第六章・冬の終り(その5)

 その翌朝潮音が目を覚ますと、窓の外では朝の澄んだ陽光が港町の路地を照らしていた。潮音が布団から起き上がっても、暁子と優菜はまだぐっすり眠っていて起きそうにない。


 潮音はやれやれと思って旅行カバンを開けると、その中からパーカーと膝丈までのカーゴパンツを取り出した。そしてスウェットスーツを脱いで服を着替え、階段の下まで降りるとすでに睦美が朝食の準備をしていた。


 睦美は潮音が昨日の服とは打って変ったラフな装いをしていることに目を丸くしたが、そこで潮音に声をかけた。


「朝ごはんまで少し時間あるから、ちょっと港のあたりまで散歩してこない? 島の朝は気持ちいいよ」


 潮音が髪のセットを終えて外に出ると、この日も春の空は晴れわたっていた。潮音が睦美に言われた通りに坂道を降りで路地を抜け、港に向かうと目の前には、朝の光を浴びて輝く青く澄んだ海峡と、その彼方に連なるいくつもの島々が広がった。潮音は胸いっぱいに、朝の澄んだ潮風を吸い込みながら、その光景に見とれていた。


 ふと背後で声がしたので潮音が振り向いてみると、暁子と優菜が立っていた。


「潮音、目が覚めたらあんたがいないから、どうしたのかと思ってたらこんなとこにいたんだ」


「やっぱここは朝の風がめっちゃ気持ちええな」


「それに海の色がすごく澄んでいてきれい」


 潮音たち三人は、しばらくそのまま港に佇んで、海面にカモメの舞う朝の光の照らす海峡をじっと眺めていた。そして三人が暁子の祖父の家に戻ると、一登の家族たちもすでに朝食の席についていた。



 その日は潮音と優菜は、暁子の伯父の家族と一緒に自動車で島の北側にある、海峡に架けられた大きな吊橋のたもとにある海辺の公園に行き、そこでバーベキューを楽しんだ。


 しかしそこで、肉を食べている潮音に暁子が口をはさんだ。


「ちょっと潮音、さっきあたしが焼いてた肉取ろうとしたでしょ」


「すまなかったな」


「それに潮音、そんなに肉ばかりがつがつ食べてると太るよ」


「ほっといてよ。水泳部にいたころは、練習終ると腹が減ったからけっこう食べてたんだから」


「それにあんた、野菜も食べないと栄養のバランス偏るよ」


「いちいちうるさいな」


 そのような潮音と暁子の様子を見て、睦美もくすくす笑っていた。


「暁子ちゃんと藤坂さんだっけ、この二人ってほんと仲いいのね。暁子ちゃんの方がいろいろ世話焼いてるような感じだけど」


「気にせんといて下さい。この二人は前からこんなんやから。それにアッコがこんなに世話焼きのは、やはり家で栄介ちゃんの面倒見てたからですね」


 優菜も半ばあきれ顔でその二人を眺めていた。


 バーベキューが一段落すると、潮音はさっそく智也を誘って、一登の持ってきたグローブを左手にはめた。智也もグローブをはめると、二人はさっそく公園の芝生で、軽くキャッチボールを始めた。


 智也は最初こそ、自分よりも年上の女の子とキャッチボールをすることにいささか緊張しているようで、投球のコントロールも定まらなかった。


「もっと遠慮しないで投げるといいよ」


 そしてしばらくキャッチボールを繰り返すうちに、智也の表情も落ち着いてきた。


「けっこういい投球のセンスしてるじゃん。これじゃあもっと練習したらレギュラーにだってなれるよ」


「いや、みんなぼくよりもっとうまいから…お姉ちゃんこそ野球うまいじゃん」


「そんなことないよ。たしかに中学では水泳部だったけど」


 潮音はキャッチボールをしながら、祖父の敦義の家に行ったときには敦義とこうやってキャッチボールをして遊んだこともあったことを思い出していた。


 そのまま二人はキャッチボールを続けながら、好きな野球のチームや選手などの話をした。最初は人見知りしていた智也が潮音と親しげに話をしている様子を見て、一登や睦美もほっとした表情をしていた。


 やがてキャッチボールが一段落すると、潮音と智也は芝生に腰を下ろし、海峡に架かる大きな吊橋を見上げながら話を始めた。


「お姉ちゃんって、女なのにずいぶん野球に詳しいんだね」


「女が野球に詳しくて悪い?」


 そこで智也は、申し訳なさそうに口をつぐんだ。


「智也くんって、どうして野球をしようと思ったの?」


 智也は最初、どう答えていいのか困っているようだったが、しばらくして重い口を開いた。


「…友達にも野球やってる子けっこういたし、お父さんにも勧められたからだけど、練習しても全然うまくならないし、それで友達にバカにされることもあるし…」


 そこで潮音は、智也の顔をまじまじと見て言った。


「…やっぱり、強くなりたいと思うんだ」


 智也は黙ったまま、こくりとうなづいた。


 その智也の表情を見て、潮音はさらに言葉を継いだ。


「智也くんがそう思うのは当然のことだよ。…でも『強い』というのはただスポーツがうまいとか試合に勝つとか、そんなことじゃないんだ。ほんとの強さっていうのは、どんなつらい目にあってもくじけないこと、自分の正しいと思った信念を守り抜くこと…そういうことじゃないかな。…そう思うと、智也くんが野球やる元気も出るんじゃないかな」


 そして潮音は、大きな吊橋を見上げながら言った。


「私、さっき中学で水泳部にいたって言ったよね。でもそれだって、大会に出られたとか賞を取ったとか、そんなわけじゃないんだ。でも少し前、自分はある事情で泳げなくなったことがあった。でも自分は水泳部で仲間と一緒に頑張った…その経験があったからそれを乗り切ることができたと思うんだ」


 智也は黙ったままだったが、それでも潮音の言葉は智也の心の中で何かを動かしたようだった。しばらくして智也が口を開いた。


「ぼく…いつか潮音お姉ちゃんのいる神戸に行ってみたいな。そしたらまたキャッチボールしようね」


「ああ。もちろんだよ」


 二人が親しげに話すのを、暁子と優菜もじっと眺めていた。


「やっぱり潮音の方が男の子の相手するのうまいよね。人見知りしおった智也君も今ではすっかり打ち解けとるやん」


 優菜もどこか感慨深そうに話していた。


 潮音たちは公園の近くの店で、島名産のはっさくの入ったお菓子をお土産用に買いこんだ。そしてみんなで車に乗って暁子の実家に戻るころには、智也も潮音と打ち解けていろいろなことを話していた。しかし智也は心の底では、潮音はどこか暁子や優菜とは違った、男の子のような雰囲気が漂っていると直感的に感じているようだった。その不思議な感触が、智也の心をより戸惑わせていた。


 その日の晩も潮音たちは暁子や優菜とゲームに興じたが、その場に交じる智也の表情もより自然なものになっていた。


智也が潮音と遊んでいるのを見て、優菜はふと言葉を漏らしていた。


「なんか智也くんは、潮音とすっかり仲ようなったな」


そこで暁子が、こっそり優菜に耳打ちした。


「優菜、智也は潮音に対して、どこか『お姉ちゃん』というより『お兄ちゃん』に近いようなものを感じてるんじゃないかな」


 暁子に言われて、優菜も黙ったまま潮音と智也が遊ぶのを眺めていた。

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