第五章・体育祭(その5)

 そしてとうとう体育祭の当日が来た。その日は梅雨を前にした初夏の空も晴れ渡り、絶好のスポーツ日和だった。


 校庭に設けられた観覧席には、開会式の前からすでに生徒の家族の姿もちらほら見られた。潮音は体操服に着替えると髪をゴムで結んで気合を入れ直し、開会式に向かう途中で、隣にいた光瑠に声をかけてみた。


「生徒の家族も見に来ていて、なんかにぎやかだよね」


「うちの体育祭を見に来てもいいのは、生徒の家族だけだけどね。そうじゃなかったら、彼氏とか連れてくる子だっていそうだし」


 潮音はたしかにこの体育祭に男子が来たら、みんな気が散ってしまうかもしれないと思ったが、その反面元は男だった自分がこうやって堂々と女子校の体育祭に参加していることに対して、内心では若干の後ろめたさも感じていた。


 開会式が済むと、一年桜組を引率していた担任の美咲は、一年楓組の列の先頭に立っていた紗智に対して、私たちのクラスは負けないわよとでも言わんばかりの視線を送っていた。それをはたで見ていた桜組の生徒までもが、日ごろ陽気でおっとりした美咲までもがこの体育祭ではここまで闘志を燃やすなんてと意外そうな表情をしていた。


 体育祭の始まりは、各組から選抜した生徒たちが出場する徒競走だった。そこでは潮音たちの所属する一年桜組も、光瑠やスポーツが得意で陸上部に所属している天野美鈴が頑張ったおかげでいい成績を取ることができた。トップでゴールしてガッツポーズを取る美鈴に、桜組の生徒たちは歓喜の表情で声援を送った。


「天野さんもなかなかやるじゃん」


「うちはだてに陸上部やっとらへんからね。徒競走やったら任しとき」


 潮音が美鈴に手を差し出すと、美鈴もハイタッチでそれに応えた。


 さらに玉入れでは、日ごろはクールで運動にも興味なさそうだった寺島琴絵までもが、いつになく夢中になってかごに玉を投げ入れようとしていた。潮音はそのような琴絵の様子が、どこかおかしかった。


 障害物競走には潮音も出場したが、網をくぐるのはまだおとなしい方で、バットの柄の部分を額につけ、バットの反対側の先の部分を地面につけてその場で五回ぐるぐる回ったり、小麦粉を盛ったお盆の中に隠された飴玉を口をつけて取ったりするようなアトラクションがあったのには、潮音もいささか面食らわされた。潮音が小麦粉を盛ったお盆に顔をつけて、ようやく口で飴玉を探り当てたときは、口のまわりが小麦粉で真っ白になっていた。


 そして午前中の体育祭のハイライトは、各クラス対抗の応援合戦だ。潮音たちの所属する桜組の出場者は黒い学生服に着替えたが、その中で潮音は上半身は詰襟の学生服をまといながら、下半身は濃紺のプリーツスカートといういでたちが異彩を放っていた。


 潮音のそのような装いに、特に気づまりなものを強く感じていたのは暁子だった。暁子の目から見ても、潮音はクラスの他のどの生徒よりも違和感なく自然に学生服を着こなしていた。潮音は中学生のときまで、男子としてこの学生服を着て毎日学校に通っていたのだからそれも当然かと思ったが、むしろ目もぱっちりとして唇もつややかさを増し、黒光りのする髪も伸ばしたことで、男子だった頃よりもかえって凛々しさが増しているようにすら感じられた。


「潮音…今こうやって学ラン着るとめちゃくちゃかっこいい。あんたがこの服着て中学行ってた頃とも全然違う」


 自らも学生服に着替え終った暁子は、潮音の学生服姿を見て顔を赤らめながら、気恥ずかしそうにぼそりと話した。


「何だよ暁子、今さらになって…」


 潮音は暁子の様子に戸惑いを覚えずにはいられなかったが、暁子も潮音が上半身は黒い学生服をしっかりと着こなしているのに対して、下半身は濃紺のプリーツスカートからムダ毛のないすらりとした両足が伸びているのを目の当たりにして、ますます胸の動悸が激しくなっていった。


