第六章・ハッピー・バースデー(その1)

 体育祭から一週間近くが過ぎると、梅雨入りが宣言されて空も曇りがちになり、六甲山の緑もより潤いを増してくるだけでなく、街中ではあじさいの花が色づくようになる。


 さらに六月の半ばになると、松風女子学園の中等部三年は九州、高等部二年は北海道へと修学旅行に出かけていった。潮音のまわりには、来年は自分たちが修学旅行に行く番ということもあって、先輩たちの土産話を着くのを楽しみにしている生徒たちもちらほらいた。


 そのようなある日の昼休み、潮音は校内のカフェテリアで弁当を広げながら優菜と向き合っていた。


「優菜も知ってるだろ? 暁子の誕生日の六月十八日までもうすぐだって」


「潮音こそアッコの誕生日のこと、よう覚えとるな」


「そりゃちっちゃな頃は、この日には暁子の家で誕生会をいつも開いていたからな。でも優菜も気にならないか? 高校入ってしばらくしてから暁子の様子が変だって。…なんかオレが女になって、今まで暁子の知っていたオレが変っていくのが不安だとか言ってたけど」


 潮音に言われて、優菜もやや不安げな表情をした。


「そりゃアッコの気持ちかてわかるけど…アッコもいいかげんに大人にならんとあかんのにな。アッコは自分こそがずっと潮音のそばにおって、潮音のことわかっとったのは自分やと思っとったのかもしれへんけど、潮音かて自分とは違う、自分の考えを持った一人の人間で、いつまでも自分の思い通りになるわけやないって、そこからまず認めなあかんのに」


 優菜に言われると、潮音もやや目を伏せ気味に答えた。


「オレだって男からいきなり女になっちゃって、それからこの学校になじもうと必死で努力してきたのに、『いつまでも自分の知っているオレのままでいてほしい』なんて、そんなの無理だよ。だいたいああやってグズグズしてるなんて、暁子らしくないよ。あいつは明るくて元気なところが取り柄だったのに」


 そこで優菜は、あらためて潮音の顔を向き直した。


「そない言うけど、潮音こそ『アッコらしい』ってどんなことか、ほんまにわかっとったん」


 優菜にそこまで言われると、潮音も口をつぐんでしまった。そこで優菜はさらに言葉を継いだ。


「『アッコらしい』ってどんなことかなんて、本人にすらわかってへんかもしれへんよ。まして他人になんかわかるわけないやん。だから潮音はそんなことばかりいちいち難しく考えへんで、いつも通りにアッコと接すればええと思うけど」


 それでも当惑したままの潮音を見て、優菜はじれったそうな顔をした。


「それやったら、今度の誕生日はええチャンスやん。誕生日こそ潮音がアッコのために何かやったら、アッコの気持ちかてちょっとは晴れるんやないかな」


「でも暁子のために今さら何をすればいいんだよ」


 潮音の当惑したような表情を見て、優菜はやれやれとでも言いたげな呆れた表情をした。


「ほんま鈍感やな、あんたって。あんたとアッコとは昨日今日の付き合いやないんやから、それくらい自分の頭で考えな。まさか今も、自分は暁子に何をプレゼントすればええかわからへんとか思っとるんやないやろね」


 そこで優菜は、あらためて潮音の顔をまじまじと見つめながら言った。


「潮音が高いお金出してプレゼントを買ったりしたって、アッコは喜ばへんと思うよ。アッコのために潮音にしかできへんことはないか、もっとよく考えるんやな」


 優菜がそこまで言ったとき、昼休みの終りを知らせるチャイムが鳴った。潮音は優菜と別れて教室に戻る間も、自分はもうすぐ来る暁子の誕生日に何をすればいいのかという悩みが離れなかった。


 その一方で優菜は、潮音と別れてからも一つの疑念を心の中に抱いていた。


──アッコは潮音が男の子やった頃から、ひょっとしたら潮音に惚れとったのかもしれへんな。アッコ自身も、そのことを意識しとらへんかったのかもしれへんけど…潮音が女の子になったこどで、あらためて自分のそのような気持ちに気いついたんやないやろか。


 その日の放課後になって、暁子は今日は手芸部の活動もないから、一緒に帰宅しようと潮音に声をかけてきた。潮音はやや気まずそうに、適当な理由をつけてそれを断ったが、そのときの暁子は教室に一人取り残されたまま、どこか狐につままれたような表情をしていた。



