第四章・インビテーション(その8)

 翌日になっても、潮音の気分は晴れなかった。これから登校して紫たちにどのように顔向けすればいいのかと思うと、登校の準備をすることすら気が重かった。


 そのような折、インターホンが鳴ったので則子が玄関のドアを開けてみると、暁子が心配そうな顔で戸口に立っていた。


「潮音…ほんとに大丈夫? ちゃんと学校行ける?」


「まあ。わざわざ暁子ちゃんにまで手間をかけさせて済まないわね」


 暁子が自分のために家に迎えに来てくれたとなると、潮音も登校をためらっているわけにはいかなくなった。潮音は何とかして準備を整えると玄関に下り、暁子と連れ立って学校に向かった。


 潮音と暁子が登校してみると、ホームルームが始まる前の桜組の教室の雰囲気がいつになくざわついていた。愛里紗と紫の間でトラブルが起きたことは、すでにクラス中で噂になって広まっているようだった。特に恭子は、ふて腐れた表情でクラスメイトたちを前に愛里紗の悪口を露骨に話していた。


「ほんま、榎並さんって何なん? 紫のパーティーに行っといてあんな態度取るなんて」


 しかし潮音は、恭子がこのように話すのを黙って聞き逃すことができなかった。潮音はつかつかと恭子の前に進み出て、手のひらで机を叩きながら言った。


「長束さん…あまり榎並さんのことを責めないでよ。もともと榎並さんをパーティーに誘ったのは私なんだし…それに、榎並さんに対して文句があるなら陰で悪口を言いふらすような真似なんかしないで、本人の前に行って堂々と言えよ」


 潮音が語調を強めるのを見て、恭子も思わずたじろいでいた。


「どうして藤坂さんって、そんなに榎並さんのことかばうん?」


 そこに紫が姿を現した。潮音と恭子はあわてふためいたが、紫も昨日の愛里沙の態度が今でも気になっているのか、困惑したような浮かない表情をしていた。


「恭子と藤坂さんは、昨日の榎並さんのこと話してたわけ?」


 そこで潮音は、ぐっと息を飲みこむと紫を向き直して言った。


「峰山さん…こんなことになったのは榎並さんをパーティーに誘った私の責任だよ。だから、もういっぺんだけでいいから、榎並さんと会ってちゃんと話をしてほしいんだ。榎並さんにも自分からちゃんと話をつけるから」


 潮音にまじまじと見つめられて、紫は困惑の色を浮べた。傍らにいた恭子までもが、潮音の顔を呆気に取られたような顔でじっと見ていた。


「もういい…もういいよ、藤坂さん。そんなに自分を責めないでよ。ともかくそろそろホームルームが始まるから、みんな自分の席に戻りなさい」


 紫の言葉で、動揺の色を見せていた教室もようやく落着きを取り戻した。しかしそれでも暁子は、気づまりな表情で潮音に目を向けていた。


──潮音のバカ…。なんでもかんでも自分で背負いこんで。いつもそうなんだから。



 潮音はその日は、授業の時間ももどかしかった。昼休みに愛里紗に会うチャンスがあるとはいえ、いざ愛里紗を前にするとどのような態度を取ればいいのか、そこでどのようなことを話すべきなのか、そればかりを考えて気をもんでいた。


 ようやく昼休みになると、潮音はさっそく隣の楓組の教室に向かい、弁当を広げようとしていた愛里紗の前につかつかと進み出た。潮音がいきなり教室に入ってきたので、楓組の生徒たちも呆気に取られたような顔でそれを見ていた。


 潮音はいざ愛里紗を目前にすると、単刀直入に口を開いた。


「榎並さん…昨日は本当にごめん」


 潮音がいきなり謝ってきたので、愛里紗は当惑したような面持ちになった。


「藤坂さん、いきなりどうしたのよ。…それに、どうして藤坂さんが謝る必要なんかあるわけ? 藤坂さんは何も悪くないわ。私はただ、峰山さんの態度にちょっとムカついただけよ」


 しかしそこでも、潮音は後に引こうとしなかった。


「それを言うんだったら、峰山さんだって何も悪くないよ。峰山さんはただ、みんなと仲良くなりたいと思ってパーティーを開いただけなんだ。榎並さんの気持ちを傷つけようなんて思ってなんかないよ」


