第六章・冬の終り(その11)

 潮音は自室に入ると、さっそく何日か前に届いたばかりの松風女子学園の制服一式を収めた箱に目を向けた。


 潮音がその箱を開けてみると、ブレザー、ベスト、ブラウス、スカート、リボン、ハイソックス…きちんと畳まれた真新しい女子用の制服一式が姿を現した。


 潮音はその中で、チェックの柄が入ったスラックスに目を止めた。松風女子学園の制服には、オプションとしてスラックスも認められているのだった。


 潮音は立ち上がって着ていた服を脱ぐと、まず純白のブラウスの袖に腕を通した。ボタンの合わせが男物のシャツと逆なのにはまだ慣れなかったものの、それでもなんとかボタンをとめることができた。


 次いで潮音は、スラックスに両足を通して腰まで引き上げると、ブラウスの胸元にストライプの模様が入ったリボンをとめ、紺色の端正なブレザーを羽織ってボタンをとめた。


 潮音はあらためて鏡に向き合った。今の自分の姿を人に見られても、制服の着こなしに若干ぎこちないところはあるけれども、あとはどこにでもいそうな「女子高生」として、何も不自然に思われることはないだろう。真新しい濃紺のブレザーは、バストからくびれたウエストにかけての体形にぴったりとフィットし、襟元ではリボンがひときわ目立って見えた。


 潮音は特に、下半身のスラックスに目を向けていた。潮音はこれまで女子高生というとスカートという先入観を持っていたが、いざ自分がその装いをする立場になってみると、スラックスも動きやすいし、それはそれで悪くないとは思った。


 しかし潮音は、少し体を動かしてみても、何か落ち着かないものを感じていた。…それは潮音が黒い学生服で男装して中学に通っていたときに感じていたのと同じ、わだかまりに似た感情だった。今の潮音はスカートをはいたときの、ドキドキするような胸の高揚感は感じなかった。そこで潮音は、思い切ってスカートに目を向けてみた。


 スカートには式典などのときの正装用とされる、ロイヤルブルーを基調にタータンチェックの模様の入った落ちついた色合いのもののほかに、オプションとして明るいグレーを基調に淡いブルーのタータンチェックの模様が入った軽快な色合いのものがあった。複数のタイプの制服をその日の気分によって選べるなんて、黒っぽい学生服を着ていたときには思いもよらなかったことだ。女ってめんどくさいんだなと思いながら、潮音は正装用を手に取った。


 潮音はブレザーとスラックスを脱ぎ、ブラウスの下に潜らせるようにして、黒いショートスパッツをはいて腰まで引き上げた。潮音はスカートをはくときには、その下にショートスパッツをはくのが常だった。


 次いで潮音はスカートに両足を通すと、きちんとブラウスをスカートの中におさめてホックをとめた。そこで潮音が足元を見下ろすと、白い素足が伸びて心もとない感じがしたので、紺色のハイソックスに足を通し膝下まで引き上げた。


 そこで潮音はあらためて鏡に向き合い、下半身へと目を移した。紺色のハイソックスはすらりとした足の輪郭をあらためて強調し、今は学校の規定通りにはいているスカートの裾からのぞく白い膝小僧がまぶしかった。スカートの裾をつまんで広げてみると、プリーツが花びらのように大きく広がり、タータンチェックの生地がさざ波のような模様を描いた。スカートから手を離し、軽く体をターンさせてみると、スカートが舞い上がって生地が両足をなでた。


 潮音は目の前で両手を広げてそれをじっと見つめながら、あらためてこの数か月の間に自分の身に起きたことを振り返っていた。潮音が女になってしまったばかりのときには、ただ全てのものから目を背けていた。しかし今の潮音は、そこから抜け出そうと手探りで努力することによって、悩みから抜け出せはしないものの、自分にも現実にもしっかり向き合えるようになったということ、そしてそれこそが本当の「強さ」だということをはっきりと認識していた。


