第五章・体育祭(その4)

 そうやって体育祭が近づくうちに、一年桜組全体の雰囲気もますます盛り上がっていった。特に紫は、愛里紗のいる楓組には負けられないと闘志を燃やしていた。周囲はあの普段は落ち着いて大人びている紫までもが、体育祭を前にここまで気分を高揚させるとはと思っていたが、さらに桜組の担任である美咲までもが、特に自分とは中等部に在学していた当時からの因縁がある紗智が担任をしている楓組には負けられないと思っているようだった。


「なんか美咲先生…ある意味生徒以上に体育祭に対して盛り上がってない?」


 体育祭を明後日に控えた昼休みに、潮音は寺島琴絵に聞いてみた。もともとスポーツが得意ではなく、物静かな性格の琴絵は、体育祭に対しても他の生徒に比べて、一歩身を引いた冷ややかな態度を取っていた。


「美咲先生はもともとあの通りのお調子者だしね。それに山代先生とはうちの学校の中等部から一緒だったようで、その頃から何かあったんじゃないかしら」 


 その琴絵の答えを聞いて、潮音は納得したような、しないような曖昧な表情をした。


 そして体育祭の前日になると、授業も午前で終りになり、生徒たちは午後から体育祭の会場の設営などの準備に取りかかることになる。潮音も暁子と一緒に最後の応援合戦の練習を行っていたが、初夏の汗ばむような陽気の中で黒い学生服を着て応援をするのはさすがに皆暑いようで、どの生徒も汗だくになっていた。


 そのとき潮音の背後から、かわいらしい感じの声がした。


「あの…あなたが高等部一年桜組の藤坂さんですか?」


 潮音が声のした方を振向くと、声の主は見た目はいかにも可憐そうな中にも、その一方で元気そうな感じのする中等部の生徒だった。その姿を見て暁子は声をあげた。


香澄かすみじゃない。お姉ちゃんを探してるの?」


 潮音は暁子がその「香澄」と呼ばれた生徒に親しげな態度を取るのを見て、しばらくきょとんとしていた。そのような潮音に、暁子が声をかけた。


「紹介するね。この子は松崎香澄といって、中等部の二年で私と同じ手芸部にいるんだ。松崎千晶先輩の妹だよ」


 暁子の紹介を受けて、香澄も潮音にぺこりとお辞儀をしながら挨拶をした。


「はじめまして。私はさっき石川さんから紹介してもらった、中等部二年梅組の松崎香澄と申します。姉は高等部で生徒会長をしています。手芸部では石川さんにいろいろお世話になっています」


 その所作は、いかにも礼儀正しくきちんとしていて、千晶ともどもしつけの厳しい家庭に育ったことを思わせた。そのような香澄の態度には、むしろ傍らにいた暁子の方が気恥ずかしそうにしていた。


「そんなにかしこまらないでよ。手芸だったら香澄の方がずっとうまいじゃない。むしろ手芸部では香澄の方こそ先輩なのに」


「でも…高等部の皆さんはこうやって学ラン着てるとかっこいいですね。私も来年は応援合戦では学ラン着ようかな」


「いいことばかりじゃないぞ。この季節にこんな服着てると暑くてたまんなくてさ」


 潮音が話すのを、香澄もきょとんとしながら聞いていた。いつしか桜組の高等部の生徒たちも応援合戦の練習の手を止めて、香澄のまわりに人だかりを作っていた。


「やっぱり松崎さんの妹だけあってかわいいわ」


 高等部の生徒たちはみな香澄のかわいらしい感じに引きつけられて歓声をあげていたが、そのときその場に、松崎千晶が姿を現した。


「香澄、体育祭の準備があるんでしょ。こんなところで何やってるの」


「そうでした。中等部と高等部で体育祭の進行について話し合うために、お姉ちゃんと話をしに来たのに」


 香澄が少々悪びれたような表情をするのを見て、千晶はため息をついた。香澄の明るく天真爛漫な様子は、怜悧で凛々しい千晶とは姉妹でありながら全く対照的だった。潮音もいささか呆れたような眼差しで、その場を後にする千晶と香澄を見送ったが、体育祭の準備中にあまり無駄口ばかり叩くわけにもいかないと思って、その場は体育祭の準備に戻ることにした。



