第三章・エトワール(その6)

 レッスン室では、すでに流風と紫が練習着に着替えて同じ教室の生徒たちと一緒にストレッチを行っていた。パステルカラーの練習着を着た萌葱と浅葱は、生徒たちの人気の的になっていた。


 しかし聡子がレッスン室に入ると、流風や紫をはじめとする生徒たちは皆一堂に聡子に目を向けた。聡子がレッスン室に姿を現しただけで、レッスン室そのものの空気が引き締まったような気がした。


 聡子は生徒たちに、潮音を見学者として紹介した。それが終って生徒たちがレッスンに戻る間際に、紫は潮音にそっと耳打ちした。


「藤坂さんって髪をシニョンにしてもかわいいじゃない」


 紫にまでそう言われて、潮音は顔を赤らめてしまった。


 それからすぐに潮音は紫たちに混じってストレッチを始めたが、体を動かすにつれて潮音は、小学生のときにバレエを習っていたときの感触を徐々に思い出していた。


 しかし紫は、床に腰を下ろすと両足をぺたりと大きく広げて、そのまま上半身を倒して床に着けてみせた。潮音は紫の身体の柔軟さに驚いたが、自分自身小学生のときには、なかなかその股割りができずに、泣きそうになったこともあったことを思い出していた。


 潮音は思わず身を引きそうになったが、ここで覚悟を決めると紫と同じように開脚をやろうとした。しかし潮音はとうてい紫と同じようにはいかず、無理をすると体が悲鳴を上げそうになった。流風はあわてて、無理をしないで今日は見学だけでもいいと潮音をなだめたが、潮音は紫が自分のはるか前を行っているように感じて、どこか悔しい思いが抜けなかった。紫はそのような潮音に声をかけた。


「開脚はたしかにきついからね。私もここまでできるようになるまでにはつらくて涙を流したこともあるわ」


 そのまま潮音は、紫たちがバーを使ったレッスンに移るのを眺めていたが、紫の演技は流風を含めた少女たちの中でもひときわ群を抜いていた。しなやかな両足が繰り出す軽やかなステップ、繊細な手の動き、無駄のないきびきびとした動作、そしていつものおっとりした紫の表情とは打って変ったきりりと引き締まった顔立ち…。


 潮音ははじめこそ、紫に憧れている恭子がこのような紫の姿を見たらどんな顔をするかと思ったが、自分自身もそれを眺めているうちに、自分も紫のように踊ることができたらと思い始めていた。こうなると、潮音の中に目覚めていた、「何かをしたい」「体を動かしたい」という、心を突き動かすマグマのような衝動を、もはや抑えることはできなかった。


 そして潮音は、紫が少し休憩についたときに、思いきって紫に声をかけていた。


「私も…ちょっとバレエをやってみたい」


 その潮音の言葉に、紫はかすかに驚きの表情を向けたが、すぐに言い放った。


「やりたいというのなら構わないけど…その代わりやる以上は厳しくやるわよ」


 潮音が紫に対して黙ってうなづくと、紫も納得したような表情をした。そして潮音がレッスンに加わると、手足の上げ下ろし一つに至るまでも紫の厳しい声が飛んだ。


「バレエの基本は正しい姿勢を保つことよ。これはうちの学校で習う礼法でも生きてくることだわ」


 そこから紫は動作を手取り足取り教えたが、それでも潮音の動きは他の練習生たちのような、流れるような動作とは程遠かった。萌葱と浅葱も、家では優しいお姉ちゃんの表情をした紫の厳しい一面に戸惑っているようだった。


 レッスンが終ったときには、潮音はすっかり疲れ切って息が上がっていた。


「まだまだ合格点には全然届かないけど、体幹はしっかりできてるみたいじゃない。やはり小学生のときにバレエをやっていたときの基礎が生きているのね」


 しかし潮音は肩で息をしながらも、その表情はどこかすがすがしかった。


「中学で水泳部にいたときも、練習の後はたいていへとへとになったけど、それとも全然違うよ」


「その経験も無駄にはならなかったね」


「ああ、正直言って今日はきつかったけど、それでもすごく充実してていい汗かけたよ。小学校でバレエやってたときのことを思い出したし」


 そこで流風が、潮音に声をかけた。


「森末先生が、潮音ちゃんに特別なサプライズを用意しているみたいよ」


 潮音が聡子の方を向き直すと、聡子が手にしていたのはチュチュの衣裳だった。その衣装は純白の生地に華麗な刺繍が施され、スカートもレースの生地がふんわりと広がっていた。