「どうしたんだよ。学ランにスカートってそんなに変か? だったらズボンにはき替えるよ」


「いや…そんなことないってば。それより早く行かないと時間になっちゃうよ」


 潮音が暁子に急かされて桜組の集合場所に行くと、紫や光瑠、美鈴も学生服に着替え終って待っていた。特に応援団用の裾の長い学生服を凛々しく着こなした紫は、桜組のメンバーたちの中でもとりわけ存在感を放っているように見えた。自らは応援合戦に参加していない長束恭子も、その紫の姿にぞっこんほれ込んでいる様子がありありと見てとれた。


 しかしその紫も、潮音の学ランにスカートといういでたちには、どこか戸惑いを覚えているようだった。


「藤坂さん…学ランにスカートというのがかえってかっこいい」


「もともとこの恰好もいけるんじゃないかと言ったの紫だろ」


 潮音はふて腐れた表情で言った。


「ともかく、私たちもこれまでずっと練習頑張ってきたんだから、自分を信じていけば大丈夫よ。ほかのクラスに負けないようにがんばっていきましょう」


 紫の一声で、潮音たちは円陣を組んで声を上げた。



 応援合戦は、潮音たちの所属する桜組が最初に演技を行うことになった。学生服を着た潮音たちは校庭の真ん中に整列すると、高校二年の松崎千晶が応援団の大きな旗を振る傍らで、胸を張って両手を空に向かってぴんと伸ばし、堂々としたポーズを取りながら、腹の底から通るような大声でエールを張り上げた。


 観覧席で応援合戦を見ていた先生や生徒、来場した生徒の家族たちも潮音たちの応援に見入っていた。特に紫の双子の妹の萌葱と浅葱は、学生服をきちんと着こなしてきびきびとした様子で応援団をリードする紫の姿から目が離せないようだった。


 桜組の応援が終ったときには、潮音は疲れ果てて肩で息をしていた。潮音たちにとって何よりもきつかったのは初夏の陽光で、暑くなりかけた季節に黒い学生服で演技をしたために生徒たちは皆汗だくになっていた。中学生のときは学生服で毎日登校していた潮音ですら、五月の後半になって暑くなりかけてからは学生服で学校に通ったことなどなかっただけに、学生服での演技は体にこたえたようだった。


 千晶と紫は皆に十分に水分を取った上で、暑いようなら学生服を脱いでもいい、くれぐれも熱中症だけには気をつけるようにと告げたが、そうしているうちにも応援合戦は、次の梅組の番になろうとしていた。


 梅組は先の桜組と打って変って、手にポンポンを手にしたチアガール姿で登場した。中でも高等部で生徒会の副会長をつとめている椿絵里香は、ポンポンを振りながらリズミカルに手足を動かし、のびやかに演技を行っていた。特に絵里香が他の生徒に支えられながらハイジャンプを見事に決めたときには、観衆の目が絵里香に釘付けになった。


 そこで潮音は、傍らにいた千晶に声をかけてみた。


「椿さん…いつもは華道部に入っておっとりしているかと思ったけど、こんな特技もあったのですね」


「まあね。あの子はそれだけのものを持っている子だわ」


 さらに潮音は、チアダンスを行っている梅組の生徒の中に、千晶の妹である松崎香澄の姿もあるのを見つけた。香澄も他の生徒たちと動作を合わせて、ポンポンを手にきびきびとダンスを踊っていた。


「松崎さんの妹も、この様子では高等部に上がる頃には生徒会を引っ張っていけるようになりそうですね」


「そのためには、もっと落ち着いてぴしっとしてくれたらいいんだけど」


 潮音に言われて、千晶はため息混じりに答えた。


 さらに萩組は和服に袴姿で応援合戦に参加したり、菫組は人気のあるアニメのコスプレをしたりと、クラス毎の趣向を凝らした応援合戦は続いた。キャサリンや琴絵も、アニメのコスプレ姿で登場した菫組の応援団には熱い視線を向けていた。