 たしかに今の自分に、不安や戸惑いが消えたわけではない。しかし潮音は、今の自分の目の前にあるものから逃げることはできないと感じていた。そう考えると今自分が着ている女子用の制服だって、それを着ることでかえって勇気が持てるような気がした。


──もう後ろを振り返りはしない。他人に甘えたり媚びたりすることもしない。オレはオレのまま、オレとして前へと突っ走る、それしかないんだ。


 潮音はあらためて紺色の端正なブレザーを羽織り、ボタンをとめて身だしなみを整えた。その表情にもはや迷いはなかった。


 そして潮音は制服のまま部屋を出て、居間のドアを開けた。居間では綾乃と流風がくつろいでいたが、潮音が制服姿で居間に入ってきたのを見て、二人ともしばらく呆気にとられていた。そして綾乃は無言のまま潮音の全身をあちこち眺め回すと、次の瞬間両目をキラキラと輝かせて素っ頓狂な声をあげた。


「かっわいー。さすが松風は違うわ。あーあ、私もこんな制服着て高校行きたかったな」


 そばにいた流風も、そのような綾乃の様子にはいささか呆気に取られていた。


 しかし潮音は浮かれている綾乃にぴしゃりと言い放った。


「姉ちゃん…やはり今の自分にはこれしかないんだ」


 綾乃は流風と二人で、しばらく黙って潮音の姿を眺めていた。そしてその末に口を開いた。


「…ほんとにバカだね、あんたって。何もかも自分一人で背負い込んで、無理してかっこつけちゃって。もっと素直になりなよ。つらいんだったらつらいとはっきり言えばいいじゃない。私だけじゃなくて流風ちゃんだっているんだから」


「つらいと言ったからって、そのつらさがなくなるわけじゃないだろ。ともかくこれはオレ自身の問題なんだ。これはオレが自分で解決するしかないんだ」


「たしかに問題は自分で解決するしかないというのはその通りかもしれないし、私や流風ちゃんだってあんたのつらさそのものを取り除いてやることはできないわ。でもあんたのことをわかってくれる人がいるという、それだけでずっと気分が楽になるんじゃない? あんた、前から『強くなりたい』って言ってたよね。でもあんたはこの何か月かでずいぶん強くなれたと思うよ。そう思えばいいんじゃない?」


 そう言われて、潮音は身をすくめて身体をこわばらせた。


「姉ちゃん…ほんとのこと言うと、今でも少しこわいんだ。不安で押しつぶされそうなんだ」


 綾乃はしばらくそのような潮音の表情をじっと眺めていた後、潮音を鏡台の前に坐らせてブラシで髪をとかし始めた。そして綾乃は、髪をおしゃれに整えると、潮音を立たせてじっとしているように言った。そして眉毛を小さいはさみでカットし、マスカラでまつげを軽くカールさせた。そして綾乃は潮音の口を開いてじっとするように言うと、唇にリップクリームを塗った。


「これは?」


「学校に口紅塗ってくわけにはいかないでしょ。でもこれ塗ったら唇がしっとりするよ。これから学校行くといろんなところで緊張すると思うけど、そのときはこれで気持ちを落ち着かせるといいわ」

 

 潮音が唇をむずむずさせてその感触に戸惑っていると、綾乃はスマホを取り出して、制服姿の流風と並ばせて写真を撮った。


「布引の制服もいかにもお嬢様学校ってかんじでいいけど、やっぱり松風の制服もかわいいわ」


 すっかり嬉しそうにしている綾乃を、潮音はげんなりしながら見ていた。


「そんなに制服がいいというなら、姉ちゃんが着てみりゃいいだろ」


「私だって去年までは高校生だったからね。今制服着ても現役で通るかしら」


 その悪びれもしない綾乃の態度には、潮音だけでなく流風もいささか呆れていた。


「でも…流風姉ちゃんはどう思うの」


「潮音ちゃんも困ったことや悩んでることがあったら、いつでも私のところに来ればいいよ。でも、こうやってちゃんと学校にいくことができる、それだけで十分立派なことだと思うよ」


 そのようにして流風が潮音をなだめると、潮音もいささか照れくさそうな表情を浮かべた。

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