第六章・冬の終り(その8)

 やがて潮音は、昇に街のいろいろなスポットを案内しながら通りを歩いているうちに、家の近くにある大きな公園に来ていた。公園の中からは青く澄んだ瀬戸内海や明石海峡大橋も一望できた。公園を囲むように植えられた桜のつぼみも満開寸前までふくらんできていて、公園の中には花見客の姿もちらほら見られた。


 昇もその公園から見える景色に、目を奪われているようだった。潮音は自分の髪を束ねていたリボンをほどいて、長く伸びた髪をまだ冷たさの残る春風に泳がせてみた。


「この街にはこんなに落ち着けるところがあったんだ」


 そこで昇は、少し表情を曇らせて言った。


「ぼくは小学三年のときにも引越しをしたけど、そのときはなかなか友達ができなくて寂しい思いがしたんだ。ぼくが前に住んでいた街にも海は見えなかったけど、高台にこんな公園があってね。寂しいときにはよくその公園に来て気を紛らわせたものだよ」


 その「友達ができない」という言葉を聞いて、潮音はあらためて昇を向き直した。


「友達ができない…その気持ちはわかるよ。私…だってちょっとそういうとこあるから」


 その言葉を聞いたとき、昇は少し不用意なことを言ったかもしれないといった表情をして、無言のまま潮音の顔を見た。しかしそこで、潮音はぼそりと口を開いた。


「私…中学では水泳部にいたんだ」


「へえ。ぼくだって幼稚園から小学校まで、スイミングスクールに通ってたよ」


「…でも少し前にちょっといろんな事情があって、泳ぐことができなくなってたんだ。そのまま高校に入ることになって…今でもちょっと不安なんだ」


「藤坂さん…何があったのか知らないけど、言いたくないなら無理して言わなくてもいいよ」


「…今はまだ心の準備ができていないんだ。いつか気持ちが落ち着いたら、話せるようになるかもしれないから…」


「あまり考えすぎない方がいいよ。無理に思いつめたって何の解決にもならないし」


「…優しいんだね。なんか湯川君って…今まで学校とかで一緒だった男子とは全然違うんだもの。私…の知ってる男子なんて、バカ騒ぎして先生に叱られたり、エッチな話ばかりしたりしてさ。それに比べたら湯川君って落ち着いてて大人びてるし」


 潮音はそう言いながらも、自分自身もつい最近までは、そのようなバカ騒ぎしてた男子の一人だったのにと、内心で白々しさを覚えていた。


「え…そんなことないよ。でも藤坂さんって、不意に自分のことを『オレ』と言ったりするところが逆にかえってかわいいよね」


 その「かわいい」という言葉が潮音の心を動揺させた。そしてそのとき潮音の心にふと一つの考えが浮かんだ。潮音は一瞬ためらいながらも、ここでひるんだら機会がなくなると思い、一気に昇に声をかけた。


「湯川君…さっき自分も昔は水泳やってたと言ってたよね。うちの近くのスポーツセンターにもプールがあるから、今度泳ぎに行かない?」


 昇は驚いた表情で潮音の顔を見つめた。


「私…中学のときは水泳部にいたけど、最近ちょっと事情があって泳げなくなっていたとさっき言ったよね。湯川君と一緒なら…水泳部で泳いでいたときの感触を思い出せそうな気がするから」


「…もし泳ぎに行きたいというのならいつがいい?」


「あさってなら空いてるかな」


 昇もその日なら空いていると言った。


「ともかく藤坂さんが元気になってくれるなら、それでいいよ。ぼくもこの街でスポーツできるところがあるか、ちょっと見てみたいからね」


 昇が明るい表情で答えると、潮音も複雑そうな表情をした。そして二人は、公園を後にしてそれぞれの家に向かった。


 潮音が家の前で昇と別れて自宅に戻ると、さっそく綾乃がにんまりとした笑顔を浮かべながら玄関口で潮音を待構えていた。


「ずいぶん遅かったじゃない。どこまで行ってたのよ」


 潮音はそのように言う綾乃を振り切ると、自分の部屋に入ってドアを閉めた。


 潮音は部屋の中で、あらためてミニスカートで装った自分の姿を見回してみた。そこで潮音は、先ほどの昇の表情を思い出すと、先ほどなぜあのような約束をとりつけたのか、自分自身でもわからなくなっていた。自分が昇を前にしてもあんなに大胆になれたのは、やはりこのミニスカートのせいかもしれないと思うと、潮音はますます昇に対して気後れを感じずにはいられなかった。


 そこで潮音は、一度玲花や優菜と一緒に泳ぎに行って以来、ずっとしまったままだった競泳水着を取り出して、手で広げてみた。潮音はここまで来てしまった以上もう後には退けないと覚悟を決めて、服を脱いで水着を手に取った。