「これ…着てみる?」


 潮音は全身の血が沸騰しそうになったが、しかしそれでも潮音はその華麗な衣裳から目を離すことができなかった。潮音は流風に誘われるままに更衣室に向かい、そこで流風の助けを借りて練習着から衣裳に着替えた。流風に背中のホックを留められるときには、潮音は感情の波がひたひたと高まっていくのを抑えることができなかった。そして顔にもうっすらとメイクが施され、髪には髪飾りがとめられた。


 潮音が再びレッスン室に向かうと、ふんわりと広がった可憐なスカートは歩くのに合わせてかすかに揺れた。胸から下の衣裳の華麗さに比べて、肩を露出しているのにも潮音は心もとなさを覚えずにはいられなかった。


 そして潮音がレッスン室に入ると、壁一面の鏡に映った自分自身の姿から目が離せなくなっていた。華麗なバレエのチュチュを身にまとった潮音の姿は、潮音自身の目から見ても十分に美しかった。スカートから伸びた、純白のタイツをはいた脚も贅肉がなく引き締まっており、衣裳も引き締まったヒップからバストにかけてのラインを余すことなく強調していた。さらに結ってシニョンにした髪も、その衣装にマッチしていた。


 もはや潮音は、鏡に映ったそのような自らの姿から目を離すことができなくなっていた。潮音は両目に、うっすらと涙すら浮かべていた。そして潮音は大きく息を吸ってようやく心の中の動揺を抑えると、心の中でめらめらと炎が燃え立つかのように感じていた。


──オレ…これでもつい半年前までは男として、学ラン着て中学行ってたんだよな。


 その自分が今ではこのようないでたちをしているのを見て、潮音はあらためて自分を見舞った運命の数奇さをかみしめていた。しかしそれだからこそ、自分はその運命に負けるわけにはいかないと思って、潮音は拳をぐっと握りしめて、うっすらとルージュを塗った唇を噛みしめた。


 そのとき、潮音の背後で紫の声がした。その傍らにいた萌葱と浅葱も、潮音の姿に目を奪われているようだった。


「藤坂さん、今日はあくまで特別よ。バレエやってる女の子たちはみんな、舞台の上でこの衣裳を着るために一生懸命練習してるんだからね」


「…そんなこと、わかってるよ」


「ともかく藤坂さん、あなたはもっと自分に自信を持ちなさい。あれだけのことがありながら、こうやってこの場に立つことができるだけでも、あなたは十分大したものだと思うわ。私なんか全然かなわないかもしれない…でもそれだけの根性があれば、バレエじゃなくたってきっと何かやれるはずよ」


「…峰山さん、今日バレエを久しぶりにやってみて、もういっぺんバレエ始めてみたいと思ったよ。さすがに峰山さんみたいにコンクールを目指すわけじゃないし、勉強だって大変だから、そこまで頻繁にレッスンには出られないかもしれないけど」


「ええ、もちろんよ。体を動かしたくなったらいつでもいらっしゃい。レッスンは自分のペースでやるのが一番よ」


 そこで潮音は、萌葱と浅葱にも笑顔を向けた。


「二人とも…お姉ちゃんみたいにうまく踊れるようになりたいかい?」


 そして潮音は萌葱や浅葱ともしばらくバレエの話をした。潮音が萌葱や浅葱とも和気あいあいと話すのを聡子や流風、紫は温かい目で見守っていた。



 レッスンが全て終り、潮音たちみんなが着替えを済ませてバレエ教室を後にすると、ちょっと駅前のハンバーガーショップに寄って行こうかという話になった。


 一同が注文を済ませて席に腰を下ろすと、萌葱と浅葱もどこか嬉しそうにしていた。


「萌葱と浅葱ってかわいいよね」


 紫も潮音がバレエ教室に来て楽しそうにしていることに、何かしらほっとしたようだった。


「萌葱と浅葱も、すっかり藤坂さんに対して打ち解けたみたいね」


 しかしそこで、紫はあらためて制服を着た潮音の姿に目を向けた。


「ところで藤坂さんは今日どうして制服で来たの? 学校があるわけじゃないのに」


 そう言われて潮音は困ったような表情をした。


「それなんだけどさ…今日ここに着ていけるような服がなかったから…」


 そこで紫は身を乗り出して言った。


「それだったらまだゴールデンウィークはあるから、今度一緒に神戸の街に遊びに行かない? 藤坂さんに似合いそうな服がないか見てあげるよ」


 潮音が紫を複雑そうな目で見ながらもじもじしているのを見て、流風もごきげんそうな表情を浮かべていた。


「紫ちゃんと潮音ちゃんはすっかり仲良くなっちゃったみたいね。紫ちゃんはこれからもこの子のことよろしくね」


 潮音は流風が、いつまでも自分のことを「ちゃん」をつけて呼んでいるのを、いやそうな目で見ていた。

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