第五章・体育祭(その2)

 潮音が体育祭の応援団長に名乗り出た翌日になると、一年桜組には暁子のほかにも、応援合戦に参加したいという生徒が何人か名乗り出ていた。その日の放課後、さっそく潮音は応援合戦に名乗り出た生徒たちと一緒に紫と光瑠に誘われて、二年桜組の松崎千晶に会いに行った。ちなみに松風女子学園の体育祭は、中等部から高等部まで同じ名前の組同士が縦割りで集まってチームを組み、各組対抗で行うのが習わしである。


 松崎千晶は高等部の生徒会長と剣道部の主将をつとめているだけあって、一見取り澄ましたようなところはあるものの、内面は凛とした気の強そうな生徒だった。紫が千晶に簡単に潮音たちのことを紹介すると、潮音は緊張気味に千晶と向き合った。千晶はこのような潮音の緊張を解きほぐそうと、微笑を浮べながら潮音に話しかけた。


「そんなに緊張しなくてもいいのよ。それに私たちは体育祭では学年は違っても、同じ桜組のメンバーとして競技を行うのだから、もっと仲良くならなきゃね。かしこまって無理に敬語を使う必要もないわ」


「はい…松崎先輩はうちのクラスでもかっこいいとか言われて人気があるので…松崎先輩に憧れて剣道部に入った子もいたとか…」


 潮音の話を聞いて、千晶は少し当惑の色を浮べた。


「私のことをそんな風に見られても困るわ。ま、私に憧れて剣道部に入ったなんて子は、稽古がきつくてやめちゃった子も大勢いるけどね」


 潮音は内心で余計なことを言ったかもしれないと思ったが、千晶が悠然ととりすました表情をしているのに少し安堵した。そこで千晶は、あらためて潮音の顔をじっと見るとはっきり言った。


「で、今度の体育祭ではあなたたちが応援団長をやることになったわけね。これから体育祭の前日までみっちり練習するわよ」


 千晶の射るような眼差しを見て潮音は深くうなづいたが、その傍らで暁子はやや不安げな表情を浮べていた。そこで千晶は潮音に尋ねた。


「ところであなたたち、学生服はどうするの? なかったら演劇部から借りればいいけど、自分の持ってるならそれでもいいわ。自分に合ったサイズでやるのが一番よ」


 そこで潮音は、自分は学生服を持っていることをはっきりと千晶に伝えた。さすがに潮音も、自分がどうして自らのサイズに合った学生服を持っているのかという事情まで千晶に伝えたりはしなかったが。


「家にお兄ちゃんか弟でもいるの?」


「はい。まあ…そんなとこです」


 千晶に尋ねられて、潮音は適当に話を取りつくろった。そのとき潮音が不自然な口ぶりをするのを見て、暁子はやはり潮音はウソのつけない不器用な性分なのだなと内心で感じて、やれやれと思っていた。そこで暁子は千晶に言った。


「うちは弟がいますから…サイズが合うかどうかはわからないけど」


 そこで千晶は、少し笑みを浮かべながら暁子に言った。


「石川さん…だったっけ、弟さんの世話は大変なんじゃないかしら」


「はい。言うことは全然聞かないし、生意気に口答えばかりするし、もう大変です」


「石川さんの家もにぎやかそうでいいわね」


 そう言うときの千晶の表情は、どこか楽しそうだった。暁子はそんなことを言ったつもりはないとでも言いたげな当惑した表情をしたが、潮音はいつもの暁子と栄介の騒がしいやりとりを思い出して、いつの間にか表情をほころばせていた。


 それからさっそく、応援合戦の練習が始まった。潮音たちは校舎の屋上でポーズや身振りまでを千晶から教わったが、そのときは千晶からもっと胸を張り、背筋や手足をぴんと伸ばすようにと厳しい声が飛んだ。さらに腹式呼吸で大声を出す練習もさせられたが、大声を出したので声がかれそうになった生徒もいた。


