第五章・体育祭(その1)

 五月も終りになると、日中は汗ばむほどの陽気になり、松風女子学園も生徒たちは皆夏服で登校するようになる。しかしそれに加えて、この時期になると梅雨入り前の六月の最初の週末に行われる体育祭を控えて、校内の雰囲気はますます高揚気味になっていく。この体育祭こそ、文化祭などと並んで松風女子学園が最も盛り上がるイベントである。


 そんなある日のホームルームに、潮音の所属する桜組の教室で吹屋光瑠が、潮音や暁子をはじめとする高入生たちに体育祭について話していた。高入生たちに松風女子学園のことについて説明するのは、たいてい桜組の委員長もつとめ、気さくな姉御肌の性格で桜組のみんなからの信任も厚い光瑠の役割だった。紫もこのときは、議事の進行を光瑠に任せて自分は聞き役に徹していた。


「ともかくうちの体育祭はすごいよ。大玉転がしとか騎馬戦とかいろんな種目があって、けっこう盛り上がるんだから」


 そのような光瑠の話を、身を乗り出して聞いていたのは天野美鈴だった。もともとスポーツが得意なだけでなく、快活でお祭り好きな美鈴は、体育祭が楽しみでならないようだった。


 一方でキャサリンも、日本の学校の体育祭の話を興味深げに聞いていた。その様子を見て、寺島琴絵がキャサリンに尋ねてみた。


「そりゃイギリスの学校に日本みたいな運動会や体育祭はないかもしれないけど…『ハリー・ポッター』のホグワーツ魔法学校にも、クィディッチの大会があるじゃない」


「それと日本の運動会は全然違います」


 キャサリンも日本の漫画やアニメなどを通して、日本の学校の体育祭のことは知っていたようだが、それをいざ自分が体験することにわくわくしている様子が見て取れた。


 光瑠の話を聞いているうちに、潮音は女子校の体育祭が案外荒っぽいのに驚いていた。そこで潮音は、光瑠に対してわざと意地悪っぽく話しかけてみた。


「私の通ってた中学の体育祭なんか、男子と手をつないでフォークダンスとかやったりもしてたんだけどな」


 潮音がそう言うと、特に中入生たちの間からざわめきが起きたが、そこで長束恭子がはたから口を挟んだ。


「だからといって、かっこいいイケメン男子と手えつないでフォークダンスできるわけやないやろ」


 恭子が潮音に対して悪態をつくと、潮音も一本取られたようなばつの悪そうな顔をした。光瑠はそれをやれやれと言いたげな表情で眺めていたが、場が落ち着くとあらためて光瑠はみんなに言った。


「ともかく共学の学校では、重い荷物運んだり力仕事やったりするのは男子に頼っちゃいそうになるけど、うちの学校ではそういうのもみんな私たちがやらなきゃいけないからね。それだけにみんなで団結して盛り上がるんじゃないかな。で、うちのクラスは応援合戦で何するかを今日決めなきゃね」


「応援合戦」という話を聞いて、クラスの中にざわめきが起きた。そこで光瑠はまた話を始めた。


「去年の体育祭の応援合戦では、今生徒会長をやってる松崎先輩が学ラン着て応援団長やったんだけど、それがすごくかっこよくてね。それで松崎先輩は生徒会長になれたんじゃないかな」


 そこで「学ラン」という言葉を聞いて、潮音はびくりとした。もしかして自分が学ランを着せられることになるかもしれないと思うと同時に、潮音自身にとってもここで学ランを着ることに対しては、男子として過ごしてきた中学生のときのことを思い出さされて複雑な思いがした。


「ほかにもチアダンスをやるクラスもあるし、アニメのコスプレをやるクラスだってあるんだから。ともかくどんなのがやりたいか、案があるなら出してくれない?」


 しかし光瑠に言われても生徒たちは互いに顔を見合わせるばかりで、なかなか案が出なかった。自分自身が応援合戦で役を演じるとなると、やはり抵抗があるようだった。キャサリンは「アニメのコスプレ」という言葉に少し心を動かされたかのようだったが、むしろどのようなアニメのコスプレをすればいいか迷っているように見えた。


 そこで潮音は、このような沈滞した空気を振り払うかのように自ら手を上げた。そこでクラスのみんなや担任の美咲は、一気に潮音に目を向けたが、特に暁子は心配そうな顔で潮音を見ていた。紫も潮音の決然とした態度に驚きの表情を見せた。