 潮音が両足から水着に身体を通して両肩でストラップをとめ、胸やヒップのあたりを調整し直すと、張りのある生地に素肌を覆われる圧迫感に息をつかずにはいられなかった。


 それでも潮音が一呼吸おいて髪を体に垂らし、鏡の前でそっと目を上げると、シンプルでスマートな競泳水着は、潮音の均整の取れたスタイルや足の長さ、そしてきめの細かな素肌をより強調していた。しかし潮音は、自分のそのような姿を鏡に映してみても、不思議と羞恥心は感じなかった。むしろこれが今の自分の姿である以上、ここからは逃げられないと思うと、あらためて度胸が坐ったかのように感じた。


 そのとき潮音は、退院後に玲花や優菜と一緒にはじめてプールに行ったときのことを思い出していた。


――考えてみりゃ、オレがはじめて「女」として人前に出たのは、あのプールで泳いだときだったな。あのとき勇気を出して「泳ぎたい」と言ってなかったら、今ごろ自分はどうなっていただろうか…。


 潮音がそのままはやる気持ちを抑えようとしていると、背後のドアの向こうから綾乃の声が聞こえてきた。


「ちょっと潮音、帰るなり部屋に閉じこもっちゃってどうしたのよ」


 潮音は一瞬どきりとしたが、あらためて気を取り直すと、綾乃に返事をした。


「姉ちゃん、ちょっと部屋に入ってきてよ」


 綾乃はためらい気味にドアを開けると、いきなり潮音の水着姿を目のあたりにして腰を抜かしそうになった。


「あんた、何よその恰好…」


 しかし動揺する綾乃を前にしても、潮音の口調は落ち着きはらっていた。


「水泳部の話とかしたら…今度プールに行こうという話になってさ」


 その話を聞いて、綾乃はさらにつっこけそうになった。


「あんたも隅に置けないわね。一回や二回会っただけの男の子と、プールに行こうなんて約束をとりつけるんだから」


 しかし潮音は、きっぱりと綾乃を向き直して言った。


「オレ…あの湯川君と一緒にいると自分が男なのか女なのか、どう接していいかわからなくなるから…。ほんとの自分を見てもらうためにはこれしかないと思ったんだ。そうすれば自分だって気持ちの整理がつくと思うし、それに自分をだましてうわべだけでつきあうような、そんなまねはもうたくさんだ。…湯川君は確かに優しくていいやつだよ。でもだからこそ、その優しさに甘えているわけにはいかないんだ。…見てみなよ。今のオレにはこれしかないんだ。いくら言葉や服で上っ面を装ったところで、この身体だけはウソをつけないんだ」


 綾乃は潮音の決然としたかのような表情を見て、いつになく神妙な面持ちになっていた。


「あんたみたいなまじめで一途な女の子と知り合えて、湯川君は幸せ者だわ」


 しかし潮音の表情からは、どことなく不安げなものが浮かんでいた。


「でも…ひとつだけ気になってるんだ。オレは湯川君にこんなとこ見せて、かえって湯川君の優しさにつけこんで、気持ちをもてあそんでいるだけなんじゃないかって」


 そのような潮音の顔を見て、綾乃はあらためて言った。


「あまり気にしすぎない方がいいわね。湯川君とあんたの関係がこれからどうなるかは私の知ったことじゃないけど、それでも何かしない限りは何も始まらないじゃない。人を傷つけたり、自分が傷ついたりするのを恐れてたりしたら何もできやしないわ。それにこれはあんたの方から言い出したことなんでしょ。あんたが決めたことなんだから、あんたが思うようにやりな」


 しかしそこで、綾乃は潮音の水着の大きく開いた背中やヒップのラインを眺めていた。


「でもこうしてみると、競泳用の水着って結構エッチなんだね。湯川君があんたのそんなとこ見たらドキドキするんじゃないかしら」


 そう言って綾乃が潮音の水着の空いた背中を指先でなぞると、潮音は背筋をびくりとさせた。


「変なこと言うなよ。そんなのいちいち気にしてたら、水泳部なんかやってられるわけないだろ」


 身をすくめている潮音に、綾乃はスイミングキャップを手渡した。


「プールの塩素は髪を傷めるからね。プールから上がったら、ちゃんと髪の手入れするのよ」


 そして綾乃は、潮音にロングヘアを編んでまとめ、スイミングキャップにまとめる方法を教えた。潮音がなんとかしてスイミングキャップをかぶり終えると、不意に綾乃が潮音のうなじに息を吹きかけた。潮音はびくりとして思わず身をすくめた。


「姉ちゃん…いいかげんに人を茶化すはよせよ」


「男は女のそういうところにひかれるものよ。気をつけておくことね」


「姉ちゃんのバカ」


 悪びれている綾乃を、潮音は困ったものでも見るような目つきで眺めていた。そして潮音がそそくさと水着からパーカーとジーンズに着替えようとすると、そこでまた綾乃が横から口をはさんだ。


「これにするの? せっかく私が服貸してあげたのに」


「いいかげんにしろよ」


 潮音は着替え終ると、綾乃にニットとミニスカートをつき返した。しかし綾乃はそのような潮音の姿を見ながら、潮音は自分の心配をよそに、思ったよりもずっと成長していると内心で感じていた。

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