第三章・エトワール(その7)

 ゴールデンウィークも後半になって、潮音が紫と一緒に神戸の街に行くことに決めた日が来た。その日は空はすっかり青く晴れ上がり、新緑やツツジの花が五月のまばゆい陽光の中でより色鮮やかさを増していた。


「姉ちゃん、服借りるよ」


 綾乃も自分の服を自由に着てもいいと言ったので、潮音はちょっと考えた末に春物の落ち着いた色合いのブラウスに、軽やかな生地のワンピースを重ねることにした。


 潮音はワンピースを着終ると、鏡台の前に腰を下ろして髪のセットを念入りに行い始めた。それを見て綾乃は、いぶかしむように言った。


「潮音、今日は何か気合入ってるじゃない。普段暁子ちゃんと遊ぶときはそんなことしないのに」


「ちょっと聞いたんだけど、峰山さんの家は大会社の役員で、家もお屋敷だって言うからな。こんなお嬢様相手に、あまりみっともないかっこして行くわけにはいかないだろ」


「でもこうして見ると、ほんとに好きな男の子とデートしに行くみたい」


 綾乃が冷やかすように言うと、潮音はむっとしながら言葉を返した。


「いいかげんにしないと怒るぞ」


「でも潮音、まだ時間大丈夫だよね。だったらもうしばらくの間、じっとしてなさい」


 そして綾乃は、潮音の顔にかすかにナチュラルメイクを施した。唇にはうっすらとルージュが塗られ、肌にもファウンデーションが施された。まつ毛もマスカラで形を整えられると、潮音も両目がぱっちりしたかのような気持ちになった。潮音はその間、心の奥の琴線までもがくすぐられるような気がして、気恥ずかしさのあまり顔を赤らめて、ワンピースの中で両足を固く閉ざしてしまった。


 ようやく化粧が終ると、潮音はぽつりとつぶやくように言った。


「姉ちゃん…女って毎日こんな面倒なことしてるのかよ。今だって毎朝学校行くとき、髪の手入れとかするの大変なのに」


「慣れると楽しくなるよ」


 潮音はまだ、その綾乃の言葉を実感として受け止めることができなかった。


 潮音が家を後にするとき、潮音のことを気にしていたのはむしろ母親の則子の方だった。


「この子が学校に入ってすぐに友達ができるなんてね…でも今日潮音が一緒に遊びに行く子って、けっこういいとこのお嬢様なんでしょ? くれぐれも失礼のないようにね」


 則子が老婆心から潮音にいろいろ声をかけるのを、潮音はやや困ったような表情で聞きながら玄関を後にした。



 潮音が待合せ場所の駅に着くと、しばらくして紫も来た。紫は春らしいカットソーに、花柄がプリントされたロングスカートという装いをしていた。


「峰山さんって私服のセンスもいいじゃん」


「藤坂さんこそ、今日はわざわざおしゃれして来たのね」


「私はおしゃれのことなんかまだ全然わかんないからね。峰山さんが教えてくれたらいいのに」


 そして潮音と紫は電車で神戸の街の中心に行くと、商店街のレンガの石畳を連れ立って歩き始めた。


「私…学校の制服以外じゃスカートなんか全然はかないから…」


「無理しなくてもいいのに。藤坂さんらしい服着るのが一番だよ」


「その『自分らしい服』っていうのがどんなのかわかんないから困ってるんだけど。今日だってせっかく峰山さんに誘ってもらったから、Tシャツにジーンズなんて恰好で行くわけにはいかないし」


「別にそれでもよかったのに。ジーンズじゃおしゃれできないわけじゃないでしょ」


「そりゃ峰山さんくらい足が長くてすらっとしてたら、ジーンズはいたってかっこいいと思うけど…」


 そこで潮音は、ショーウィンドーに飾られた、かわいらしい感じのするフレアスカートに目を向けた。その服を眺める潮音の視線に、紫はかえって気づまりなものを感じた。


「藤坂さんってさ…もともと男の子だったんでしょ? でもどうして今じゃ、こうやって女の子の服着てるわけ?」


 しかし潮音は、ここであえて笑顔を浮かべてみせた。


「かわいい服着ておしゃれができるのは、女の子の特権…でしょ? だったら『自分はどうして女になったんだろう』とかうじうじ悩んだりしてないで、それを楽しんでみせなきゃ損じゃん」


