第四章・インビテーション(その5)

 潮音はその日、授業中も気分が晴れなかった。昼休みに暁子にパーティーのことを話すと暁子は快諾したが、潮音が気をもんでいたのは、むしろこのパーティーに愛里紗を誘うべきかどうかだった。潮音は紫に対する愛里紗の誤解や偏見を解くためにも、愛里紗をパーティーに誘った方がいいのではと思う一方で、愛里紗に紫の家の様子を見せつけることが愛里紗の気持ちを傷つけて、かえって紫と愛里紗の間の溝を深めることになるかもしれないと思うと、なかなか決断を下しかねていた。


 そして潮音は放課後、ホームルームが終るとともに、覚悟を決めると楓組の教室の前まで行って、体操部の練習に向かうために教室を出た愛里紗を呼び止めた。


「どうしたの? 体操部の練習に遅れるから、話があるなら手短にしてよ」


 そこで潮音は紫が次の日曜日に自宅でパーティーを企画していることを話し、できれば愛里紗も来ないかと思いきって誘ってみた。


 愛里紗はそれに対して一瞬の間、呆気に取られたような表情をしていたが、次の瞬間にはつっけんどんな表情で潮音に答えていた。


「バカバカしい。なんで私がそんなところに行かなきゃいけないのよ。言っとくけど私は日曜だって忙しいんだからね」


 愛里紗はこれだけ言い捨てると、体操部の練習のために足早に体育館に向かった。潮音はただ一人だけ、廊下に取り残されたような恰好になった。


 しかし潮音は、愛里紗にそのような態度を取られると、ますます引下がることができなくなっていた。潮音は図書室で時間をつぶした後、体操部の練習が終る頃合を見計らって体育館に向かった。


 体育館では、ちょうど練習を終えた体操部の部員たちが練習で使っていた平均台や段違い平行棒などを片付けているところだった。レオタード姿の愛里紗は体育館にまで潮音が訪れたのを見て、露骨にいやそうな表情をした。


「あんたもいいかげんにしつこいわね。練習の邪魔する気なら帰ってよ」


「そりゃもちろん、パーティーにどうしても行きたくないなら行かなくたっていい。でもこのままじゃ、私としてもすっきりしないから、私の話だけは聞いてほしいんだ」


 他の体操部員たちも愛里紗が潮音に強い口調で話しているのを聞いて、潮音に不審そうな目を向けていた。愛里紗はそのような不穏な空気を察して、部員たちを落ち着けた。


「私はちょっとこの子と話があるの。あなたたちは後片付けが終ったら早く帰りなさい」


 愛里紗の言葉に、体操部員たちは不安そうな表情をしながらも更衣室に向かった。


 潮音と愛里紗が後片付けが済んでがらんとした体育館に二人で残されると、愛里紗はあらためて潮音の顔を向き直した。潮音は愛里紗がレオタード姿のまま自分と隣り合って並んだのに、少しどきりとした。


「で、どうして藤坂さんは私が峰山さんの家で開かれるパーティーにそんなに出てほしいのかしら」


「私…あらためて思ったんだ。榎並さんはこの学校の中で、変に周りの子たちとの間に壁つくってそこに閉じこもってちゃダメだって。せっかく頑張っていい学校入ったんだから、もっとみんなと一緒に遊んだり笑い合ったりしなきゃダメだって。特に…峰山さんに対して偏見持って遠ざけてちゃいけないって思うんだ。私の知っている峰山さんはそんな人なんかじゃないから、榎並さんがパーティーに出たらきっと温かく迎えてくれるはずだよ」


「…私は峰山さんのそういうところが嫌いなの。いかにもお嬢ちゃん育ちで、みんなが自分のように家族に恵まれてて勉強できるのが当り前だと思ってて、みんなで仲良しごっこしてりゃお友達になれるとでも思ってる能天気なところがね。そりゃあの子に悪気はないことくらいはわかるけど、だからこそ余計にむかつく」


「だからって、そうやって人のこと一方的に嫌ってばかりいたって、そこからは何も生まれないよ。そうやって自分の偏見の中に閉じこもってたって、ただ自分がみじめになるだけだよ」


