第一章・新しい日(その7)

 優菜と玲花も、そのような潮音と暁子のやりとりをそばで聞いているうちに、自然に笑顔になっていた。


「なんかアッコと潮音が話すの聞いとったら、ほんまあんたら仲ええなと思うわ。でも潮音、キャサリンはせっかく日本に憧れてイギリスから留学したんやから、日本の恥になるようなことしたり、あまり変なこと教えたりせんようにね」


「優菜までそんなこと言うのかよ」


 潮音は少し困ったような表情で答えた。


「うちも藤坂君のことは心配やったけど、アッコや優菜と一緒なら大丈夫そうやね」


 玲花もどことなく安心そうな表情をしていた。


 そこで優菜は、玲花の方を向き直すとニヤリとした笑顔を浮かべて話し始めた。


「尾上さん、潮音ったら今朝尚洋の男の子とえらい仲良さそうにしとったんやから。ところで潮音、彼との関係はどうなん? じっくり聞こうやないの」


 優菜の話を、玲花も興味深そうな表情をしながら聞いていた。玲花にまでそのような視線を向けられて、潮音はぞくりとした。


「だから何でもないって。湯川君はこの春休みに家族でうちの隣に引っ越して来ただけだから」


 そう話す潮音は、明らかに顔に動揺の色を浮かべていた。


「隣にあんな頭良さそうな男の子が引っ越してくるなんて、ほんま潮音は羨ましいわあ。この調子なら私やアッコより先に潮音の方が彼氏できそうやん」


「優菜のバカ」


 潮音はすっかり取り乱している。


「ところで彼氏と言えば、尾上さんには椎名君がおるやん。でも尾上さん…椎名君も一緒に南陵入ったんやろ。様子はどうなん?」


「椎名君はスポーツ特待生として、寮に入ったからね。そしたら練習も厳しくなってあまり外出もできへんし、あまり自由に会えへんようになるな」


 玲花がため息混じりに話すと、暁子も潮音の顔をちらりと見て言った。


「ねえ潮音…やっぱりもう一度椎名君にはっきり自分の気持ちを伝えた方がよかったんじゃないの」


「なんでいきなりそういうこと聞くわけ」


「いや、さっきあんたが着物についてキャサリンと話していたとき、ついついあの卒業式の日のことを思い出しちゃったから…」


 潮音の少し口ごもる様子を見て、暁子は潮音を気づかうようにそっと声をかけた。


「潮音…あまり気にしない方がいいよ」


「いいんだ…あいつは水泳の選手としてさらに上を目指さなきゃいけないから…オレのことなんかに変に気を取られてほしくないんだ。でもオレ…今日だって松風の子たちを見ていて、自分は何やってるんだろう、これから何を目指せばいいんだろうって、ますますわかんなくなったよ」


 そのとき潮音は、心の中に浩三だけでなく、自分は弁護士を目指していると話したときの昇や、今日再会したばかりの紫の表情を思い出していた。


「藤坂君…そんなに思いつめんとってよ。何がやりたいかなんて、これからゆっくり見つけりゃええやん」


 玲花に言われても、潮音は表情をやや険しくさせたままだった。


「さっきだって…小学生の女の子たちとすれ違ったときに思ったんだ。自分にはあの女の子のような過去なんかないわけじゃん。こういうの見てると、自分はなんかすごく後ろめたいことをしているような気がするんだ」


「ふうん。藤坂君もかわいいスカートはいて、髪の毛編んで赤いランドセルしょって小学校行ってみたかったわけ?」


 玲花がニコニコしながら潮音に視線を向けると、潮音は口をつぐんでしまった。そのような潮音の様子を見て、暁子は思わず声をあげていた。


「そんなこと言ってどうするのよ。そりゃ確かにあんたには、普通の女の子とは違うかもしれないよ。でもあんたにはあんたにしかないものがあるはずでしょ? だからもっとしゃきっとしなよ。そうやってあんたがうじうじしてるの見てると、蹴とばしてやりたくなるわ」


「いいんだ暁子…。今だって自分がこうやって喫茶店で尾上さんといろんな話してるなんて信じられないんだ。…今だからはっきり言うよ。オレ、中学生のとき尾上さんのこと好きだったんだ。でも尾上さんには椎名がいることだって、自分には椎名に比べたら何の取り柄もないことだって、みんなよくわかっていた。だから中学を卒業するまでには、せめて尾上さんに自分の気持ちを伝えたいと思っていたのに、こんなことになって…」


 潮音の言葉を聞いて、暁子と優菜は思わず息を飲んだ。しかしいざ潮音の告白を聞いても、玲花は落ち着きはらった態度を崩さないまま、じっと潮音の顔を見つめていた。


「で、今の藤坂君はどないしたいわけ? 何のつもりでそんな告白したん?」


 玲花を前にして、潮音は言葉に窮してしまった。しかしそのときの玲花の表情は、どこか晴れ晴れとしていた。


「よう言ってくれたね。藤坂君が自分の気持ちに対して素直になってくれて嬉しいよ。これからは男とか女とか、誰が誰とつきおうとるとか、そんなん気にせんと自然に仲ようしとったらええやん。藤坂君も女子として高校行くようになって不安やろうと思うけど、そんなときは無理せんとうちのこと頼りにすればええよ」