 初夏の日が西に傾いて、体育祭の準備も一段落して帰宅時間になると、潮音は暁子と一緒に制服に着替える途中で、話題を香澄のことに振った。


「松崎生徒会長の妹ってあんななの? あんまりお姉ちゃんとは似てないけど」


「ああ。手芸部に入ったのだって、お姉ちゃんが剣道やってるのを見て、自分はとてもあんな厳しい練習にはついていけないと思ったからだって言ってるし…。でも根はすごくしっかりした子だよ。手芸部の活動だってまじめにやってるし」


「でも梅組だったら、明日の体育祭ではライバル同士じゃん。梅組には生徒会副会長の椿絵里香先輩だっているし」


 そして潮音と暁子が身支度を済ませて帰宅しようとすると、校門で香澄に出会った。香澄は胸元のリボンの色が潮音たちとは違う、中等部の制服を着ていたが、潮音と暁子の姿を見るなり、人懐こい様子でそばに寄ってきた。


「藤坂さんと石川さん、これから帰るのですか?」


「ああ。でも中等部の松崎さんがどうして私のこと知ってるわけ? まさか暁子から変なこと吹きこまれたんじゃないだろうな」


 潮音が不審そうな目を香澄に向けても、香澄は取り澄ましたような表情をしていた。


「藤坂さんは中等部の間でも有名になっていますよ。長束さんとケンカしてテニスで勝負したとか、峰山さんと榎並さんのケンカをなだめたとか。私も藤坂さんといっぺん話がしてみたかったんですが、今日藤坂さんが学ラン着て練習しているのを見て、ますます藤坂さんはかっこいいと思いました。峰山さんやバスケ部の吹屋さんは前から私たちの学年で憧れてる子はいましたけど、藤坂さんも負けてなかったですよ」


 潮音は香澄が自分に対して憧れにも似た眼差しを向けて目を輝かせているのに、げんなりとした気分にさせられた。


「私は自分のやりたいようにやってるだけで、中等部の子たちから憧れられるようなことやってるつもりなんかないんだけど…」


 しかし潮音のそのそっけない態度は、香澄の憧れをさらに増幅させただけだった。


「そうやって変に威張ったりしないところがますますかっこいい」


 香澄が目を輝かせるのを見て、潮音はますます困惑の色を浮べた。その潮音と香澄のやりとりを、暁子はどこかおかしげなものでも見るかのような表情で苦笑いを浮べながら眺めていた。


「ちょっと香澄、さっきから潮音とばかり話してるけど、私のことはどうなの」


「石川さんも学ラン着てるとかっこよかったですよ」


 香澄は暁子に対するフォローも忘れなかったが、そうこうしているうちに、香澄のクラスメイトらしい中等部の生徒たちが何人か、潮音たちのまわりに集まってきた。その中等部の生徒たちも皆、潮音の姿を見て歓声を上げた。


「これが藤坂さんですか?」


「私も藤坂さんにいっぺん声をかけてみたかったんです」


 潮音は中等部の生徒たちにもみくちゃにされて、すっかり当惑してしまった。


「やはり藤坂さんは中等部のみんなにも人気ありますね。桜組に梅組とクラスは別になっちゃったけど、明日の体育祭も頑張って下さいね」


 香澄はそう言い残すと笑顔で手を振って潮音や暁子と別れ、クラスメイトたちと一緒に帰途についた。


 潮音は暁子と一緒に校門を後にしてからも、ずっと困惑したような表情が抜けなかった。暁子はそのような潮音の様子を見て、自分自身困ったように潮音に声をかけた。


「松崎さんの妹って、たしかに明るくて素直で人懐こくて、いい子なんだけどねえ…」


「そりゃあの子に悪気がないってことはわかるよ…。でもオレ、中等部でも有名になってるってほんとなのかよ」


「そうやって学校の人気者になれるんだったら、むしろいいじゃん」


 暁子が茶化すように言うと、潮音は人の気も知らないでと言いたげな、むすっとした表情を浮べた。それを横目に、暁子はやや感慨深げに潮音に話しかけた。


「でもあたしは、うちの高校に入ったときでさえ、潮音がこんな風になるなんて思ってなかったよ。こんなに積極的で、みんなにも受け入れられる子になるなんてね。あたしはあんたが女の子になっちゃったときは、なんとかしてあんたのこと支えてあげなきゃと思ってたんだけど…今じゃあんたの方があたしよりもずっと先を歩いているような気がする」


「そんなことないよ。暁子こそオレのことなんかあまり気にするなって」


 潮音は暁子に褒め言葉をかけられても、心の中では明日の体育祭は果たしてどうなるのだろうかということばかりが気になって、ますます不安を覚えずにはいられなかった。

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