第六章・冬の終り(その7)

 潮音が旅行から帰ってから数日がたったある日、潮音は部屋の中で、高校で使う備品の整理をしていた。潮音は目の前に並べられた真新しい教科書や、通学に使うカバンなどを眺めていると、いよいよ高校生活が目前に迫っていることをいやおうなしに実感させられて、緊張感が高まってくるのを感じた。


 そこに綾乃が声をかけてきた。


「潮音、制服届いてるよ」


 しかしそこで、綾乃は潮音の部屋を見渡して言った。


「なんかそっけない部屋よねえ。この際だから模様替えでもしてみたら?」


 たしかに潮音の部屋は、女の子の部屋にしては装飾が少なく、いささか殺風景に見えた。


「姉ちゃん…カーテンもピンクでドレッサーには香水や化粧品が並んでて、ぬいぐるみやおしゃれな小物が飾ってあってとか、そういう部屋を想像してるのかよ」


「誰もそんなこと言ってないでしょ。あんたの方こそそういうの意識しすぎよ」


 そこで潮音は、ノートなどの文房具を買い足さなければならないことに気がついた。そこで潮音は、駅前に買物に行こうとカーペットから立ち上がった。


 軽く身支度を整えて、潮音が家から出たとたん、ばったり玄関口で数日前に引越してきたばかりの昇と出会った。潮音は昇の姿を目のあたりにして、どきりとせずにはいられなかった。


「湯川君…引っ越してきたんだ」


「うん。ここ何日かは引っ越し荷物の整理で大変だったけど、ようやく片付いてきたよ。これからよろしくね」


 屈託のない笑顔で話す昇を前にして、潮音がどう答えていいかまごまごしていたとき、綾乃が家から出てきた。


「あら。さっそく仲がいいのね」


昇は綾乃にもきちんとあいさつをしたが、 そこで綾乃は潮音と昇が並んで立っているのをじっと眺めながら、しばらく考えた後で口を開いた。


「せっかくだから潮音、湯川君にこの街のこととか案内してあげな。どうせ湯川君も春休みで時間あるんでしょ? 潮音だって買物しなきゃいけないというけど、別に急ぐわけじゃないし」


 昇は何やら照れくさそうにしていたが、綾乃はそこで潮音のジャンパーにジーンズ、スニーカーといういでたちに目を向けた。


「そのかっこ、なんとかした方がいいわね」


 そして綾乃は昇に少し待つように言うと、潮音をむりやり部屋の中に引っぱりこんだ。


 潮音がなかなか部屋から出て来なかったので、昇がどうしたんだろうと気になり出した頃になって、潮音が綾乃に付き添われて家から出てきた。しかし潮音のさっきまでとは一変した装いに、昇は目を丸くした。トップも春らしい軽快な色合いのニットに着替え、ポニーテールの髪もリボンでまとめていたが、昇の視線は潮音の下半身に集中していた。潮音はボトムをミニスカートにはきかえさせられていたのだった。


 しかし当の潮音は、しきりにミニスカートの裾を気にしながら、ふて腐れた落ち着きのない表情をしている。


「ちょっと買物行くだけで着替えなきゃいけないのかよ」


「つべこべ言うんじゃないの。せめて男の子の前に出るときくらい、少しは身だしなみに気を使いなさい」


「このミニスカートのどこが身だしなみなんだよ」


潮音は声を荒げたが、綾乃の態度はあくまで落ち着き払っていた。


「せっかく春が来てあったかくなったんだから、こういう服で季節を感じることこそが女の特権よ。それにあんたこそこないだまで、ミニスカートの女の子を見たらそっちの方に目が行ってたんじゃないの」


 綾乃にそう言われたとき、潮音はびくりとしてあわてて昇の方に目をやった。昇は綾乃の言葉の意味がわからなかったらしく、きょとんとしながら二人のやりとりを見ていた。それでも潮音は昇に不審の念を抱かれたのではないかと思うと、気が気ではなかった。


