第六章・冬の終り(その4)

 潮音たちが服を着終って銭湯を出ると、春の日は暮れかけて宵闇が漂い、街灯がぽつりぽつりとともり始めていた。潮音たちが港町の古びた路地を抜けて暁子の祖父の家に戻ると、すでに夕食の準備はできていて、ちゃぶ台の上に瀬戸内海でとれた魚の刺身をはじめとする様々な料理が並んでいた。


 暁子の祖父は島の造船所で働いてきた、いかにも海の男といった感じの豪放な人で、ビールのグラスを片手に潮音や優菜に対しても気さくに話しかけてきた。


「暁子のこんなかわいい友達二人と一緒なら、栄介も来ればよかったのに。でも二人とも夏にまた海水浴に来ればいいよ」


「私も夏になったらこの島の海に泳ぎに行きたいですね。それにこの魚、めっちゃおいしいです」


 優菜も場の雰囲気にすっかり打ち解けて、暁子の祖父とも気さくに話している。


「この島はお好み焼きが名物でね。帰る前に店に連れてってあげるよ」


「暁子ちゃんのお友達は神戸に住んでるんでしょ? 私も神戸に行ったことあるけどおしゃれな感じの街よね。どうりでお友達もずいぶんおしゃれじゃない」


 暁子の祖母はどこか穏やかな感じの人だったが、いったん打ち解けると潮音と優菜にも親しげに話をした。そこから神戸の話や潮音たちの学校の話など、いろいろな話題で食卓は盛り上がった。


「明日は島の海辺にある公園でバーベキューをするからね」


 一登が言うと、優菜と潮音も楽しみそうな表情を浮かべた。


 しかしそこでも、智也はいまいち話に乗れなさそうにしていた。そのような智也の様子を見て、睦美がため息交じりに口を開いた。


「智也はどっちかというと内気で人見知りする子でね。そう思ってお父さんが野球をするように勧めたんだけど、なかなかレギュラーになれなくて悩んでるみたい」


 睦美の話を聞きながら、潮音は自分が男の子だった頃のことを思い出していた。自分もやはり、智也と同じ頃には弱虫で引っ込み思案だった自分を変えたいと思っていたからだった。そこで潮音は、思いきって智也に声をかけてみた。


「明日みんなで公園に行くというから、ちょっとキャッチボールでもしない? もう一つグローブないかな」


潮音が親しげに話しかけてきたのを聞いて、智也は少し意外そうな表情で潮音の顔を見返した。そのような智也の様子を見て、父親の一登も嬉しそうにしていた。


「よかったな、智也。一緒にキャッチボールしようと言ってくれるお姉さんがいて」


 父親の一登に言われると、智也は恥ずかしそうに照れていた。食卓にいたみんなは、笑顔で智也に顔を向けた。


 夕食が済むと、潮音は二階に上がり、服を寝間着代わりのスウェットスーツに着替えた。暁子と優菜もパジャマに着替えたが、暁子がシンプルなデザインのパジャマだったのに対し、優菜はフリルの飾りのするかわいい感じのパジャマだった。


 それから三人は、智也を誘ってしばらくゲームに興じた。最初は人見知りしていた智也も、ゲームが進むにつれていつしか少し顔をほころばせていた。



 島の夜が更けるのは早い。九時を過ぎて智也が床についてからも、優菜は二階の和室の窓から身を乗り出して、闇に沈む島影や、ぽつりと灯る漁船や灯台の明かりを眺めていた。


「なんかここって夜になるとめっちゃ静かやな。でも星がこんなにようさん見えてきれいやん」


 優菜の言葉につられて、暁子と潮音も夜空を見上げた。静かに波打つ夜の海や島影の上には、見渡す限りいくつもの星がきらめいていた。


「夏にここに来たときには、海水浴の後で夜になると海岸で花火をしたんだよ」


 三人が窓辺から部屋に戻ると、しばらくゲームを楽しんだりおしゃべりに花を咲かせたりした後で、優菜がふと息をつきながら口を開いた。


「それにしても意外やわ。潮音とこんな形で一緒に旅行することになるなんて」


 潮音ももし自分が男のままだったら、暁子や優菜と一緒にこのような形で旅行に行くことなど絶対なかったに違いないと思うと、あらためて自分を見舞った運命の不思議さをかみしめていた。


