第六章・冬の終り(その6)
その翌朝、潮音はトップこそボーイッシュなシャツを着ていたが、ボトムは膝丈までのデニムのスカートをはいていた。智也は昨日自分とキャッチボールに興じていた潮音が、今日はスカートをはいていることに戸惑いを感じているようだった。
朝食が済んで潮音たちが部屋を片付け、帰り支度をしていると、暁子の祖母が暁子を呼び止めた。
「ちょっと暁子、暁子も高校入ったからなんかプレゼントしようと思ってたけど、これなんかどうかな」
そう言って暁子の祖母は、暁子に一着の畳まれた服を差し出した。暁子がその服を広げてみると、それは水玉模様の入った、濃いブルーのシックなワンピースだった。
ワンピースを手にしたまま、暁子は複雑な表情を浮かべていた。私服はいつもパンツかジーンズばかりの暁子にとって、このようなおしゃれな感じの服は苦手だった。
しかし優菜はニコニコしながら暁子の方を眺めている。
「暁子も着てみりゃええやん。なかなか似合うと思うで」
「そうだよ暁子。暁子ってもっとかわいい服着りゃいいのにって前から思ってたんだ」
暁子はこの前まで男の子だった潮音がスカートになじんでいることに複雑な思いを抱いたが、潮音にまでそのような表情をされると、暁子ももはや観念するしかなかった。
一旦隣の部屋に移った暁子がしばらくしてワンピースに着替えて出てくると、優菜は嬉しそうに声をあげた。
「アッコ、そういう服も似合うやん。かわいいよ」
「暁子ももっと自信持てばいいのに」
潮音に言われても、暁子ははにかみ気味の表情を崩そうとしなかった。
そしてそのまま潮音たちは荷物の整理を終えると、一登の運転する車に乗り込んだ。一登の家族も家の前で潮音たちを見送ったが、智也はいつまでも玄関先で車を見送りながら名残惜しそうに手を振っていた。優菜も智也と別れてからしばらくたった後も、どこか寂しそうにしていた。
「やっぱり智也くんってかわいかったわあ」
潮音はそのような優菜の様子にいささか呆れながらも、自分と公園でキャッチボールをしたときの智也の楽しそうな表情を思い出していた。
「智也も潮音や優菜と仲良くなれて良かったよ」
その二人の様子には、暁子もいささかほっとした表情をしていた。
それからしばらくの間、潮音たちは一登の車で島の中の名所を見て回った。島内にも瀬戸内海に浮かぶたくさんの島々や島を結ぶ橋を見下ろす展望スポットや、春の花々で彩られた公園があり、潮音たちも春の霞がかかった、陽光を浴びてキラキラ輝く青い海に見入っていた。最初は慣れないワンピースに浮かない表情をしていた暁子も、そのような風景を眺めているうちにいつしか表情に笑顔が浮んでいた。そしてひととおり島内の名所を見て回ると、一登は潮音たちを島の名物のお好み焼き屋に案内した。
潮音たちがお好み焼きのボリュームを堪能した後、車は橋を渡って隣の島に向かった。車は橋を渡り終えると、しばらく海沿いの道路を走った。そして潮音たちは立派な構えの寺やその境内につくられた大理石造りの庭園を見て回ったり、島の名物のレモン味のジェラートを味わったりした。
そこからさらに車は西に向かうと、「サンセットビーチ」と呼ばれる海岸の駐車場に停まった。
潮音たち三人は車を降りると、そのまま砂浜へと駆け出した。しかしそこで暁子は、海からの風でワンピースがはためくのに気がついて、はっとスカートの裾を押さえていた。
その仕草を見て、潮音は一瞬はっと息をつかされた。
「暁子…その仕草めちゃくちゃかわいい」
潮音に言われて、暁子は複雑そうな表情をしていた。
「潮音…今まであたしに対して『かわいい』なんて言ってくれたことなんかなかったのに」
「ほんとにそう思ったんだからいいだろ」
「アッコも素直やないな。潮音がせっかくそう言ってくれとるのやから、喜べばいいのに」
「でも変だよね…オレはこういう立場になってからの方が、むしろ暁子のことを女として強く認識するようになったんだ」
そのとき暁子は、一瞬どきりとしたそぶりを見せた。
「どういう意味よ。それまでは女に見えなかったというわけ?」
暁子はむっつりしている。
「いや暁子…オレはこうなってみて、はじめて暁子のことも、暁子の気持ちもわかるようになったような気がするんだ。…ねえ暁子、オレがこんなに暁子や優菜のそばにいたいと思うのは、やはりオレが女だから?」
潮音にまじまじと見つめられて、暁子も当惑の色を浮かべた。
「…そんなこと、いちいち気にしない方がいいよ。それにあんたこそ、なぜ女になってもそんなにかわいいんだと思う?」
その暁子の言葉に、潮音は意表をつかれた気がした。
「あんたって男の子だったときから、どっちかというとスマートで優しい感じがしたからね。それにあんたはいつも憎まれ口ばかり叩いているけど、根はあたしのこと考えてくれてるってことくらいわかってたし。優菜もあんたのそんなとこ見てて、あんたのこと好きになったんじゃないかな」
「バカ…本気で言ってるのかよ、暁子」
潮音はただただ照れくさそうにしていた。しかし暁子は潮音を目の前にしても、とりすました態度を崩さなかった。