 家を後にして、春の陽気が照らす通りを並んで歩きながらも、しばらくの間潮音と昇の間にはどこか気まずい空気が流れていた。やがて潮音がそのような重苦しいムードを断ち切ろうと、思い切って口を開いた。


「あの…さっきの姉ちゃんの言ってたこと聞いてどう思った」


 しかし昇はあっけらかんとした表情で答えた。


「藤坂さんってお姉さんとずいぶん仲がいいんだね」


 潮音は昇が思ったより鈍感なのに内心で安堵したが、その一方で昇の「仲がいい」という言葉には別の意味で戸惑わされた。


「あの…さっきのあれ見ててほんとにそう思うわけ?」


「ぼくは一人っ子できょうだいとかいないから、そういうの見てるとうらやましくってさ」


「うん…まあそうだよね」


 潮音自身、もし綾乃がいなかったら自分は今ごろどうなっていたかと思うと、その昇の言葉には納得するしかなかった。


「でも藤坂さんってお姉さんと一緒にいるときには、まるで男の子みたいな話し方するんだね」


「えっと…いや…その…」


 潮音はその昇の屈託のない態度に、あらためて複雑な思いにさせられた。しかし潮音は本当のことを言ったところで理解してもらえないだろうと思って、話題をはぐらかした。


「あのさ…尚洋ってどんなとこなの。やはり勉強なんか難しいわけ」


「ああ、たしかに難しいけど…でもぼくは将来弁護士になりたいと思ってるからね」


 潮音はその昇の言葉を聞いてはっと息をつかされた。自分は今の情況になじむことばかりに必死で、将来についてどのようなイメージを持てばいいのか、とても考える余裕などなかったからだった。自分はこれからどのような目標を目指すべきか…それを考えると気が重くなった。


「すごいね…オレ…、いや私なんて自分はこれから何になりたいかとか、将来の目標なんて全然考えたことなかったのに。学校でも仲間とつるんでバカやってばかりでさ」


 潮音が自分のことを「オレ」と呼ぶのを聞いて、昇は一瞬目を丸くした。潮音はしまったとばかりに口をつぐんだ。


「大したことないよ。弁護士になるための司法試験はすごく難しいらしいし、ぼくだって将来弁護士になれるかどうかなんてわからないんだから。気にしない方がいいよ」


 そして昇は潮音の顔を向き直して言った。


「藤坂さんってあまり男の子とつきあったことないの?」


 そう言われて潮音はどきりとした。


「どうしてそう思うの?」


 潮音はためらいがちに尋ねてみた。


「藤坂さんって、ぼくと話すときにはなんか身構えてるというか、うまく話せないような感じするから…。お姉さんとはあんなに元気に話するのに」


 潮音が顔を赤らめて答に窮していると、昇はあわてて潮音をなだめた。


「いや、いいんだよ。そんなに気にしなくたって」


 潮音は昇の自分を気遣おうとするような態度に、かえって複雑な気持ちにさせられた。


 そうしながら歩いているうちに、二人は駅前の商店街に来ていた。潮音が自分の買物を済ませると、二人はまず本屋に入った。


 昇はさっそく学習参考書のコーナーに向かった。潮音はやはり昇は勉強家なんだと感じながら参考書の表紙を眺めていたが、それが一段落すると昇はマンガの並んだ一角に行って、少年マンガ誌に連載されている人気マンガの単行本を手に取った。


「そのマンガ読んでるんだ。面白いよね」


「女の子も読んでるの?」


「面白いんだからいいでしょ。しばらく入試とかあったから読んでなかったけど」


 本屋を出てから、潮音と昇はマンガの話題で少し盛り上がった。昇は潮音が少年誌にくわしいことに少々驚いていた。


「でもなんか安心したよ。湯川君みたいな頭いい子もマンガ読んだりするんだって」


 潮音が少しご機嫌になると、昇はいささか複雑そうな表情をした。それから潮音は、昇とも少し気楽に話ができるようになったように思えた。

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