第四章・インビテーション(その7)

 やがてパーティーが一段落すると、紫の母親の幸枝ゆきえが姿を現した。


「今日はうちに来てくれてありがとう。紫も学校でこんなにいっぱいいい友達ができたようでほっとしたわ」


 幸枝は服の着こなしも上品で、いかにも育ちの良さそうな、理知的な顔立ちの女性だった。そこで幸枝は、さっそくキャサリンに顔を向けた。


「あなたがイギリスからの留学生ね。紫から話は聞いているわ。あなたが日本に憧れてるってこともね」


 幸枝はそのまま、キャサリンたちを居間の隣の閑静な和室に案内した。潮音は紫の家は造りが立派なだけでなく部屋がたくさんあるのだなと思ったが、それを口に出すことは憚られた。しかし潮音が暁子や美鈴の横顔をちらりとうかがうと、その二人も潮音と同じことを考えているようだった。


「この部屋はお茶室にもなっていて、ここでお茶を立てたりもするのよ。キャサリンさんだっけ、あなたに見せたいものがあるの」


 そう言って幸枝は、箪笥の中から桐の木でできた細長い箱を取り出した。その箱を開けてみると、中から水色を基調とした着物が姿を現した。キャサリンはその着物を目の当りにすると、両眼をキラキラと輝かせた。


「良かったら着てみる?」


 そのような幸枝の誘いを、キャサリンは即座に快諾した。そこで幸枝は、紫にも顔を向けた。

「着物ならもう一着あるから、紫も着てみない?」


 紫とキャサリンが着物に着替える間、潮音たちは居間で待つことにした。潮音は中学校の卒業式のとき、祖父の家に保存されていた昔の少女の着物を着たときの胸のときめきを思い出して、胸の奥が甘酸っぱくなるのを感じていた。


 やがて二人の着替えが済んだことを幸枝が告げに来て、和室に通されると潮音は紫とキャサリンの着物姿に思わず息を飲んだ。キャサリンのブロンドの髪が和服に映えて見えたことも意外だったが、それよりも潮音は紫の和服姿から目を離せなくなっていた。薄紫色の清楚な着物を身にまとった紫の姿からは、いつもにもまして威厳と気品、そして奥ゆかしさが感じられた。潮音は自分自身着物をみにつけたことはあるものの、可憐な着物を自然に着こなしている紫には到底かなわないと感じていた。


 そこで潮音は、ちらりと愛里紗の方に目を向けた。愛里紗も今の紫の姿から、自分には持っていないものを感じ取っているらしく、はにかみ気味に唇を噛みしめていた。


 そのまま幸枝はお茶を立てて、和菓子をいくつか用意した。キャサリンは特に、日本的な情緒を漂わせた色とりどりの和菓子が気に入ったようだった。


 茶の支度が整うと紫は座布団に正座し、茶道のルールにのっとって体勢を崩すことなく、幸枝から差し出された茶碗や和菓子を流れるような所作で口にしていた。それだけでなく、紫はキャサリンに対しても茶道の基本的なルールについてわかりやすく教えていた。中入生たちは学校の礼法の時間でお茶のルールについて一通り習っていたのに対して、高等部から入学した潮音や暁子、美鈴たちは紫の気品のある立ち居振る舞いにただただ圧倒されるしかなかった。それよりも潮音は、このお茶会の雰囲気が気づまりでならなかった。


 お茶会が一段落すると、午後の陽もやや西に傾きつつあった。そこで紫は、みんなに声をかけた。


「お茶会でみんな緊張したみたいだから、駅前のカラオケ屋さんにでも行かない?」


 しかしそこで愛里紗が声を上げた。


「あの…私もう帰るわ。私…歌なんか全然知らないし、そろそろ帰って勉強しなきゃいけないから」


 その愛里紗の声に、一同は一気に顔を曇らせた。愛里紗も場の雰囲気を壊したことをまずいと思ったのか、とりあえずはみんなと付き合うことにした。しかし潮音も、女の子たちと一緒にカラオケ屋に行った経験など今までなかっただけに、どのような歌を歌えばいいのかと今から戸惑っていた。


 紫とキャサリンが着替えを済ませて、みんなで駅前のカラオケ屋に入ると、さっそく威勢のいい曲を歌って口火を切ったのは美鈴だった。皆はたいてい流行しているポップスや、落ち着いたニューミュージック系の音楽を歌っていたが、琴絵がいざマイクを手にすると、積極的にアニメの主題歌を歌っていた。潮音もそれには、日ごろおとなしくて優等生然とした琴絵の別の顔を知ることができていささか意外な思いがした。


 それよりも皆の注目を集めていたのはキャサリンだった。キャサリンが英米のヒット曲をそのまま英語で歌うと、一同はその姿に釘付けになった。カラオケに行くことに乗り気でなかった愛里紗も、さすがにこれは身を乗り出して聞き入っていたようだった。