 潮音は席から立つと、きっぱりと口を開いた。


「私…去年の松崎先輩みたいに学ラン着て応援団長をやります。学ランだって持っているし」


 桜組の生徒たちは最初こそ潮音のはっきりとした態度に驚いたものの、潮音の案自体に反対する生徒はいなかった。それは潮音がこれまで恭子とケンカをしたり、愛里紗にもはっきりものを言ったりして、大胆で物怖じせず行動力があるということは、桜組のみんなも認めているからだった。クラスの副委員長をつとめている美鈴も、嬉しそうに声をあげた。


「藤坂さんが応援団長になってくれたら、うちの桜組にとって百人力やわ」


 ほかに提案もなかったので、潮音が桜組の応援団長になることはすんなりと決った。潮音が応援団長を引受けることが決った瞬間、桜組のクラスの中からは拍手が巻起った。しかしその中で、紫と暁子の二人が複雑そうな顔で潮音の方をじっと見ていた。


 ホームルームが終って生徒たちが帰途についたり部活に向かったりすると、さっそく紫が潮音のところにやってきた。


「藤坂さん…どうもありがとう。藤坂さんが応援団長を引受けてくれたおかげで、この桜組も体育祭に向かってまとまって盛り上がりそうだわ」


「ねえ峰山さん…前から思ってたけど、その『藤坂さん』って呼ばれるの、どうもこそばゆい感じがするんだけど。これからはプライベートなところでは『潮音』でいいから」


「そうなの…じゃあ私もこれからは『峰山さん』じゃなくて『紫』と呼んでいいわよ」


 そう言うときの紫は、くすりと笑顔を浮べていた。


「でも私が『紫』なんて名前で読んだら、長束さんがいやな顔しないかな」


「もう潮音と恭子とは、そんな仲じゃないでしょ。それでも何かあるようだったら、私の方から恭子に言っておくから」


 紫は潮音や恭子の心中もとっくに見透かしているようだった。しかしそこで紫は一転して少し心配そうな表情になると、あらためて潮音にたずねた。


「ところで潮音…たしかに応援団長を引受けてくれたのは嬉しいけど、それってやっぱり自分自身が男の子として学ラン着て中学に行ってたからなの? もしそうだったら無理しなくていいのよ」


「いや…いいんだ。私…は自分が前まで男だったことも、そこから女になったことも、全部受け入れる覚悟はできているから」


「そうやって強がらなくてもいいよ。無理ならいつでも私に言っていいから」


 紫はやはり、潮音が無理をしているのではないかと心配なようだった。


「でも紫も、ずいぶん体育祭には乗り気じゃん。もしかして愛里紗のいる楓組には負けられないとか思ってないか?」


「そんなんじゃないよ。榎並さんのことなんかいちいち気にしてるわけないじゃん」


 紫もそのときは、どこかむっとした面持ちをしていた。


「紫こそそんなに強がらなくていいよ。私と峰山さんとは、お互い気張らずに素直に自分の気持ちを伝えられる仲になれたらいいじゃん」


 そう言うときの潮音は、どこかさばさばした表情をしていた。


 しかしそこで、潮音と紫の前につかつかと進み出た人影があった。暁子だった。暁子は先ほどまで、潮音と紫の会話を背後で聞いていたのだった。


 潮音が驚く間もなく、最初はもじもじしていた暁子もためらいを吐き出すかのように、はっきりと口を開いた。


「あの、潮音が学ラン着て応援団長やると言うんだったら私だってやるよ」


 その暁子の言葉に、潮音は目を丸くした。


「暁子…もしかして私のこと気にして、わざわざ自分もやりたいと言いにきたわけ? それだったら私に対して下手に気を使ってくれなくたっていいよ」


「そんなんじゃないよ。私はただ自分も学ラン着てみたかっただけだから」


「そりゃ暁子って、中学に入るときだって制服でスカートはくのいやだとか言ってたけどさ…暁子こそそんなに無理しなくていいよ」


 そこで紫は、潮音と暁子を向き直してはっきりと言った。


「そうと決ったら、体育祭までの間二人とも練習するわよ。去年の体育祭のときの松崎先輩の動画があるから、これを見るといいわ」


 そこで暁子は潮音の横顔を眺めながら、心の奥では複雑な思いが渦巻いていた。


──潮音のバカ…。ほんとに鈍感なんだから。峰山さんともあんなに仲良くなっちゃったけど、あたしの気持ちなんか全然わかりもしないで。


 そのとき暁子は、自分が幼い頃から見知っていた潮音が変っていくことへの不安と同時に、クラスの中で一見明るく気丈に振舞っている潮音が心中ではどのように考えているだろうかということが気になっていた。

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