 潮音は帰宅してから、綾乃にもうすぐ暁子の誕生日だから、自分も何かしたいと打ち明けた。そのときも潮音は、暁子が自分との関係のことで最近悩んでいるようだと明かすことを忘れなかった。


「姉ちゃんは昔から暁子の誕生日には、フェルトでマスコットを作ったり、ケーキを焼いたりしてたよな。オレもそのくらいできりゃいいんだけど」


「何もあんたが、私と同じことしなきゃいけないわけでもないでしょ」


「それくらいわかってるよ。でも暁子には高校入るときも、そして高校入ってからも世話になってばかりだから、暁子に感謝するためにもここで何かしなきゃと思うんだ」


「じゃあ暁子ちゃんの誕生パーティーでも開いてあげて、そこでパーッと遊んでいやなことなんか忘れちゃえば? あんたは暁子ちゃんのために何かしなければと無理に意気込まなくたって、いつも通りに自然に暁子ちゃんと接するのが一番だと思うよ」


「その『いつも通りに自然に』というのがわかんないから、オレはこんなに困ってるんだよ。オレと暁子の関係が昔のままじゃいられないってことはオレだってわかってるし、暁子だってそれで悩んでるんだろ」


「そんなことでクヨクヨ悩んでるくらいなら、その間に一つでも何かやりなよ。そうしないと何も物事は良くならないよ」


 そこで潮音は、昼休みに優菜と話したときから、心の中でひそかに温めていたアイデアを思いきって綾乃に打ち明けてみた。


「あ、あの…オレが昔姉ちゃんが暁子の誕生日によくやっていたようにケーキを焼いてみるのはどうかな」


 綾乃はその潮音の告白を聞いたとき、呆れたような表情で潮音の顔をまじまじと見た。


「あんた、今からケーキの作り方を勉強する気? ホットケーキを一枚か二枚焼くならまだしも、誕生日用のデコレーションケーキはけっこう作るの面倒だよ」


「そりゃ暁子だって、そんな手の込んだ料理をしてほしいなんて思ってないと思うよ。でもオレだって暁子のために何かしなきゃって思うんだ。オレは暁子のために高いプレゼントを買える金なんか持ってないけど、せめてもの誠意を示すしかないんだ」


 そのときの潮音の真摯なまなざしを見て、綾乃も潮音は少なくとも暁子のことを大切に思っていることは理解したようだった。


「わかったわ。ケーキの作り方とかでわからないことがあるなら、私に聞きなさい。私のできる範囲だったら協力してあげるよ。あと今はインターネットでもケーキの作り方のレシピはけっこうあるから、それを見ておくといいわ。でもその前に、ケーキと言ったっていろんな種類があるから、まずはどんなケーキを作るか決めるところから始めないとね」


 潮音は言われてみればそうだったと思うと、自分が今まで食べてきたケーキの種類をいろいろと思い浮かべてみたが、それらをどうやって作るのかということに対して、なかなかイメージをつかむことはできなかった。綾乃はそのような潮音の様子を見ていて、これでは先行きは長そうだと思って、あらためてため息をついた。そこで綾乃は、ケーキの作り方を書いた本を持ち出して、あらためて潮音に見せてやった。


「まずはこれでも読んで、どんな料理がしたいのか、どんなものなら作れそうか考えてみるのね」


 潮音はパラパラと料理の本をめくってみて、自分はまた厄介なことに自分から手を突っ込んでしまったと感じたが、暁子のことを考えるともう後には退けないと意を新たにしていた。



 潮音は暁子の誕生日パーティーを開く日取りを、暁子の誕生日に一番近い日曜日と決めたが、それまでに潮音はまずはどんなケーキを作るかを決めてその作り方を覚えなければならないと思った。


 潮音は学校の休み時間も、暁子に気づかれないようにケーキやお菓子の作り方のレシピをまとめた本を広げたりもしてみたが、潮音は料理の基本の用語すらわからない状態で、最初はレシピを見ても理解できないことだらけだった。


 しかし暁子は、潮音が自分を避けようとする不自然な態度を取ったりしていることなどから、潮音が自分の誕生日のために何かをしようとしていることなどとっくに気づいていた。


──ほんとに潮音って、隠し事するのが下手なんだから。


 暁子は潮音の不器用さに対して、あらためて内心でため息をつきたくなったが、潮音のそのような気持ちだけを察して、わざと潮音に気づかれないようにおとなしくしていた。

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