第六章・冬の終り(その10)
潮音が急いで着替えと身支度を終えてロビーに出ると、昇はすでに待っていた。
「待たせちゃってごめん。男の子に比べて、女の子の身支度には時間がかかるからね」
そして二人はスポーツセンターを後にすると、駅前にあるハンバーガーショップに向かった。注文をするとき、昇は潮音に言った。
「気にしなくていいよ。ぼくがおごるから」
「湯川君って優しいんだね。別に女の子だからっておごることなんかないのに」
昇と潮音は向かい合って席につくと、昇はハンバーガーを口にしながら、さっそく潮音に話しかけた。
「藤坂さんってさ…この前『泳げなくなった』とか言ってたけど…今日見たら全然そんなことなかったじゃん」
しかし潮音は、昇のこの言葉に表情を曇らせた。昇は潮音には、この件についてはよほど話したくない事情でもあるのだろうと察して、気まずさを感じて口をつぐんだ。
「い、いや…話したくないなら話さなくてもいいからさ…」
しかしここで、潮音は浩三と共に水泳の練習に明け暮れた日のことを思い出していた。潮音はすでに浩三は運動部の強化選手が暮らす寮に入り、練習やトレーニングにとりかかっているのだろうかと気になっていた。そこで潮音は、ようやくぽつりと口を開いた。
「中学の水泳部で、すごく水泳がうまい子と一緒だったんだ。彼はスポーツ推薦で南稜に入学し、強化選手としてそろそろ寮に入ったんじゃないかな」
「南稜ってスポーツの強い学校じゃん。…もしかして藤坂さんは、その人に憧れてたんだ」
「そんなんじゃないんだ。でも彼は水泳の選手になるという目標がしっかりあるのに、自分はいったい何やってるんだろう、何をすればいいんだろうって思ってね。…湯川君だって弁護士になりたいとか言ってるけど…どうして弁護士になりたいって思ったの」
「ばくは少し前、いじめや子どもの貧困といった問題に取り組んでいる弁護士の書いた本を読んだんだ。これを読んで、弁護士の仕事は普通の人の暮しにも関わっているんだとわかったからね」
「えらいね…湯川君はそういう優しい性格だから、こうやって私のことも気にしてくれているんだ」
「藤坂さん、目標がなかなか見つからないとかいって焦る必要はないよ。今は自分のできることをしっかりやっていけばいいんじゃないかな」
しかし潮音は、昇といっしょにいるときの堅苦しくてよそよそしいムードがどうも苦手だった。そこで潮音は、昇がジュースを飲んでいたときを見計らって、あえて意地悪なことを言ってみた。
「湯川君、さっきプールで隣に坐ってたとき、なんか変に緊張してなかった?」
そのとき昇は、いきなりあわてたような表情をした。
「いや、そんなこと…」
「気にすることないよ。男なんてみんなそういうものだから。湯川君って学校で友達とエッチな話とかしないの? 私の知ってる中学のときの男子なんて、そういうのばっかりだったからさ」
「どうでもいいじゃん。でもなんか、瀬波さんと一緒にいると女の子という感じあまりしないよね。なんか友達みたいな感じで気楽につき合えるって感じで」
昇にそのように言われて。潮音は胸がどきりとした。
「さっきは私の水着姿見て鼻の下伸ばしてたくせに」
そう言われて昇は赤面していた。
「でも瀬波さんってそういう気が強くて、細かいことにとらわれないさばさばしたところがなんか男の子っぽいよね。言葉づかいだってそういう感じだし」
そこで潮音はぼそりと口走った。
「いや…、もし私が本当に男の子だったとしても、湯川君と仲いい友達になれるかどうかはわかんないよ」
「どうしてそう思うの?」
「だって…湯川君は私なんかよりずっといい学校に通ってて頭良さそうなんだもの」
「いや、ぼくだって尚洋行ってるなんて言うと、みんなから『頭いいんだね』とか言われるけど、そんなことないって。尚洋だってみんなでアイドルやゲームの話だってするし、バカ騒ぎして先生に叱られることだってしょっちゅうだし」
「湯川君の気持ちわかるよ…私だってほんとの自分を見てほしいと思うし」