「あの…暁子や優菜ってもしかして、オレが女になって嬉しいとか思っていない」


「それはわからへんね…前にも言うたやろ。私は男の子やったころの潮音も好きやったって。告白もできへんうちに潮音が女の子になってしまうなんてという思いもたしかにあるよ。…それに私も前からわかっとったよ。潮音が尾上さんのこと好きやったということに。…そりゃ尾上さんは美人やし成績かてええし、男子が好きになるのはわかるよ」


「でもオレ、尾上さんが椎名とつきあっていたことなんて十分わかってたんだ。…それに椎名は水泳で強化選手になるという目標のために、だいぶいろんなプレッシャーに耐えていると思うんだ。だからこそ尾上さんには、南稜でしっかり椎名を支えていてほしいんだ。…それにオレだって、いくら尾上さんが椎名のこと好きだとわかっていても、心の奥ではあきらめきれなかった。これできっぱり、わだかまりがなくなってよかったのかもしれない」


 そこで暁子が、強い口調で口をはさんだ。


「いいかげんにそうやって、一人でウジウジと悩むのよしてよ。あんたはあんたなんだから、あんたらしくしてりゃいいじゃん」


「だったら暁子、その『あんたらしく』っていったい何だよ。オレはこうなってしまって、その『自分らしさ』がみんなパーになっちゃったような気がして、ますますどうしたらいいかわからなくなったんだ。それでも『自分らしくしてりゃいい』なんて、そんな言い草こそが無責任じゃないか」


 潮音が言い返すのを聞いて、はたで聞いていた優菜も息をのんだ。暁子が黙っている中で、潮音はさらに言葉を継いでいた。


「そんな甘っちょろい同情や、うわべだけの優しい言葉なんかくその役にも立ちゃしないんだ。自分らしさがどうのなんて、そんなことばかりうだうだ考えてるよりも先に、オレは今できることをやるしかないんだ。たしかにオレはこうなってつらい思いだってしたよ。でもそのつらさから逃げたところには何もない、ただつらいつらいと言ってるだけじゃ何も始まらないってわかったんだ」


 しかし潮音がここまで言ったとき、暁子はクスクス笑っていた。


「何がおかしいんだよ、暁子。人がシリアスになってるときに」


「そこがいちばんあんたらしいんだよ。意地っ張りで強情で、まっすぐだけど不器用で、変にかっこつけちゃって」


 そう言って暁子は、そばにあった枕を潮音に投げつけた。


「何すんだよ、暁子」


「あたしはあんたのそういうとこが好きだけど、それでもあんた見てるとなんか危なっかしくて放っておけないところがあるから、今まで一緒にいたんだ。でも無理しないで、何でもあたしにも優菜にも言えばいいよ。それが友達ってものでしょ? 男とか女とか、そんなの関係ないじゃん。ともかくこういうときは、枕投げでもしていやなことなんかパーッと忘れない?」


「よっしゃ。やったな暁子」


 そこで潮音は、暁子に枕を投げ返した。そこに優菜も加わって枕投げが始まると、しばらくして睦美が目をいからせて二階に上がってきた。


「こら。あまり遅くまで騒ぐんじゃないの。智也だって寝てるんだから」


「…すいません」


 睦美に注意されて、さすがに暁子も申し訳なさそうにしている。


「昼間尾道の坂道を歩いて疲れたし、もうそろそろ寝ようか」


 暁子はそう言って、電灯のひもに手をかけた。潮音は暁子や優菜と一緒の部屋で布団を並べて寝ることにはじめこそ緊張しながら、古い和室の暗い天井を見つめていたが、やがて眠気に襲われて布団の中で眠りに落ちていった。

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