第六章・冬の終り(その9)

 潮音が昇と一緒にプールに泳ぎに行くという話を聞いて、舞い上がっていたのはむしろ綾乃や則子の方だった。則子はごきげんそうな顔で潮音に言った。


「湯川君は尚洋に行ってるんでしょ? それになかなかハンサムじゃない。くれぐれも失礼なことがないようにね」


 どうやら則子は、昇の母親と世間話をするうちに、さっそく意気投合してしまったらしい。


 綾乃は潮音が服を選ぶとき、スカートにした方がいいと言った。潮音はスポーツをしに行くのになぜといぶかしんだが、そこで綾乃はこう言った。


「ズボンだと水着に着替えるとき、いっぺん全部脱がないといけないでしょ」


 そこで潮音は少し考えた末、くるぶしの近くまであるロングスカートで出かけることにした。潮音にとっては、昇が自分のことを女の子として認識している以上は、昇のそのようなイメージを壊したくないという思いもあった。


 そのような潮音の様子を見て、綾乃はさっそく口をはさんだ。


「男の子と会うのに服のことで悩むようになるとは、あんたも一人前になったわね」


 そこで潮音は、いやそうな顔で綾乃を見返した。



 潮音はなんとか昇と落ち合ってスポーツセンターに行ったものの、女子更衣室に入るときには緊張のあまり心臓がはちきれそうになった。更衣室の中は空いていたとはいえ、潮音は他人と目を合わせないようにして部屋の奥まで行き、ロッカーの前で自分の身体を壁にして、まずはスカートに手を入れてショーツとショートスパッツを下ろすと、水着に両足を通した。そしてようやく下半身に水着の感触がなじんでくると、スカートのホックを外し、そこから肌を露出しないように水着を少しづつずり上げながらトップスを脱ぎ、最後には水着のストラップを両肩でとめた。


 潮音は髪をきちんとまとめてスイミングキャップに収め、深呼吸をして気を落ち着けてからプールサイドに入ると、昇はすでに水着に着替え終って男子更衣室の出口で待っていた。昇は潮音の水着姿を目のあたりにすると、特に胸やヒップ、うなじのあたりに目を向けて気まずそうな表情をしていた。しかし潮音はやれやれと思いながらも、昇の体を見て、一見秀才タイプでどこか線が細そうに見えた昇も、メガネを外したら表情もたくましそうに見えるし、体格もしっかりしていて筋肉もあると感じて、かすかに胸の高鳴りを覚えた。


 それでも潮音はいざゴーグルをつけてプールの揺れる水面を見つめているうちに、水泳部で練習に明け暮れていたころのことを思い出して、いやがおうにも胸の奥でボルテージが高まっていくのを感じていた。そして軽くプールを何往復かして、水の中で悠然と手足を動かすにつれて、潮音は受験勉強で忘れかけていた感触が全身に甦ってくるのに心地よさを覚えていた。


 一通り泳いだ後、潮音はプールから上がって昇の方に目を向けた。昇も潮音の泳ぐ姿に見入っていたらしく、潮音の泳ぐときのフォームをほめそやしていた。


「すごいじゃん、藤坂さん…うまいよ」


 昇に言われて潮音は照れくさい気分になった。


「でもタイムは落ちてるだろうな…入試の間練習してなかったし、それに…」


 潮音がそう言いながら伸びをすると、胸の大きさがあらためて強調されるようなスタイルになった。昇が顔を赤らめているのを見て、潮音はあわててやや身をすくめながら胸を手で覆ってみせた。


「タイムなんか気にすることないって。藤坂さんが全力を出し切れたらいいんだから」


 潮音は思いきって、昇に自分のタイムをはかるように頼んでみた。潮音は一心にプールを泳ぎきった後、昇からタイムを聞かされた。そのタイムは自分が男の子だったころよりだいぶ落ちていたので、潮音はやはり入試の間のブランク以上に、男と女では体力差は埋められないのだろうかと思った。


 しかし潮音はこんなことばかりくよくよ悩んでいても仕方ないから、ここはひとまず泳ぎを楽しんで、日ごろのたまったストレスを発散しようと思い直した。そのようにして泳いでいるうちに、心の中に残ったわだかまりもいつしか薄らいで、表情にも自然さが芽生えてきた。


 それが一段落すると、潮音と昇はプールサイドに並んで腰を下ろした。昇はちらりちらりと潮音の方を見ながらも、目のやり場に困っている様子がありありとわかった。潮音は恥ずかしげに両手で胸を押さえながらも、自分自身男として、昇の立場になったら同じような気持ちになるだろうと思ったから、とやかく言う気にはなれなかった。


 しかしそのような潮音の心中などそ知らぬかのように、昇は潮音に話しかけていた。


「藤坂さんって今まで顔とか見てても、なんか変に身構えて緊張しているような気がしてたんだ。でも今日になって、やっと藤坂さんの屈託のない自然な表情を見ることができたような気がするよ」


「私…これまではタイムを縮めたりとか選手になったりとか、そういうことにばかりとらわれていたのかな。でも久しぶりにプールで泳いでみて、なんか少し肩の力を抜いてふっきれることができたような気がするんだ。泳ぐのってこんなに楽しかったんだってね」


「よかったね」


 そこで潮音は、やや身をすくめて昇にきいてみた。


「ところで…この水着、似合ってるかな」


「なかなかいいよ。こうしてみるとやはり藤坂さんってスタイルいいよね」


「湯川君もけっこういい体してるじゃん」


「そんなことないよ。ぼくなんてどっちかというと運動苦手だし」


「だったら運動部に入ればいいんじゃない? そしたらけっこう女の子にもてるかもよ」


 昇は照れくさそうな表情をしていた。


「湯川君はクラブ何入ってるの?」


「…囲碁部」


「けっこうしぶいじゃん」


「ぼくのおじいちゃんは囲碁三段で、小さいころから囲碁を習っていたからね」


「でも私…碁の打ち方なんて全然知らないけど、碁って難しいの?」


「碁はルールこそ簡単だけど、だからこそ自由自在で奥が深いゲームだよ」


「もしよかったら碁の打ち方とか教えてくれないかな」


「いつでも教えてあげるよ」


 昇が照れ笑いを浮かべる一方で、潮音は自分が心にもないことを口にしていることに内心で戸惑っていた。


 それからしばらくプールで泳いだ後、潮音が昇と別れてシャワー室に入ってからも、潮音の脳裏からは先ほどの昇の表情が抜けなかった。スイミングキャップを外して髪をほどき、全身にシャワーを浴びている間も、潮音はなぜ自分は昇をプールに誘おうなどと思ったのだろうと自問し続けていた。


──湯川君とはもっと、中学までクラスの男子とつきあっていたのと同じように、自然に接したいのに…。これから男と接するときもみんなそうなのだろうか。むしろ普通の女の子として湯川君に会うことが出来たらどれだけ楽だろう。


 潮音は昇をプールに誘ったときには、たしかに昇に対して偽ることなく本当の自分を見てほしいと思っていた。しかしその「本当の自分」をさらけ出すことで、潮音はより厳しい道を選んでしまったのかもしれないということに、今さらのように気づいていた。


 潮音がシャワーを止めて、あらためて自分の競泳水着姿をそばの鏡に映してみると、水滴のついた自分の素肌や濡れた黒髪がよりつややかさを増したような気がした。潮音は覚悟を決めると、タオルで髪についた水滴をはらった。

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