第五章・体育祭(その3)
その翌日、潮音はきちんと畳んだ学生服を学校に持ってきた。暁子にも栄介の学生服を持ってきたかきいてみると、暁子は黙って学生服を入れた包みを見せた。
放課後になって、潮音はさっそく控室で学生服に着替えてみた。しかし黒い詰襟の学生服に着替え終った自分の姿を鏡に映してみて、潮音は軽くショックを受けた。
潮音はたしかに、中学生のときには男子としてこの学生服を着て毎日中学に通っていた。それどころか自分が女になってからもしばらくの間は、髪を切り両胸をナベシャツで潰して、男子として学校に通おうとしていた。しかし今鏡に映っている自分の姿は、そのような「男装」ではなかった。もともと男子用にあつらえられた学生服は潮音の今の体形にはところどころ合わなくなっており、両手は袖の裾に隠れそうになっていた。長く伸ばした髪を結んだだけで、両胸も潰すことなく学生服を着ている今の自分の姿は、単に女の子が男子用の学生服を着てみているに過ぎなかった。潮音は自分が男だった日々は遠くなったということをあらためて痛感して、ため息をつかずにはいられなかった。
学生服に着替えて出てきた潮音の姿を目の当りにして、一年桜組の生徒たちはあらためて目を丸くした。実際に校内でも気の強い生徒として通っていた潮音には、学生服を着てもどこか中性的な感じがして、それが周囲の生徒たちの心をよりどぎまぎさせた。
「藤坂さん…めっちゃかっこいい」
そう言ってスマホのカメラを向ける生徒までいたのには、潮音はげんなりとさせられた。
しかしそこに紫と光瑠、潮音とは別の部屋で着替えていた暁子が姿を現すと、クラス中からあらためて歓声が上がった。暁子も栄介から借りた学生服に着替えていたが、紫と光瑠までもが学生服に着替えていたのだった。
紫の来ていた学生服は、応援団の団員がよく着る、上着の裾が長めのタイプだった。潮音は紫がこのようなコスプレっぽい学生服をどこで手に入れたのだろうかと思ったが、実際に紫は男物の学生服をきちんと着こなしており、下手な男子以上に凛々しさを感じさせた。
さらにもともと背が高くてスポーツも得意で、一部では「女子校の王子様」とも噂されている光瑠も、学生服がしっかりとフィットしていた。そのまま笑顔で手を振る紫に、桜組の生徒たちは皆熱い視線を向けていただけでなく、光瑠の前にも人だかりができて歓声が上がっていた。
「峰山さんも吹屋さんも、めっちゃかっこええやん。うちも応援団やってみようかな」
桜組の副委員長の美鈴も、学生服姿の紫と光瑠を前にしてすっかりハイテンションになっていた。さらにキャサリンも、これまで日本の漫画やアニメで知っているだけだった詰襟の学生服を目の当りにして、両眼を輝かせていた。
そのような喧噪をよそに、潮音は暁子の学生服姿にあらためて目を向けた。
「暁子…けっこう似合ってるじゃん」
しかしそう言われたときの暁子は、いつもの明るく元気な様子とは打って変って、どこか不安げにおどおどしているように見えた。
「…お世辞言ってくれなくたっていいよ。あたしなんかがこんなかっこしたって、峰山さんや吹屋さん、それにあんたみたいになれっこないなんてことくらいわかってる」
「暁子こそそんなことなんか承知の上で応援団に名乗り出たんだろ。もっと自信持てよ」
「いや…それだけじゃないんだ。今あたしがこの服着てみて、やっとわかったような気がしたよ。…あんたが女の子になっちゃってから、ずっとどんな気持ちで過ごしてきたかということが」
そう言う暁子は、今にも泣きだしそうな表情をしていた。そのような暁子の様子を見て、潮音は当惑の色を浮べた。
「もういい…もういいよ、暁子。これ以上オレのことでクヨクヨ悩むのはよしてくれ」
「あたしが応援団に名乗り出たのだって、そうすれば少しでもあんたの気持ちに近づけるかもしれないと思ったからなのに…」
そこで潮音はむっとしながら言った。
「それがおせっかいだって言うんだよ。暁子はオレのことなんか気にせず、自分のやりたいようにやればいいじゃん。それに…オレは人から『気持ちはわかる』なんて軽々しく言われるのは好きじゃないんだ」
