第三章・エトワール(その5)
潮音が帰宅してからも、心の中からは迷いが消えなかった。自分はかつてバレエを習っていた経験があるとはいえ、教室に通うのをやめてから五年ほどのブランクがあり、しかもそのころは男の子だったという現実が、潮音の決断を鈍らせていた。
そこで潮音は、思いきって流風に電話をかけてみた。まず潮音は紫と高校で一緒になったことを流風に明かしたが、それには流風もいささか驚いていたようだった。
「潮音ちゃんは昔、バレエ教室でも紫ちゃんと仲良かったものね」
そこで潮音は、思いきって流風に、紫からバレエのレッスンを見に来るように紫から誘われていることを打ち明けてみた。しかし流風は、そこで潮音に言った。
「行ってみりゃいいんじゃない? バレエを始めるのに早いも遅いもないよ。大人になってから昔習っていたバレエのレッスンをもう一回やってみたいという人や、新しいことを始めたいと言ってバレエを始める人だって大勢いるんだから」
それでも潮音の心からは、ためらいの念が消えなかった。
「そうは言うけどね…バレエやめてからだいぶ経つし、それに…」
潮音は今の自分の姿を、バレエを習っていた先生の森末聡子に見られることへの抵抗が抜けなかった。
そのような潮音の態度に対して、流風はじれったそうに声を上げた。
「いやならいやとはっきり言いなさい。そんなに迷ってるようなら、私が一緒に行ってあげるから」
潮音はスマホを握ったまま、流風に森末バレエ教室に行く旨の返事をした。
そして、潮音が森末バレエ教室に紫のレッスンを見に行く日が来た。
潮音はどのような服を着ていくべきか迷っていた。森末先生と久しぶりに再会する以上、あまりだらしない装いで行くわけにはいかないと思っていたが、だからといってこの場にふさわしい服があるかと言われると迷ってしまった。
考えた末、潮音は高校の制服で行くことにした。潮音にとって、これが先生に対しても失礼にならないし、ある意味今の自分自身の姿や立場をいちばんよく表している服だと思ったからだった。
潮音が身なりを整えていると、インターホンが鳴った。玄関口に姿を見せた流風は潮音の制服姿に驚きながらも、そこで潮音と一緒に森末バレエ教室に向かうことにした。流風は、潮音のことについてはすでに前もって森末先生に話してあるから、あまり心配しなくてもいいと言って潮音をなだめた。
潮音が流風と一緒に森末バレエ教室の前まで来たときは、懐かしさと共に緊張感で身を引きそうになった。流風に背を押されて潮音がなんとかして教室の中に足を踏み入れると、そこでは紫がバレエ教室を主宰している森末聡子と話をしていた。その傍らに紫の双子の妹の萌葱と浅葱もいたのを見ると、流風はさっそく声をかけた。
「あら。萌葱ちゃんと浅葱ちゃんも一緒なの? 今日は小学生のレッスンの日じゃないのに」
「流風先輩、萌葱と浅葱も私と一緒に練習したいと言ってるから。…萌葱と浅葱もちゃんと挨拶しなさい」
そこで紫は、双子の妹のうちワンピースを着たおとなしそうな子が萌葱で、Tシャツにデニムのスカートの快活そうな子が浅葱だと潮音に説明した。しかし二人そろって潮音にきちんと挨拶をするのを見て、この二人はしつけのきちんとした家で育ったのだなと潮音は思った。
その一方で紫は潮音が制服で来たことに目を丸くしたが、聡子は潮音の姿を目の当りにしてやはり驚きを隠せないようだった。
聡子は潮音をバレエ教室の奥の一室に通すと、椅子に腰かけさせて自らも席につき、テーブルを挟んで潮音と向き合った。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。もっと落ち着きなさい」
聡子に笑顔を向けられると、潮音はますます胸の動悸が抑えられなくなった。聡子の温厚な顔立ちは、潮音がバレエを習っていた当時と全然変っていなかった。
「藤坂君のことは今でもよく覚えているわよ。男の子でバレエを習う子も少なかったけど、それでも藤坂君は一生懸命練習についてきて本当にかわいかったわ」
聡子ににこやかな表情で話しかけられて、潮音はますます照れくさい思いがした。
「森末先生…この男の子だった私が、今こうして女として先生の前にいて、驚かないのですか?」
そこで潮音は、中学三年生の秋になって自分が男から女になってしまったことや、悩んだ末に松風女子高校に進学し、そこで紫に再会したことなどを話した。
潮音の話を黙って聞いていた聡子は、潮音が話し終ると口を開いた。
「そりゃたしかに驚いている気持ちはあるわよ。でもバレエをやるのに男も女もないわ。今だって女の子に比べて数は少ないけど、うちの教室に通ってる男の子はいなくなったことがないわね…でもこれはバレエに限らず、何だってそうなのかもね。だから藤坂さんも気にする必要ないわよ」
聡子の言葉に潮音は少しほっとしたが、そこでさらに話を継いだ。
「私…流風姉ちゃんの踊る姿を発表会で見て、それで自分もやってみたくなってバレエを始めたのです。そしてそこで出会った峰山さんは、教室に通っているほかの子たちよりもずっとバレエがうまくてすごいと思いました。小学校の高学年になって、勉強やそのとき習っていたサッカーとの両立が難しくなってバレエはやめたけど、今になってみたらもっと続ければ良かったかなって思ってます」
「あの頃の藤坂君は、いつも流風ちゃんについて行ってたわね。…でもバレエをやり直すのはいつからだって遅くはないわよ」
そして聡子は、部屋のテレビの電源をつけて、レコーダーを再生させた。画面には去年の発表会でバレエを踊る紫の姿が映し出された。
潮音はいつの間にか、可憐な衣裳を身にまとって、ステップも軽やかに優美なフォームで、音楽に合わせてバレエを舞う紫の姿から目が離せなくなっていた。その紫の姿は、舞台の上で咲き誇る一輪の華麗な花のように見えた。
そのような紫の姿を目の当たりにして、潮音は心臓がますます激しく波打ち、全身を熱い血潮が駆け巡るのを感じていた。もはや潮音はじっとしてはいられなかった。潮音の心の中では、バレエを習
っていた幼い頃や、中学で水泳部で練習に明け暮れた日々が浮かんでいた。
聡子も潮音の画面を見つめる眼差しや表情から、潮音のそのような心中を察したかのようだった。
「藤坂さん、ちょっとだけレッスン見ていかない? 練習着もレンタルできるわよ」
潮音はその聡子の言葉に、深くうなづいていた。
潮音がそのまま待っていると、聡子が折り畳まれた練習着を持ってきた。その黒っぽいレオタードや白いタイツを目の当りにすると、潮音は内心で動揺を抑えることができなかった。
「着方わかる?」
聡子に尋ねられて我に返った潮音は、聡子に誘われて更衣室の前まで来た。聡子がレオタードに着替える間、潮音は更衣室のドアの前で緊張したまま立ちすくんでいた。
やがて聡子がバレエの練習用のレオタードに着替えて更衣室から現れると、潮音を更衣室へと誘い入れた。
そして潮音は聡子の助言もあって、ようやく白いタイツに脚を通し、レオタードを身につけた。続いて潮音は、長く伸びた髪を聡子に手伝ってもらってシニョンにまとめた。
更衣室の中にあった大きな鏡に、レオタード姿の自分の姿が映っているのを目の当りにすると、潮音はいささかの気恥ずかしさで唇をかみしめたが、もはやここまで来た以上引下がることはできないと覚悟を決めて胸を張ると、聡子に導かれるままにレッスン室へと向かった。
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