「あたしがウソや冗談でこんなこと言うわけないでしょ。そりゃあたしだってあんたが女の子になったことに戸惑ってる気持ちはあるけど、今こうしてあんたと一緒にいると、やはりあんたはあんただなって思うんだ」
「…それってほめてるのかよ。オレなんて、優菜にも何もしてやれなかったし。優菜は小学校のときからずっと一緒だったのに、その優菜から告白されて、少し戸惑ってるんだ」
その潮音の言葉には、優菜も顔を赤らめていた。潮音がふとため息をつくのを見て、暁子は潮音にそっと声をかけた。
「そうやって優菜のこと考えるとこが、あんたの優しいとこじゃない。…それに優菜だって、中学入ったばかりのころは受験がだめで落ち込んでたのに、中学の三年間でだいぶ明るく前向きになったと思うよ。でも潮音…ほんとにそれでいいの? 男の子に戻りたいとか思わないの?」
「それは自分でもわかんない。でも今は、今の自分から目を背けずにそれをしっかり生きるしかないんだ。それには男も女も関係ないってことに気づいたんだ」
「潮音…あんたってえらいよ」
「いいんだ…暁子、それに優菜。オレはただ、今の自分のできることやしなきゃいけないことをやってるだけだよ。悩んでるのはオレだけじゃないんだし。それにもし暁子や優菜、そのほかのみんながいなかったら、今でもずっと部屋にこもっているしかなかったと思うから…」
潮音がそこまで言うと、暁子と優菜は二人で潮音の背を押して波打ち際まで連れ出した。その波打ち際には、穏やかなさざ波が打ち寄せていた。
「潮音、あんたがいきなり女の子になっちゃって苦しんでたときには、あたしがなんとかしてあんたのことを助けてあげなきゃと思ってたんだ。でもあんたがそうやってがんばってるとこ見てると、あたしの方こそあんたからいろんなこと教わる側じゃないかって気がするようになったの。でもあんた見てると不安になるんだ。すごく無理して気張ってるんじゃないかってね」
暁子はそう言いながら、目の前に広がる青い瀬戸内海、そしてその彼方に見える島影をじっと見つめた。
「これからも何かあったら、無理したりくよくよ悩んでたりしないで、なんでも言ってきてよ。あんたとはこれからも自然につきあえるようになりたいんだ。だから今では、あんたと同じ高校入れてよかったと思ってるよ」
「ありがとう…暁子」
「あの…私も一緒の高校行くから、そのときはよろしゅうな」
「あたしたち三人、高校行ってからもずっと友達でいようね」
そして三人は、波打ち際で円陣を組んでそれぞれの手のひらを重ねた。
それからしばらく三人は、西日が照らす海やその彼方に連なる島影をじっと見つめていた。潮音が時折ちらりと暁子や優菜の横顔に目を向けると、二人の顔は春のうららかな日差しを浴びて、かすかに明るく輝いているように見えた。潮音はそのまま暁子の髪やワンピースが潮風でかすかにはためくのを眺めながら、自分がこれまで抱いていた暁子のイメージが変っていくのに戸惑っていた。
そこで一登が声をかけてきた。
「そろそろ戻らないと、三原に行く船の時間に間に合わなくなるよ」
「今度この浜辺に行くときには、夏に海水浴に行こな」
優菜がそう言うのを聞いて、そのときは自分も水着、しかも自分が持っている競泳用の水着ではなく、もっとおしゃれな水着を着ることになるかもしれないと思うと、少しぞくりとした。
そこで三人は名残惜しそうに浜辺を立ち去ると、島の港で一登にさよならのあいさつと、世話になったお礼をした。三人は船に乗り込むと、島影や彼方に見える橋が小さくなっていき、海面にカモメが舞うのを窓からじっと見ていた。
船は島の間をすり抜けるようにして波をかき分け、夕凪の海を抜けると、すぐに三原の港に着いた。港から新幹線の駅までは歩いてすぐだったので、そこから三人は新幹線で帰途についた。帰りの新幹線の中では、潮音たち三人もいささか疲れ気味だった。
新幹線が西明石に着くころには、外はもう暗くなっていたので、三人で駅まで則子に迎えに来てもらった。則子も潮音たちが満足そうな表情をしていることに、安堵の色を浮かべていた。
則子はハンドルを握りながら言った。
「綾乃が迎えに行くと言ったけど、あの子にまだこんな暗い道運転させるのは危ないから私が来たの」
潮音はここでまた、綾乃の運転する自動車に乗せられたかもしれないと思うと背筋が縮こまるような思いがした。
さらに則子は言葉を継いだ。
「あと今日湯川さんの一家が隣に引越してきたのよ。まだ引っ越し荷物もほどけていないと思うけど、潮音もそのうちにでもあいさつに行ってきたら」
潮音は昇の表情を思い出して、いささか面映さを感じていた。
そして車は優菜の家の前で優菜を下ろすと、潮音と暁子の家の前に着いた。暁子が自宅に戻ると、出迎えた久美や栄介も暁子のワンピース姿に目を丸くしていたが、そのときの久美の表情はどこか嬉しそうだった。しかし暁子は、そのような久美の視線を感じてげんなりとした表情を浮かべていた。
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