 そして最後は、優菜や愛里紗の所属する楓組の番になった。しかしその場に入場してきた愛里紗たちの姿を見て、潮音は呆気に取られた。愛里紗は黒いワンピースのドレスにフリルのついた白いエプロンを身につけ、両足には白いタイツに革靴をはき、頭にもフリルの飾りのついたカチューシャをつけていた。つまり愛里紗たちの楓組は、メイド服で登場していたのだ。


 そして愛里紗たちはメイド服のまま校庭の真ん中でダンスを始めた。そのダンスそのものは出演者が音楽に合わせて一糸乱れずに協調しながら行う見事なものだったが、ダンスの最後になって愛里紗は両手でハートの形をつくって、観衆に投げキスを飛ばすような動作をしながら声を上げた。


「萌え萌えキュン」


 潮音が呆気に取られつつも、隣で観戦していた紫にちらりと目をやると、紫はメイド服姿の愛里紗を見ながら必死で笑いをかみ殺そうとしていた。


 楓組の演技で応援合戦は終了し、昼の休憩時間に入ると、潮音と紫はさっそくメイド服姿で引き上げた愛里紗に声をかけに行った。


「愛里紗、そのかっこ結構かわいいじゃん」


「紫こそお世辞なんか言ってくれなくたっていいよ。だいたいあんた、そんなかっこして暑くないの?」


 愛里紗の紫に対するつっけんどんな態度は相変わらずだったが、それでも潮音は紫と愛里紗がお互いを「紫」「愛里紗」と名前で呼び合っていることから、その二人の関係に変化が生じていることを読み取っていた。


 しかしそのとき、そこに桜組と楓組双方の生徒たちが集まってきた。生徒たちは皆、詰襟の学生服を着た紫とメイド服姿の愛里紗とのツーショットに熱い視線を送っていた。


「学ラン着た峰山さんと、メイド服の榎並さんとの取り合わせってなかなかいいじゃん」


 そしてそのまま、皆が紫と愛里紗の二人にスマホのカメラを向けて撮影会が始まった。紫と愛里紗も最初こそその場の成り行きに戸惑っていたものの、慣れるにつれて二人でいろいろとボーズを変えながら写真に納まったりもした。


 潮音はいつのまにかそばに来ていた暁子や光瑠と一緒に、呆れたような眼差しでその一部始終を見守っていたが、そのうちに生徒たちは潮音たちにまでスマホのカメラを向けだした。


「吹屋さんの学ラン姿ってめっちゃかっこいい」


「石川さんだって学ラン着るとさまになってるじゃん」


「藤坂さんも、学ランにスカートっていうのがなんかいいよね」


 潮音たち三人は生徒たちにもみくちゃにされながらも、気恥ずかしそうな表情のままスマホのカメラを向ける生徒たちに対してポーズを取っていた。


 しかしそこに、一年桜組の担任の美咲と楓組の担任の紗智が姿を現した。


「みんなそうやって盛り上がるのはいいけど、午後になってからも競技はあるのよ。早く着替えと食事を済ませなさい」


 美咲の一声で生徒たちは、身支度と食事に戻っていった。美咲は生徒たちを見送ると、隣にいた紗智に声をかけた。


「あのメイド服は生徒の提案なわけ?」


「ああ。学ランや袴姿で応援団をやったり、チアをやったりするのはもうみんなやってるから、何か新しいことをやろうって話になってね」


「それにしてもあのプライドの高い榎並さんがよく認めたわね」


「ああ。榎並さんは四月に学年が始まった頃は、変に周囲に対して意地を張っているようなところがあったわ。それが最近になって、少し丸くなって、周囲とも自然につき合えるようになった感じがするわね」


「そうなったのはうちの桜組の藤坂さんが、榎並さんに特に峰山さんと仲よくするように言ったからだというけど…あの藤坂さんだって思ったよりずっとしっかりしてるじゃない。ここはみんなのことをもっと信頼した方が良さそうね」


 しかしそこで美咲は、紗智に対して悪態をつくことを忘れなかった。


「ところで体育祭は午後からが本番よね。うちのクラスは負けないからね」


「あんたの方が生徒よりずっと大人気ないじゃない。はいはい、いつでもかかってきなさい。うちだって相手してあげるから」


 紗智はやれやれとでも言いたげな表情で、美咲に応えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る