 潮音は必死に愛里紗に食い下がろうとしたが、その潮音の言葉を聞いて愛里紗は一気に表情を曇らせて、両手で頭を押さえて伏し目がちに語調を強めながら声を上げた。


「わかってる…そんなことくらいみんなわかってるよ。そして私が、そのような峰山さんの気持ちを素直に受け止められない、ひねくれたいやなやつだってことも」


 愛里紗の表情には、困惑と苦悩の色がありありと浮んでいた。しかし潮音は、そのような愛里紗にきっぱりと話しかけた。


「そう思うんだったら、いっぺんでいいから峰山さんとちゃんと話してみなよ。うわべなんかじゃない、ほんとの気持ちを。もちろんいやだと言うのなら、私のことなんか無視したって構わない。でもこれだけは言わないと、私の気持ちがおさまらないんだ」


 潮音のまなざしを目の当りにして、愛里紗は観念したようにため息をついた。


「全くあんたには負けたわ。ここまではっきりとストレートにものを言える人なんて、今までうちの学校にいなかったわね。…でも、あんたがそうなれたのは、やはりあれだけのことがあったからなの?」


 潮音と愛里紗の話をはたで聞いていた楓組の生徒たちは、その愛里紗の最後の質問の真意をはかりかねているようだった。潮音はそれにたった一言だけ答えると、楓組の教室を後にした。


「さあ…それはわからないね」


 潮音が楓組の教室を出たところで、潮音を待っていた人影があった。暁子と優菜だった。


「潮音もよう榎並さんに話したな。私もはたで聞いとってハラハラしたで。でもはよお弁当食べへんと、昼休み終ってまうで。アッコもカフェテリアで一緒にお弁当食べへん?」


 優菜が安堵したように話すそばで、暁子も口を開いた。


「潮音もこれ以上気をもんでないで、ここは峰山さんと榎並さんに任せた方がいいんじゃないかな」


 しかしここで、暁子はあらためて潮音の顔を向き直して言った。


「あんた…男の子だった頃はほんとにそんなやつだったっけ? そんな人に対しても物怖じせずに、自分の気持ちをはっきり言えるようなやつだったっけ?」


 そう話すときの暁子は、どこか顔に戸惑いの色を浮べているように見えた。潮音はそのような暁子の顔から目をそらすと、そのまま黙ってしまった。



 そして潮音は、なんとかして紫と愛里紗が話をする日取りを、三日後の放課後に決めた。場所は琴絵に相談して、文芸部の部室を使わせてもらうことになった。琴絵も潮音のためにひと肌脱ぎはしたものの、どうせ文芸部はあまりまじめに活動していない部なのだからと潮音に言われると、いささか複雑そうな表情をしていた。


 紫と愛里紗がテーブルに向かい合って腰を下ろしたときは、琴絵とともに立ち会っていた潮音もいささか緊張していた。


 愛里紗は紫と向き合うと、まずパーティーの当日に紫に対して失礼な態度を取ったことへのお詫びを口にした。紫は穏やかな表情で、そのことはもういいと愛里紗をなだめると、愛里紗は戸惑いの表情を浮かべた。


「そんな…私は峰山さんから嫌われてても仕方ないようなことばかりしてきたのに」


 そして愛里紗は軽く息を吸い込むと、自らの家庭の事情や、家計が裕福ではない中で母親が自分を松風女子学園に通わせてくれたこと、そのような中でお嬢様育ちで恵まれた境遇にあり、勉強もスポーツも全て優秀な紫に対して反発心を抱いてきたことを全て打ち明けた。


 愛里紗の話を黙って聞いていた紫も、その話の内容にはいささかショックを受けたようだった。紫の表情には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。


「榎並さん…ごめんなさい。榎並さんがそんなにつらい思いをしていたことも全然わかろうとしないで」


 しかしそこで、愛里紗は声を上げた。


「だから、そうやって同情なんかしないでよ。あなたは何も悪くないし、あなたが謝らなきゃいけない理由なんか何もない。悪いのは一方的に峰山さんのことを嫌っていた私の方なのに…」