 潮音のあっけらかんとした表情に、むしろ紫の方が当惑した表情を浮かべていたが、そこで紫も気持ちを切り替えると潮音の手を引いた。


「そこまで言うなら、今日はめいっぱい楽しもうよ」


 潮音も笑顔でそれに応えた。



 潮音と紫は商店街でしばらくウィンドーショッピングを楽しんだ後で、紫が潮音を商店街の一角の喫茶スペースのある洋菓子店に誘い、そこで紅茶とケーキを注文した。


「このお店のケーキ、なかなかおいしいでしょ。紅茶だっていい香りだし」


 しかし潮音は、いざテーブルを挟んで紫と向き合うと、どこか落ち着かないものを感じていた。それはもし自分が男のままだったら、紫のような美少女と向き合ってお茶を飲むような機会などなかったに違いないと思ったからだった。


 紫もそのような潮音の様子に気がつくと、いぶかしむように潮音に尋ねた。


「どうしたの? なんかちょっとそわそわしてるけど」


「オレ…男だった頃はこうやって女の子と一対一で喫茶店に行ったことなんかなかったから…」


「そんなこと、気にすることないのに。この前だって、恭子と一緒に喫茶店行ってたじゃん」


「あれはテニスの勝負で恭子に負けたらおごるという約束だったから…」


「恭子もそうだけど、お互いにつまんない意地張ることなんかないのに」


 そう言って紫は笑顔を浮かべたが、潮音はその屈託のない笑顔にますます気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。


 さらに潮音は、紫が紅茶を飲んだり、ケーキを口に運んだりするときの物静かで落ち着いた仕草を見ても、紫はずっと大人っぽくて自分より先を進んでいるように感じていた。


「峰山さんってケーキの食べ方も上品で、私なんかとは全然違う…」


「そんなこと気にしてたの? おいしく食べられたらいいじゃん」


  潮音はふと、もし自分が男の子のままで、女の子とデートすることになってもこのような感じなのだろうかと思っていた。そこで潮音の脳裏には、自分が男子として尾上玲花にひそかに想いを寄せていた頃の記憶が蘇っていた。


──オレは男だった頃は、こうやって女の子と喫茶店で話をするどころか、女の子に声をかけることすらできなかった。あれから自分も変れたと思っていたのに、まだあの頃のことを少し引きずっているのだろうか…。


 そのような潮音の心中などそ知らぬかのように、紫はケーキを食べ終ると潮音を次の場所に案内しようとした。


 潮音と紫は洋菓子店を後にすると、南京町と呼ばれる中華街に向かった。潮音と紫は店頭に飾られた中国風の雑貨や、中国から輸入された食材に目を向けたりもしたが、潮音は紫がそこでも中華まんを頼んだのにいささか呆気に取られていた。


「さっきもケーキ食べたのに、よく腹に入るな」


「たしかにバレエやってるとダイエットにも気をつけなきゃいけないけど、おいしいものは別腹だからね」


 そこで潮音も、屋台でふかひれラーメンを注文した。


「なんだかんだ言って、藤坂さんだってけっこう食べてるじゃん」


 中国風の公園の一角で中華まんを頬張るときの紫は、どこか無邪気な子どものような天真爛漫とした表情を浮かべていた。潮音は日ごろ紫が学校で見せている、きびきびとした表情とは別の面を見たような気がした。


 潮音と紫がそこから海辺のメリケンパークへと足を向けると、初夏の心地よい潮風が二人の髪をそよがせた。二人はそのまま初夏の花の咲き誇る公園の中を散歩しながら、港に停泊している客船や、桟橋の真下にまで波が打ち寄せるのを眺めたりした。


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