。これも優菜のおかげだよな。どうもありがとう」


 潮音にお礼を言われて、優菜は照れくさそうな顔をした。


「潮音って今学校ではどこの部活にも入ってへんのやろ? だったらもういうっぺん水泳部入らへん? 潮音やったらすぐに練習に追いつけるよ」


 優菜に言われて、潮音は少し当惑の色を浮べた。


「でも今バレエもやってるし、勉強だってついてくのも大変だし…」


「もちろん無理に入れとは言うてへんよ。いつでも気が向いたときには、このプールに泳ぎに来るとええよ」


 そう言って優菜は、潮音と一緒にシャワー室に向かった。


 ロッカールームで水着から制服に着替えを済ませてドライヤーで髪を乾かし、帰り支度を終えて校門へと向かう途中で、優菜はあらためて潮音に声をかけた。


「ともかくアッコの誕生日のことで困ってることとかあったら、いつでもあたしのとこに言いに来てよ。あたしもアッコほど料理はうまくないけど、協力することくらいやったらできるから」


「ああ…どうもありがとう。でも暁子の誕生パーティーって誰が来るのだろう。暁子の家の広さや食事の手間とか考えたら、そんなにたくさんの人は呼べないかもしれないな」


「それやったらあたしももう何人かには声をかけとるで。誰が来るかは内緒やけどな」


 潮音はそのときの優菜の思わせぶりな口調から、優菜が誰に声をかけたのかだいたい想像はついていた。しかし潮音は、これ以上この話題について話すのも無粋だと思って、口をつぐんでしまった。


 潮音は帰宅すると、あらためて中学校の卒業アルバムを取り出して、自分が中学生のときにひそかに想いを寄せていた尾上玲花の写真を眺めてみた。潮音は玲花に会うのは高校の入学式の日以来かということにあらためて気がついて、玲花と再会することに対して心のざわつきを感じずにはいられなかった。

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