そして潮音は、鼻をすすっている暁子にハンカチを出してやった。それで目元をぬぐいながら、暁子はふと小声を漏らした。
「あたしは潮音のことずっと心配してたのに、いつの間にかあたしの方が潮音に心配される側になってるじゃん」
「だからいいかげんに、そんなことばかり言ってクヨクヨするのよせよ。オレと暁子は、今までみたいに自然につき合えばいいじゃないか」
「ほんとにあんたって鈍感なんだから…あたしはそのあんたとあたしとの関係が、いつまでもこのままじゃいられないってことがわかってるから、こんなに悩んでるのに」
そこで紫や光瑠に熱い視線を向けていた周囲の生徒たちも、暁子の様子がどこかおかしいことに気がついた。
「どうしたの…石川さん。まさか藤坂さんが泣かしたんじゃないでしょうね」
「違うよ。…潮音は何も悪くないってば」
生徒の一人に声をかけられても、暁子は必死に潮音のことをかばおうとした。その様子を見て、紫はなんとかしてざわついたその場の雰囲気を落ち着けた。
「私たちもちょっと悪乗りしすぎたかしら。そろそろみんな家に帰りましょ」
そこでこの場に集まっていた桜組の生徒たちも、帰り支度を始めた。潮音も控室に戻って学生服から松風の制服に着替えようとしたが、そこで潮音は制服のスカートを手に取ったとき、心がいつになくざわつくのを感じていた。潮音はスカートをはくこと自体には慣れているはずなのに、今の心の動揺は何だろうと思っていた。
潮音は黒い詰襟の学生服には手をつけずに、学生服の裾から手を潜らせてズボンのベルトを外し、黒い学生ズボンを両足から引き抜いた。そして潮音はタータンチェックのプリーツスカートを手に取るとそれに両足を通し、学生服の裾に潜らせるようにして腰でホックを留めた。
上半身が学生服に下半身がスカートというアンバランスな恰好は、潮音の心をよりどぎまぎさせた。潮音は黒い学生服の下で、心臓が激しく波打つのを感じて、スカートの中で太ももを固く閉ざしてしまった。潮音は自分が女になって初めてスカートをはいたときの気恥ずかしさを、今さらのように思い出していた。
──どうしてだろ…学ランにスカートって、いつも制服着てるときや、男のかっこしてるときよりずっとドキドキする。
潮音はそのまま、身をすくめながら心の動揺を抑えようとしていた。しかしそのとき、控室のドアの向こうで暁子の声がした。
「潮音、いったい何してるの。あまりグズグズしてると先に家に帰るよ」
そこで潮音は、あわてて控室のドアを開けた。そこには着替えと帰り支度を済ませた暁子と紫が立っていたが、暁子は潮音の学ランにスカートという恰好を見て呆気に取られていた。
「ちょっと…なんてかっこしてるのよ、潮音」
「い、いや…それは違うんだ」
すっかりあわてふためいている潮音を見て、紫は目を輝かせながら思わず上気したような声をあげていた。
「学ランにスカートって取り合わせもなかなかいけるじゃん。いっそ藤坂さんはこのかっこで出てみたら? みんなが同じようなかっこしたってつまんないじゃない」
潮音と暁子は紫の提案を聞いて、はじめこそ困惑したような表情をしたものの、潮音は渋りながらも結局それに同意した。
その翌日、潮音は夕凪中学の女子制服である、セーラー服と対になった濃紺のプリーツスカートを学校に持ってきた。潮音は黒い学ランには、タータンチェックの松風の制服よりこっちの方が似合うと考えたからだった。
その日の練習の前、潮音が学生服に濃紺のプリーツスカートといういでたちで現れたのを見て、千晶も最初こそ呆気に取られたものの、すぐにそれを認めたようだった。
「なんか女番長みたい…でもこれもなかなかいいじゃん」
桜組の生徒たちも、潮音の姿を受け入れたようだった。そこで潮音は、さっそくクラスのみんなを向き直してきっぱりと言った。
「ボヤボヤしてないで練習始めるぞ」
潮音の一声で、桜組の生徒たちも皆応援合戦の練習に取りかかった。
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