 潮音は思わず語調を強めていた。そこで愛里紗は、潮音に自分の左足の膝を示した。


「これを見てよ」


 愛里紗が示した左膝には、ケガの跡がはっきりと残っていた。それを見て、潮音は思わず息を飲んだ。


「去年体操でケガをしちゃってね。入院して手術までしなきゃいけないほどのケガだったんだ。しばらくは歩くのさえ難儀するほどだったよ」


 ショックで声も出ない潮音に、愛里紗はさらに話しかけた。


「そのとき母は、体操部をやめるように言ったんだ。でも私は、こんなことでせっかく始めた体操をあきらめるなんて悔しくてできなかった。そもそもどんな選手だってケガと戦いながら一流になったわけだし、ケガを怖がっていたら体操なんかできないよ」


「榎並さんってたしかにそういう根性あるところはすごいと思うよ。でもだからこそ、榎並さんを見てるとときどき不安になるんだ。どこかですごく無理を重ねてるんじゃないかってね」


「だから私をパーティーに誘ったわけ?」


「ああ。ときには肩の力を抜いてみることだって大事だよ。つらいときやしんどいときは、遠慮しないで周りの人にそういえばいいじゃん」


「藤坂さんもそうしてきたわけ?」


「私…いやオレが中三の秋まで男だったってことを知っているのは、この学校でも中学一緒だった暁子と優菜、それから峰山さんと寺島さんくらいだよ。しかしそれでも、変に同情なんかされたくない。オレはまわりのみんなとも、昔男だったとかそんなこと関係なく、友達として自然に接していきたい」


 そのときの潮音の表情を見て、愛里紗もどこか吹っ切れたようだった。愛里紗は左膝の傷跡をかばうようにして言った。


「私がこの膝をやったときも、私のことをいちばん心配したのは峰山さんだった。早く元気になってほしいという色紙までくれたし」


「だったら変に意地張ってないで、素直にありがとうって言えばいいのに。そのことを今度のパーティーで峰山さんに伝えられたらいいんじゃないかな」


 そこで愛里紗は、もじもじしながら口を開いた。


「…あんたには負けたわ。そこまで言うなら、私も今度の峰山さんちに行ってあげる」


 そう言うときの愛里紗の表情は、どこかふっ切れたようだった。


「藤坂さん…この学校であなたほどストレートに自分の気持ちを伝えてくれる人はいなかった。私もそれにこたえられるかどうかはわかんないけど、あなたの言ってることを聞いてると、私もほんとの自分の気持ちを、周りに伝えられるようになりたいと思うようになったの」


 そして潮音と愛里紗は握手を交わした。愛里紗の手の温もりに触れると、潮音は心の奥底までもがこそばゆくなるような思いがした。


 ちょうどそのとき、体育館を見回りに来た先生が愛里紗と潮音に声をかけた。


「あなたたち、もう下校時刻は過ぎているわよ。おしゃべりばかりしてないで、早く帰り支度して下校しなさい」


 気がつくと他のクラブの生徒たちは全て帰宅を済ませてしまい、がらんとした薄暗い体育館の中に残っていたのは潮音と愛里紗だけになっていた。その先生の言葉を聞いて愛里紗はふと息をつくと、そのまま体操部の部室に向かった。


 潮音が体育館の玄関で待っていると、愛里紗が制服に着替えて出てきた。しかし校門を後にして一緒に駅に向かう途中、愛里紗はどこか浮かない表情をしていた。


「どうしたの? やっぱり峰山さんの家には行きたくないの?」


 潮音はそのような愛里紗の顔色を見て、怪訝そうにたずねた。


「いや…そんなんじゃなくて、峰山さんの家のパーティーに来て行けるような服って家にあったかなって…。あまりみすぼらしい恰好はして行けないし」


「それだったら気にすることないよ。…なんだったらうちの姉ちゃんが持ってる服貸してあげるから」


「そこまでしてくれなくてもいいよ。さっき藤坂さんと話してて思ったんだ。私は変に自分のことをごまかしたりせずに、ほんとの自分としてまわりの友達と接していこうって…。藤坂さんはさっき、私のことを『根性ある』って言ったよね。でも全然違うよ。根性なんて言ったら、私なんかとうてい藤坂さんにはかなわないよ」


「そうかなあ…私はなんとかして学校行ってるだけで、勉強なんか全然ダメなのに」


「それが一番すごいんだよ」


 愛里紗のすがすがしい表情を見ても、潮音の表情からは当惑の色が抜けなかった。

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