 そう言う玲花の笑顔を見て、潮音は気恥ずかしそうに口を閉ざしていた。そこで玲花は、潮音にさらに声をかけた。


「ちょっと手を見せてみ」


 潮音が戸惑い気味に玲花の前に手を広げてみせると、玲花はその手をしげしげと眺めていた。

「やっぱりこれは女の子の手やね。水泳部におったころの藤坂君の手とはちゃうわ」


 そして玲花は、潮音の手のひらにそっと自分の手を重ねた。潮音はそれだけで、心拍数が跳ね上がるような気がしたが、しばらくして玲花の手の温もりが自分の手にも伝わってくると、潮音は自然に瞳を潤ませていた。暁子と優菜も、その二人の様子をただ黙って見つめていた。



 しばらくして一同が喫茶店の席を立ち、電車に乗って帰宅の途についてからも、潮音は黙ったまま、海や淡路島の島影をじっと眺めていた。車窓を流れる瀬戸内海は、潮音の心の内など素知らぬかのように、うららかな春の陽光を浴びて波間がキラキラと輝いていた。


 電車を降りて駅前で玲花と別れる間際になって、ようやく潮音は口を開いた。


「尾上さん…椎名のことよろしく頼んだよ」


「わかったで。藤坂君こそしっかり気を持ちや。困ったらアッコや優菜に頼ったらええんやから」


 そう言い残して玲花が玲花と別れて自宅へと向かう途中で、優菜がぼそりと口を開いた。


「潮音…どうして尾上さんにあんなこと言ったん」


「オレ…これで尾上さんとはきっぱり別れるつもりだった。ああ言うことで、自分の気持ちにもけりをつけられると思ったから…」


「潮音…ほんとに尾上さんのことが好きだったんだね。でも…男の子だった頃のあんたって、そうやって尾上さんにも思い切って告白できるような、そんな度胸あったっけ? あんなにグズだったあんたが」


 潮音は顔に当惑の色を浮かべながら、何も答えずに暁子の横顔をじっと見つめていた。そこで優菜が、重苦しい空気を振り払うかのように口を開いた。


「アッコ、あんたはずっと潮音と一緒におって潮音のことなら何でも知ってるつもりになっとるのかもしれへんけど、それはちゃうで。潮音には潮音の考えかてあるし、それにいつまでも潮音が昔のままやと思っとったら大間違いや」


「そんなこと、優菜に言われなくたってわかってるよ」


「まあまあ。潮音もアッコもそんな辛気臭い顔せんといてよ。ところでで明日は一泊二日のオリエンテーションやろ。何持って行くかわかっとる?」


「姉ちゃんにきけばいいかな。でも…女の子ばかりいる中で自分だけ一人泊まるのってやはり不安だな」


 潮音が心配そうな口調で話すのを、暁子は呆れた様子で見ていた。


「気にすることないよ。先生だって配慮はしてくれるとさっき言ってたじゃん」


「そうかもしれないけど…オレはそれに甘えてばかりいちゃいけないと思うんだ。オレはただ、普通に高校生として学校に行って、友達とも普通につき合いたい、たったそれだけなのに」


「ほんとにあんたって意地っ張りなんだから。つらいときはつらいとはっきり言えばいいし、人に頼りたければそうすりゃいいのに」


 暁子はため息混じりに言った。


 潮音が自宅の前で暁子や優菜と別れると、暁子はしばらくの間、自宅に入る潮音の後姿を見送っていた。そして潮音が家の中に入り、優菜も暁子のそばを立ち去ると、暁子は自宅に入る間際に誰にも聞こえないようなかすかな声でそっとつぶやいた。


「潮音のバカ」



 潮音は自宅に戻ると、私服に着替える前にふと息をついて、壁にかかった鏡に自分の体を映してみた。そして潮音は鏡の中の自分の姿に、あらためて今日学校で出会った少女たちの姿を重ねてみた。


──たしかにオレは、女子校に入れて周りは女の子ばかりで楽しそうとか思っていた。でもこの学校はそんな甘いところじゃない。…しかし松風ってなんであんな美人でかわいい子ばかりなんだろう。でもそれだけじゃない。あんな女の子たちに囲まれて、オレはどう接していけばいいんだろう。


 特に潮音は、自分が小学校のころからバレエの教室で知っていた、紫の落ち着いた表情が脳裏から離れなかった。


 そこで潮音はクローゼットの奥から、卒業式の日にモニカから譲ってもらった、令嬢の形見の着物を取り出してそっと広げてみた。潮音はその薄紅色の生地や、全体に織り込まれた細やかな模様をじっと眺めているうちに、古びたモノクロの写真の中の、あどけなさの中にも凛とした気品のある表情を浮かべた令嬢の姿を思い出していた。


──あのお嬢様に比べたら、オレの悩みなんて何でもないかもしれない。少なくともオレが松風に入ったのは、誰からも強制されたわけじゃない。全ては自分の意志で決めたことだ。オレは昔だって、ただ尾上さんを遠巻きに眺めることしかできなかった。でも今は違う。たとえそれがどんな結果になったところで、少なくともオレは自分の前にあるものから…そして自分自身から逃げたくはない。


 潮音はあらためて、自分の両手を目の前で広げてみた。その手のひらは、男だった頃と比べて指も細くなっていたが、潮音はそれをじっと眺めているうちに、先ほど喫茶店の中で玲花が自分の手を取ったときの温もりが、ほのかに残っているような気がしていた。

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