第四章・インビテーション(その4)

 その日の放課後になって、潮音は玄関の靴箱で愛里紗と待ち合わせると、愛里紗に誘われるままに校門を後にした。


「どこに行くの?」


「私の家よ。こうやって学校の友達を自分の家に誘ったことなんか今までなかったけどね」


 そう言われて潮音は、ますます愛里紗の家とはどのようなところなのだろうかと気がかりになった。


 高校の最寄駅から電車に揺られる間も、潮音は愛里紗の横顔をちらりと見ながら言葉少なにしていた。しばらくして電車を降りて、愛里紗に案内されて着いたのはいささか古びた四階建ての公営のアパートだった。潮音は愛里紗はこのようなところに住んでいるのかと、少し意外な気持ちになった。


「ここがほんとに榎並さんの家?」


「そうよ」


 そして愛里紗は階段を上がって、その中の一室に潮音を案内した。愛里紗が玄関のドアの鍵を開けて中に潮音を通すと、その間取りはお世辞にも広いとは言えず、愛里紗の自室も四畳半の窮屈なものだった。


 愛里紗は潮音に自室の外で待つように言うと、しばらくしてふすまを開けた。すると愛里紗は、制服からTシャツとデニムのショートパンツという私服に着替えていた。


「私服のときはいつもこんなかっこばかりだよ。私はそんなにおしゃれでかわいい服なんか持ってないし」


「私…だって似たようなものだから。こないだ峰山さんと神戸の街に行ったときは特別だったし」


 そこで愛里紗は、照れくさそうにしている潮音をなんとかして落ち着かせた。


「そんなに緊張しなくてもいいのよ。たしかに狭い家だけどさ」


「でもせっかく、榎並さんが家に誘ってくれたんだから…。榎並さんはどうして私をここに誘ってくれたわけ?」


「私もよくわかんないけどね…藤坂さんだったら私のこと話してもいいかなってちょっと思ったんだ」


 愛里紗に言われて、潮音はますます当惑の色を浮べた。


「私…小学二年生のときに両親が離婚したんだ。でもその前から両親はずっとケンカばかりしてきて、家の中に私が落ち着ける場所なんかなかった。そしてそれ以来ずっと母が薬剤師として働きながら、女手一つで私を育ててきた。母は残業もして一生懸命働いてきたけど、それでも暮らしは楽じゃなかったよ」


 愛里紗の言葉に潮音がショックを受けていると、さらに愛里紗は言葉を継いだ。


「だったら私が、どうして松風に通ってるんだって言いたいんでしょ? 母はだからこそ、私が女性だからというだけの理由で苦労しないためにも、ちゃんと勉強して偉くならないといけないって強く言ったんだ。そのためにも私は小学校から受験勉強したけど、その塾に行くお金も母が出してくれた。そして私が松風に受かり、周りの子たちが遊んだりおしゃれに気を取られたりする間にも勉強してきた。…体操部だって最初は入ろうかどうかだいぶ迷ったよ。母は私にあまりみじめな思いをさせたくないと思ったからか、部に入るのを認めてくれたけど」


「だからゴールデンウィークにも塾に行ってたわけか。でもそれでほんとに成績が学年のトップクラスなんだから大したものだよ」


「でも…私は峰山さんにかなわないなんてことは自分でもわかってる。たしかにあの子は天才だよ。あんなに飄々とした態度を取ってバレエばかりやりながらちゃんと学年でトップの成績を取るんだから。そんな私があの子に追いつくためには、勉強だって部活だって一生懸命やるしかないんだ。…正直に言うよ。私は中等部にいた頃は、自分はこの学校の雰囲気にはついていけないのかもしれないと思って、学校をやめたいと思ったことさえあるんだ。でも、母が私を松風に入れるために苦労していることを思うと、どうしてもこんなことなんか言えなかった」