 愛里紗は両眼から涙を流して泣き出していた。そこで紫は椅子から立ち上がると、愛里紗をそっと抱きとめてやった。潮音はどうなるかと思わず息を飲んだが、愛里紗も椅子から立ち上がると、そのまま紫の胸の中で泣きじゃくっていた。紫はそのような愛里紗にそっと語りかけた。


「榎並さんは学校の中で、本当に自分のことをわかってくれる人がいなかったことが一番つらかったのね。つらいときや悩みごとがあるなら、変に意地を張ったりしないではっきり言えばいいのに」


「峰山さんに私のことなんか全然わからないくせに」


「そりゃ人間誰だって他人のことなんかわかるわけないでしょ。そんなの当り前じゃん。でもそれでも、話を聞いてくれる人がいるだけでも気が楽になるんじゃない?」


 潮音はその紫の言葉を、自分自身のことを言っているかのように聞いていた。


「ともかく、なんかムシャクシャするようなことがあったら、いつでも私のところに来な。ケンカの相手になってあげるよ」


 いつしか愛里紗も泣き止んでいたが、紫も愛里紗もどこかふっ切れたようなすっきりした表情をしていた。


「そのつもりよ。ともかくもうすぐ体育祭があるけど、うちの楓組は峰山さんの桜組には負けないからね」


「ああ。私たち桜組だって負けないからね」


 紫と愛里紗がようやく和解できたと思ったら、さっそく意地を張り合っているのを見て、潮音と琴絵は互いに顔を見合わせながら息をついて、やれやれとでも言いたげな表情をした。


 そこで紫と愛里紗は共に潮音の方を向き直した。


「ともかく、藤坂さんが私たちの仲を取り持ってくれるように頑張ってくれなかったら、今日みたいにはならなかったわ。こんな子今までうちの学校にいなかったよ」


 紫が笑顔で話すと、愛里紗はあらためて潮音に尋ねた。


「藤坂さんが私たちにここまで気を使ってくれたのは、やはり藤坂さんはもともと男の子だったことと関係あるの?」


 そこで紫も、愛里紗を向き直して言った。


「榎並さんも藤坂さんのこと知ってたんだ」


 そこで潮音は口を開いた。


「ああ、このことは学校の中で、本当に信頼できそうな人にしか話してないけどね」


「だったら藤坂さんは、私のことを信用できると認めたということかしら」


 愛里紗にあらためて問われると、潮音ははっきりと答えた。


「私…男から女になってしまったからこそ、自分に対してウソはつきたくない、自分は自分でいたいと強く思うようになったんだ。だから榎並さんの話を聞かされて、ますます榎並さんのことが気になったのかもしれない」


 潮音がそう言うと、愛里紗はどこか考え込んだような表情をしていた。そこで紫は潮音を向き直すと笑顔で言った。


「藤坂さんもそんなに無理せず、もっと気持ちを楽に持てばいいのに。ともかく藤坂さん、私たちのことを考えてここまで行動してくれて、ほんとにありがとう。それだけのことをしてくれたのだから、あなたはもっと自分に自信を持っていいのよ」


 潮音は愛里紗や琴絵からも視線を向けられて、いささか照れくさそうな表情をしていた。


 そうやって潮音たちが話し合いを終えて文芸部の部室を後にしたところ、ばったり暁子が前を通りかかった。


「暁子は手芸部の途中か?」


「そうよ。ちょっと荷物を取りに行ってたところなんだ」


 そこで暁子は、潮音と一緒にいる紫と愛里紗、琴絵の様子を見て、話し合いはうまくいったと直感で見抜いた。


「潮音…その様子ではうまくいったみたいね。良かったじゃん」


 そこで暁子はあらためて潮音から話を聞くと、潮音が紫と愛里紗の仲を取り持ったことに対して思わず表情をほころばせた。


 しかしそのとき暁子は、潮音が自分の予想を超えて人間的に成長していることを感じ取ってはいたものの、その一方で自分が幼いころからよく知っていた潮音が変っていくことや、潮音の成長に対して自分はどうなのか、さらに自分と潮音との関係がこのままでいられるのだろうかという点に対して、心の奥で一抹の不安を覚えずにはいられなかった。

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