ここで潮音は少しうなだれた。潮音は昇の明るく、潮音に対しても分け隔てなく接する様子を見て、たとえ今は本当のことをわかってもらえないとしても、いつしか昇に全てを打ち明けなければいけない日が来るかもしれないと思っていた。しかしそうなったとしても、昇は果たして自分を受け入れてくれるだろうかと、いささか不安な気持ちにかられていた。
潮音が昇と別れて自宅に帰ったのは、午後に入ってから少し過ぎた頃だった。さっそく綾乃が嬉々とした表情で潮音を出迎えた。
「どうだった、はじめて湯川君とプールに行った感想は」
「何もなかったからほっといてくれ」
潮音は綾乃に背を向けると、水着とタオルを洗濯機に放り込んだ。そして洗濯機が回り続けるのをじっと眺めながら、重い口を開いた。
「オレは湯川君に本当の自分を見てほしいと思ったからこそ、湯川君をプールに誘ったんだ。でも湯川君はそんなオレを見てどう思ったのかな」
「あんたこそ変に気にし過ぎじゃないの? 『本当の自分を見てほしい』なんて、安っぽいアイドル雑誌のグラビアの煽り文句じゃあるまいし」
「でももし湯川君が、彼女になってつきあってほしいなんて言ったらどうしよう」
「湯川君はほんとにそういう目であんたを見てたわけ?」
「オレは少し前まで男だったんだぜ」
「男だっていろいろいるでしょ。昇君は元のあんたみたいなスケベとは違うわね」
そこで潮音は、少しむっとして答えた。
「でも湯川君とは仲良くなりたいんだ…。男と女の違いだけで、好きとかつきあってるとか、なぜすぐにそういう風に言われるわけ? …湯川君にはいつかほんとのことをみんな打ち明けようと思うんだ。いつまでもごまかし通せるわけじゃないし。もしそれでも湯川君がオレを受け入れてくれるとわかったらだけど」
「あんたに人をだましてつきあうような器用なまねはできそうにないしね。でもそれだっていいじゃない。ともかく昇君の前ではもっと素直になればいいわ。その結果悩むことだってあるかもしれないけど、そのときは大いに悩めばいいじゃない。そうやって悩んだところで、それは生きてくることだってあるだろうから。それに湯川君ならきっと大丈夫だと思うよ」
綾乃が明るいさばさばした口調で話すのを聞きながら、潮音はそのまま洗濯機が音を立てて回るのをじっと見つめていた。
ちょうどそのとき、玄関のインターホンが鳴った。綾乃が出迎えると、流風が玄関口に立っていた。流風も今日は紺色のジャンパースカートという、布引女学院のシックな制服を着ている。
「どうしたの?流風ちゃん」
「今日は午前中に学校でやってるボランティアの用事があってさ。家に帰って着替えるのもめんどくさかったから、そのまま綾乃お姉ちゃんのとこに来たわけ。潮音ちゃんも元気そうで何よりだわ」
そこで潮音のスマホの着信音が鳴った。潮音がスマホを取ると、メッセージの送り主は暁子だった。
『潮音、明日は入学式前のオリエンテーションだけど、ちゃんと準備できてる?』
潮音がメッセージを返信する余裕もないうちに、暁子は次のメッセージを送信してきた。
『潮音も制服着てみた? ちゃんと着られた? どこか変なところない?』
そのメッセージには、写真も添付されていた。その写真には、暁子が優菜と一緒に真新しい松風女子学園の制服を着て写っていた。
『潮音も何ぐずぐずしてるのよ。あと三十分くらいしたらあんたの家に行くよ。優菜も一緒にね』
潮音は暁子のメッセージを読むと、相変わらず暁子は世話焼きだなと困った顔をした。
しかしここで綾乃が声をかけた。
「潮音、明日は高校のオリエンテーションでしょ? その前にいっぺん制服の着こなしのチェックしてあげるよ」
流風もニコニコしながら潮音の方を見ている。
「私もいっぺん、潮音ちゃんの高校の新しい制服見てみたいな」
ここまで来ると、潮音ももはや逆らうことはできない。潮音はやれやれと思いながら、自分の部屋に向かった。
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