 しかし潮音は愛里紗の話を聞いているうちに、愛里紗の不幸な家庭環境や苦労を気の毒だとは思いながらも、次第に愛里紗の言葉にどこか違和感を覚えるようになっていった。そこで潮音はまじまじと愛里紗の顔を見つめると、きっぱりとした口調で言った。


「榎並さん…どうして私をわざわざ家にまで呼んで、こんな話したわけ? そんな不幸自慢して何になるんだよ。私が『かわいそうに』と言って同情してくれるとでも思ったのか?」


 潮音の強い態度に、愛里紗は当惑の色を浮べた。


「だいたい、榎並さんはさっきから母親のことばかり言ってるけど、あんたはそうやって母親の顔色ばかりうかがってるのかよ」


「そりゃ、私のために苦労してきた母の期待にこたえなきゃいけないから…」


「あんたはマザコンか? 親がどうだとかそんなことばかり言ってないで、自分は何が好きか、何がしたいかはっきり言ってみろよ」


 潮音は語調を強めていた。愛里紗はしばらく憤懣やるかたない表情で潮音をにらみつけていたが、やがてわなわなと肩を震わせながら話し始めた。


「私…やっぱりあんたのこと気に入ったよ。私に対してこんなに正面からはっきりものを言ってくれた人なんて初めてだわ」


 そのように話す愛里紗は、両目に涙すら浮べていた。


「私…学校では成績も良くて体操部でも活躍しているように見られていたけれども、学校の中には私の本当の気持ちを打ち明けられる友達なんか誰もいなかった。先生も学校のみんなもあくまでも上っ面を見るだけで、だれもほんとの自分のことを見てくれなかった」


 愛里紗は話しているうちにいつしか涙声になっていた。そこで潮音は、愛里紗にきっぱりと言った。


「泣きたけりゃ思いきり泣けばいいじゃん。人に弱みを見せたっていいじゃん。ここには今私と榎並さんしかいないんだから」


 潮音のその言葉を聞いて、愛里紗の心の中で今まで抑えられていたものが一気に流れ出したかのようだった。愛里紗は潮音の胸元に飛び込むと、そのまま声を上げて泣きじゃくっていた。潮音は日ごろ強がっているかのように見えた愛里紗の行動に当惑せずにはいられなかったが、それでも思わず愛里紗の体をそっと抱きとめていた。


 しばらくしてようやく愛里紗が落ち着きを取り戻すと、潮音はそっと愛里紗に尋ねた。


「榎並さんってさ…今まで学校の誰にも話さなかったことを、この私にだけこうして話してくれたわけ? 私は高校から松風に入ったばかりなのに」


 潮音に問われて、愛里紗も当惑の色を浮べていた。


「どうしてかな…。私だってこんな話、今まで学校の誰にもしたことなかったし、まして私の家に友達を呼んだことなんかなかったのに。でもあなたは、なんかうちの学校に中学からいた子とも、高校から入ったほかの子とも違う、そんな感じがするの。峰山さんや寺島さん相手にもはっきりものを言えるし、長束さんともテニスの勝負を受けたりするし。私は藤坂さんの、そういうストレートではっきりしたところに憧れてたのかもしれない」


 そこで潮音は、ひと呼吸置くとはっきりと口を開いた。


「そうだね…。榎並さんがここまではっきり自分のこと話してくれたんだから、私も榎並さんに自分のこと打ち明けてもいいかな」


 そして潮音は自らのスマホを取り出すと、その中に登録していた自分の中学生のときの、黒い学生服を着た写真を画面に映し出して愛里紗に見せた。愛里紗はそのスマホの中の写真と、潮音を交互に見比べていた。


「この男の子…藤坂さんに感じ似てるけど、藤坂さんの弟か親戚なの?」


 しかしここで、潮音はきっぱりと言った。


「この写真の中の男の子が、中学生のときの自分だって知ったらどう思う?」


 潮音の言葉に、愛里紗は思わず息を飲んで、あらためて潮音の顔をまじまじと見つめた。


 そのまま潮音は、愛里紗に全てを打ち明けた。自分が中学三年生の秋までは男の子だったこと、宝物庫で触れた鏡の力で男から女になってしまったこと、それから悩みながらも女子として松風女子学園に入学することを決めたこと…。