 やがて潮音の番が回ってくると、潮音は戸惑いながらも思いきって、潮音が男の子だったころから好きでよく聴いていた男性ロックグループの歌を歌ってみせた。一同は女の子があまり歌わないような歌を潮音が歌ってみせたことに驚きの目を向けたが、潮音は激しい曲調の歌ではなく、バラード調の歌にしておいた方が良かったかもしれないと思った。


 やがて愛里紗の番がまわってくると、愛里紗はためらいながらもマイクを手に取り物静かに歌い始めた。すると紫もマイクを手に取り、愛里紗の歌に合わせてデュエットを始めた。愛里紗も戸惑いながらも、歌を止めようとはしなかった。紫と愛里紗の歌声が絶妙なハーモニーを奏でているのに、そこに居合わせた少女たちは皆盛り上がりを見せた。潮音も紫と愛里紗が仲良さそうにしているのを見て、自分の朝からの懸念は取り越し苦労だったのかもしれないと思い始めていた。


 そうこうしているうちに、カラオケ屋の制限時間はあっという間に過ぎた。精算を済ませてカラオケ屋を後にする頃には、初夏の街にも暮色が漂っていた。駅前で解散するまぎわ、潮音は愛里紗にわざと意地悪なことを行ってみた。


「榎並さんって、カラオケ行くのいやだとか言ってた割には、けっこう盛り上がってたじゃん」


 そう言われて愛里紗は、露骨にいやそうな顔をした。


「うるさいわね。私はこれから帰って勉強しなきゃいけないんだからね」


 そこで愛里紗は、紫を向き直して怪訝そうな表情で言った。


「峰山さん…さっきどうして私と一緒に歌ったの?」


 そのような愛里紗の疑問に対しても、紫は明るい表情を崩そうとしなかった。


「そりゃ私もあの歌好きで歌いたかったんだもの。私と榎並さんとは音楽の趣味も合いそうね」


 しかしそこで、愛里紗は紫の手をはねつけるようにして言い放った。


「そんなになれなれしくしないでくれる? 私はあんたと友達になった覚えなんかないからね。…今日あらためて気づいたよ。私はあんたみたいな天然ボケが大嫌いだってことにね」


 一同がその言葉に呆気に取られる間もなく、愛里紗は背を向けて改札を通り、ホームに向かった。他の少女たちも気まずい雰囲気を引きずったままぱらぱらと電車に乗り込むと、そのまま潮音は戸惑いの色を浮べたままの紫と別れて暁子と一緒に帰途についた。


 潮音は暁子と一緒に帰宅する間も、心の中から悔恨の念が消えなかった。


──なんてことだ…。こんなことになるなんて最悪だ。


 潮音の落ち込んだような表情を見て、暁子は心配そうな表情を浮かべた。


「どうしたの? たしかにさっきの榎並さんの態度はどうかと思うけど、それでどうしてあんたまでそんなつらそうな顔してるのよ」


「榎並さんをあのパーティーに誘ったのはオレなんだ…。ちょっと話してもいいかな」


「…いいよ。あたしの家に来る?」


 そして暁子は潮音を家に上げると、自分の部屋に通して落ち着かせた。そこで潮音は愛里紗の家庭の事情から、迷いながらも愛里紗をパーティーに誘うことを決意したことまで全てを暁子に打ち明けた。暁子は潮音の話を黙ったまま聞いた末に口を開いた。


「あんたは間違ってないと思うよ。あんたは榎並さんのためだと思って、榎並さんをパーティーに誘ったんでしょ? そんな真似、あたしにはできないよ。あんたのそういうストレートで勇気のあるところはあたしもすごいと思ってるんだ」


「オレ…男から女になってしまったばかりの頃は、他人から目を背けて自分の中に閉じこもっていた。榎並さんを見ていると、そのときの自分のことを思い出したから…。でもオレ、結果として榎並さんのことを傷つけてしまったのだろうか」


 表情を曇らせたままの潮音を、暁子はそっとなだめてやった。


「傷つくことを怖がってたら、人間何もできやしないよ。あんただっていきなり女の子になっちゃって、それでも傷ついたっていいから何かやってみたいと思ったからこそ、今のあんたがいるわけでしょ? だいたい、榎並さんこそ自分が不幸だったからといって、そこに閉じこもってばかりいてどうするのよ。まして峰山さんが善意から企画して準備して、みんなが楽しんでいたパーティーをぶち壊していい道理なんかないよ」


「暁子…あまり榎並さんのことを悪く言うのはやめてくれ」


 そこで暁子は、大きくため息をついた。


「あんたって優しいんだね。…そこがあんたのいいところだけど。だけど今のところは、そんなことばかりクヨクヨ考えてたってしょうがないよ。ともかく今日は家に帰ってゆっくり休みな」


 そう言って暁子は、潮音をそっと家に帰らせた。

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