第六章・冬の終り(その2)

 そして一行は、古い家並を抜けて千光寺に上がるロープウェーの乗場に着いた。ロープウェーのゴンドラが高度を上げていくにつれて、海辺に広がる尾道の街並みが見る見るうちに小さくなって、潮音たちの眼下に広がり出した。


 やがてロープウェーが山上に着き、展望台から見下ろすと、尾道の街の向こうには瀬戸内海がうららかな春の光を浴びてキラキラと輝き、尾道と向島の間の海峡に架かる尾道大橋、さらにその彼方にはかすかに春霞のかかった島々も一望できた。展望台の眼下に広がる千光寺公園では、桜の開花がぽつりぽつりと始まっていて、その薄紅色の花の鮮やかさが海の青さと絶妙な対照を見せ、風景により彩りを添えていた。その素晴らしい眺望に、潮音たちはあらためて目を奪われていた。


 潮音はあらためて尾道の街や瀬戸内海を見下ろしながら、春の陽光を体いっぱいに浴びた。かすかにそよぐ、まだちょっぴり冷たさの残る春風が頬を撫で、スカートの生地や髪をかすかに揺らす感触も、潮音の感情をますます高ぶらせた。


 その潮音の表情を見て、さっそく優菜が潮音に声をかけた。


「潮音…楽しそうやね。潮音がそんな表情しとるの見るの久しぶりやわ」


 そのように話す優菜の表情は、どこか安心したようだった。


「潮音って女の子になって以来、学ラン着ててもずっと何か思い詰めたような、落ち着きのない険しい表情してたもんね」


 暁子にまで言われて、潮音はいささか気後れがした。そしてそのまま、潮音は暁子や優菜と三人で一緒になって、一登にシャッターを押してもらって、瀬戸内海の島々をバックに笑顔で記念写真を撮った。そこから「文学のこみち」と呼ばれる坂を下りて岩場の上に建てられた千光寺の境内に入ると、三人でおみくじを引いてその結果を見せ合ったりもした。


 そして潮音たちが千光寺公園に移動すると、暁子や優菜はつぼみがふくらみ始めたばかりの桜並木に見入っていた。しかしそこで、潮音は優菜の着ている、ブラウスにシフォンのスカートという装いに目を向けていた。その服装で桜の花に見入っている優菜の姿を見ながら、潮音はあらためて、自分もこのような女の子の装いをすることで、桜の花に向けるまなざしも変ってくるのだろうかと感じていた。


 そこから潮音たちは、古い家並の間を抜ける石畳の急な坂道を歩いて降りて行った。その家並の隙間からのぞく、穏やかな瀬戸内海の眺望は、より鮮やかに見えた。


「たしかに眺めはええけど、こんな町住んだら坂道きつうて大変そうやな」


 優菜はこう言っていたが、潮音はこの古い家並の続く狭い路地がまるで魔法の迷路のように思えていた。潮音はその路地を抜けるうちに、自分でもわからないような感情が高まってくるのを感じていた。



 そして潮音たちが一登の運転する自動車に再び乗り込むと、自動車は海岸にあるフェリーの船着場に向かった。


「尾道と向島の間には橋もあるけど、尾道の街の中心に行くにはこの方が手軽だからね」


 一登はこのように言って、車をフェリーの中に乗せた。しかしフェリーが、尾道の桟橋を離れてからわずか五分ほどで対岸に着いてしまったのには潮音たちもいささか拍子抜けした。


 そのまま潮音たちを乗せた自動車はフェリーを降りると、島の名物のチョコレート工場に立ち寄った。暁子や優菜はさっそくカラフルな包装のチョコレートを買い求めていたが、潮音もやはり女の子って甘いものに目がないのかなと思いながら、それにつられるように綾乃へのおみやげとしてチョコレートを買い求めた。


 チョコレート工場のカフェスペースで瀬戸内海を見ながら一服した後で、車は暁子の祖父の家のある島へと向かった。そのころはすでに春の陽も西に傾きつつあったが、車が海峡に架けられた大きな吊橋を渡るときには、潮音たちも眼下に見える海が青く澄んでいるのに思わず見入ってしまった。


 やがて一登の運転する車は高速道路を降りると、山と海に挟まれて古い家のびっしり建ち並ぶ、島のいちばん大きな町の中にある暁子の祖父の家に着いた。この家は港から少し坂道を上がったところにある、どっしりとした構えの旧家で、暁子の祖父母や伯母たちも玄関口で潮音や優菜を快く迎えてくれた。立派な構えの玄関には、造船所の進水式の写真がいくつも飾られていた。


 ちょうどそのとき、野球のユニフォームを着てバットのグローブを手にした小学生の男の子が、玄関に入ってきた。この男の子は潮音と優菜の姿を目にすると、表情に戸惑いの色を浮かべた。


「この子は私のいとこで、智也っていうんだよ。今度小学五年生になるんだ」


 そう言って暁子は、智也にも潮音と優菜を紹介した。


「この子がアッコのいとこ? めっちゃかわいいやん」


 優菜はまだあどけなさを残した智也の顔を見て素っ頓狂な声を上げたが、そのような優菜の態度を前にして智也は気恥ずかしそうにもじもじしていた。そこで潮音が智也に声をかけた。


「智也君だっけ? 野球やってるんだ」


 潮音の声に、智也はこくりとうなづいたものの、なかなか緊張の色を解こうとしなかった。


 そこでそばにいた、暁子の伯母の石川睦美がため息交じりに口を開いた。


「ほんとに智也って恥ずかしがり屋なんだから。この子は暁子ちゃんくらいの年の女の子とつきあったことないから、緊張してるんじゃないかしら」


 潮音はとりわけ、智也の人見知りするような様子が気になっていた。


 そこで潮音と優菜は睦美に、急な階段を上がった二階の広間へと通された。広い和室の窓からも、海岸沿いに建つ造船所やフェリーの桟橋、さらにその彼方にいくつもの島影が浮ぶ瀬戸内海が一望できた。瀬戸内海の彼方に広がる空が暮色を増し、日が傾いてオレンジ色に染まった光が海面を照らしてキラキラと輝き、島のシルエットが濃くなっていきその間を船が行き交う姿に、潮音と優菜も窓から身を乗り出しながら思わず見入っていた。


 それからしばらくして、潮音と優菜が部屋の雰囲気になじんだ頃になって、睦美が声をかけてきた。


「これからみんなでお風呂入るのも大変だから、街の中にあるお風呂屋さんに行って来たら。その間に夕ご飯用意しとくよ」


 その声を聞いて、潮音はどきりとした。こうなると自分は当然女湯に入ることになるのかと思ったからだった。

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