 潮音が話し終えても、愛里紗の顔からは戸惑いの色が抜けなかった。愛里紗は潮音の話を聞いてもなお、その話の内容がにわかには信じられないようだった。


「だから…苦労したり悩んだりしてるのは榎並さんだけじゃないんだ。私だって…この制服着て女子として学校に通うことを受け入れるまでにはだいぶ悩んだよ」


「だったら藤坂さんはどうして、こうして女子として学校通ってるわけ?」


「そんなことばかりクヨクヨ悩んでたって何もならないよ。自分は今できることをやるしかないんだ」


「…藤坂さんって強いんだね」


「冗談言うなよ。私だってこの学校来てから毎日迷ってばかりだよ」


「でも…峰山さんはこのこと知ってるわけ」


「ああ。峰山さんは小学校のとき、一緒にバレエを習っていたからね…ともかく学校で困ったことがあったときにはよろしくな」


「それでもいいけど…あまり騒ぎ起こすと責任取れないよ。でももう遅くなるから、そろそろ家に帰った方がいいんじゃない? 私も勉強しなきゃいけないし」


 愛里紗に言われて、潮音はそそくさと帰り支度を始めた。


 潮音が愛里紗の住んでいるアパートを去る間際に、愛里紗は声をかけた。


「今日はどうもありがとう。藤坂さんと話していて、少し気が楽になったよ。…私、もっと藤坂さんと仲良くなってもいいかな?」


「何言ってるんだよ。もうお互い仲間同士じゃないか。でも…さっきはついカッとして榎並さんにきついこと言っちゃってすまなかったな。謝るよ」


「そんなこともういいよ。…私はこうやって、藤坂さんがストレートに私に対して言いたいこと言ってくれる方が嬉しかったな」


 潮音を玄関口で見送るときの愛里紗は、先ほどの泣き顔とは裏腹な、吹っ切れたような笑顔を浮かべていた。


潮音が愛里紗の住んでいる公営のアパートを後にすると、初夏の陽も西に傾いて影が長くなっていた。潮音は電車に乗って帰宅する途中も、先ほど愛里紗が話したことがずっと頭から離れなかった。


──榎並さんのお母さんが、いろいろつらい思いをしてきて、その分榎並さんに期待をかける気持ちだってわかる。でも…だからといってお母さんが榎並さんに対して変に強い思い入れを持って過度に干渉したり、そのプレッシャーで榎並さんのことを押しつぶしたりしたら…それが思い過ごしでなければいいが。


 そのように考えると、潮音の心の中では迷いばかりが深まっていき、車窓を流れる景色も目に入らなかった。



 その翌日に登校するときも、潮音は愛里紗の話が気になって気分が晴れなかった。潮音がそのような重苦しい気分を引きずったまま教室に入ると、紫がいつも通りの明るい笑顔を浮かべながら潮音を迎えた。


「どうしたの? 藤坂さん。なんか浮かない表情をしてるけど」


「いや…なんでもないよ」


 潮音は特に紫には、愛里紗の話は言わないでおいた方がいいだろうと思った。紫はそのような潮音の心中などそ知らぬかのように、屈託のない表情で話しかけた。


「藤坂さん、以前私の家に来たいって言ってたよね。テストも終ったことだし、今度の日曜、私の家でパーティーしない?」


 潮音はいきなりの紫の招待に戸惑いながらも、そこで紫に尋ねてみた。


「ああ、暁子も一緒に行っていいかな? 暁子の予定が空いていればだけど」


「ええ、もちろんよ。せっかくだから、もっとたくさんの子を呼びましょ」


 紫は見るからにご機嫌な様子だったが、潮音は紫がせっかく家に誘ってくれて嬉しいはずなのに、昨日の愛里沙の話を思い浮かべると、そのような紫の好意を素直に受けていいのだろうかと複雑な思いがしていた。

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