 空に暮色が漂うようになって練習が終る頃には、潮音たちは汗だくで、疲れのあまり肩で息をしていた。これから体育祭の当日までずっとこのような練習をしなければならないのかと思うと、早くもげんなりしている生徒もいた。


 潮音は自分が中学で水泳部に入っていたときのことや、今習っているバレエのことを考えると、このくらいの練習などさほどきつくもないと思っていたが、それよりも暁子が練習に音をあげたりしないだろうかと気がかりだった。そこで潮音は、練習でクタクタになったみんなの雰囲気を和ませようと、周りに声をかけてみた。


「ほかのクラスも、みんなこうやって練習してるのかな」


 そこで千晶はきっぱりと言った。


「どこのクラスもみんな練習頑張ってるんじゃない? でも何をやるかは当日まで秘密よ。私たちもよそのクラスのことなんか気にせず、自分たちのやることをしっかりやるしかないわ」


 潮音はとりわけ、愛里紗や優菜のいる楓組がどんな演技をするかが気になっていた。


 練習が解散となり、潮音は帰り支度を済ませると、さっそく暁子を呼び止めて一緒に帰宅することにした。潮音は駅へと向かう途中で、ぼそりと暁子に声をかけた。


「暁子…練習きつくないか? いやだったらやめてもいいよ」


「たしかにあんなに大きな声出して喉が痛くなったけど…潮音こそどうなのよ」


「オレは中学で水泳部にいたときのことや、今やってるバレエのことを思うと、このくらいの練習なんかどうってことないけどさ…暁子って中学はバレーボール部にいたけど籍だけ置いてて、あまり真面目にやってなかったもんな」


「悪かったね」


 暁子はむっとした表情で答えた。しかし暁子は内心では、潮音は水泳部で培った根性があるからこそ、自分がいきなり男から女になってしまってもなんとかやれているのかもしれない、それに比べたら自分はどうなのかと思って、潮音に対していささかの気後れを感じずにはいられなかった。


「ところで暁子…学ランはやはり栄介から借りるんだろ?」


「ああ。六月になると栄介も夏服になっているからね」


「それにしてもオレは中学のときは学ラン着てたとはいえ、六月の暑くなりかけた季節に学ラン着ることになるなんて思いもしなかったよ。当日暑くならなきゃいいけどな」


「でも明日学ラン持ってる人は学校に持ってきてそれを着てみるんでしょ? あたし…ちゃんと似合うかな」


「今さら名乗り出といて何言ってるんだよ。暁子なら大丈夫だよ」


「そうだよね…潮音。明日も練習がんばろうね」


 潮音と暁子はそのような話をしながら帰宅し、家の前で別れたが、そこで潮音を見送るときの暁子の表情はどこか寂しそうだった。


 潮音は自宅に入ると、さっそくクローゼットの中から自分が中学生のときに着ていた学生服を取り出してみた。潮音は中学を卒業してこの制服を着ることなどもはやなくなったはずなのに、なぜ自分はこの学生服を捨てずに置いていたのだろうとふと考えていた。


 潮音はあらためて、黒い詰襟の上着を自室の鏡の前で自分の体に合わせてみた。しかしそこで潮音は自分が女になってしまった直後の、自身の性別が変ってしまったということを受け入れることもできず、自分は何をすればいいのか、将来に何があるのかさえもわからないままもがいていた日々のことを思い出していた。


 潮音は黒い学生服を手に抱いたままその場のじゅうたんの上にへたりこんで、思わず息をついてしまった。その両眼には、かすかに涙すら浮かんでいた。潮音は今からでも遅くはないからこの役を辞退しようか、紫ならば事情はわかっているからそうしてもいやな顔はするまいとさえ思っていたが、一度やると決めたものを今さらになってやめるわけにはいかないと思い直すと、あらためて黒い学生服をきちんと畳み直した。

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