第六章・冬の終り(その1)

 三月も半ばを過ぎると、部屋の中に差し込む光もだいぶ明るさを増してくる。その部屋の中で、潮音は旅行カバンを前に荷物を整えていた。


 卒業式のすぐ後、広島県のしまなみ海道で結ばれた島にある暁子の父の実家に、潮音と優菜も来ないかと暁子から誘いを受けたのだった。雄一は中学校を卒業したばかりの女の子三人だけの旅行にあまりいい顔をしなかったが、綾乃になだめられてようやく旅行に行くことを認めてもらった。


 そのとき、ドアの向こうから綾乃の声がした。


「どう潮音、準備はかどってる?」


 そう言いながら綾乃は、潮音の部屋に入ってきた。


「ああ。姉ちゃんが女の子の旅行の持ち物について一通り教えてくれたおかげで、だいぶはかどったよ。でもどんな服を着て行けばいいか困っててさ」


「そんなの気にしないで、あんたの着たい服着て行けばいいじゃん。旅行するんだったら、身軽で動きやすい服が一番だよ。なんだったら私の服貸してあげてもいいけど」


 そして綾乃は、潮音を自分の部屋に通した。


 潮音は綾乃のクローゼットの中の服に目を配っているうちに、少し前に綾乃や流風と一緒に海岸に行ったときに着て行った、裾にフリルをあしらったマーメイドラインのフレアスカートに目を留めた。


「どうやらあんたは、このスカートが気に入ったみたいね」


 綾乃はそう言って、そのスカートに似合うような春らしい軽快な装いのトップスを選んだ。


「いろいろ服持ってかなきゃいけないんだから、女の旅行の支度って大変だよな」


「でもそのわりには、あんたも楽しそうじゃない」


 このようにして見る限りは、潮音と綾乃は仲のいい姉妹のようだった。



 その翌朝、空は晴れ渡って春の澄んだ陽光が街を照らしていた。潮音はマーメイドラインのスカートをはき、春らしい軽快なトップスの上にはボレロのカーディガンを羽織り、スニーカーをおしゃれにした感じの靴をはいて暁子の家の門の前に姿を現した。


 その潮音の装いには、暁子と優菜もいささか驚いていた。


「潮音…その服かわいいじゃん」


 そう言う暁子はロゴの入った長袖のTシャツの上に白いデニムのジャケットを羽織り、ボトムはパンツという快活な装いだが、優菜は淡いトーンのブラウスにシフォンのスカートという落ち着いたファッションに身を包んで、キャリーバッグを手にしている。


「優菜だって十分かわいいかっこしてると思うけど」


 潮音に「かわいい」と言われて、優菜はかすかに顔を赤らめた。


 そして三人はそのまま最寄りの駅から電車に乗り、西明石駅で新幹線に乗り換えると、三人掛けの座席に並んで腰を下ろした。


「アッコは島にあるおじいちゃんの家にはよく行っとるんやろ?」


「ああ、小学生のころは夏休みにいつもおじいちゃんちに行ってたんだ。そのときはおじいちゃんの家に着くと、そのまま荷物を置いて海水浴に行ったりもしたよ。去年一年間は受験で行けなかったからね」


「今回栄介ちゃんは一緒とちゃうの?」


「栄介は春休みでもサッカーの練習があるとか言ってたけど…優菜や潮音と一緒じゃ行きづらいんじゃないかな」


「遠慮せえへんでもいいのに」


 暁子は新幹線に乗ったときから、すっかり旅行気分になって、お菓子を口にしながら優菜と快活におしゃべりを楽しんでいる。しかしその隣の席で、潮音はどこかよそよそしそうな表情をしていた。


「どうしたの? 潮音もせっかくの旅行なんだから、もっと楽しそうにすればいいのに」


「いや…オレが女としてこうやって外出することって今まであまりなかったなって、あらためて気づいたんだ。髪もバッサリ切って、学校行くときだって胸潰して学ラン着てたわけだし…」


 そのように言う潮音も、今は長く伸びた髪をまとめてポニーテールにし、胸ももはやナベシャツで隠したりせずにふくよかな曲線を描いている。潮音はもし、今でも自分が髪をベリーショートにして、ナベシャツで男装していたら、周囲からはどのように見られているだろうとふと考えていた。


「でも潮音、あんたが今日こんな服着てくるなんて思わなかったよ」


 そう言う暁子の声は、どこかため息混じりだった。


「いや…実を言うと今のオレは女の服着てスカートはくのはそんなにいやじゃないんだ。たしかにオレ…退院したばかりのころはスカートなんか絶対はくもんかと思ってたけど…今ではむしろ、男だった頃は着られなかった服を着られるようになって、かえって自由になれたようにさえ思うんだ。女がなぜ服やおしゃれに気を使うのか、その気持ちだったわかるようになったし。そりゃ椎名みたいなマッチョがスカートはきたいと言ったら、やめろと言うけどね」


「あんたっていい根性してるよ」


 そこで暁子は、またため息をついた。そこで優菜が口をはさんだ。


「そんなん気にすることないやん。せっかくアッコが誘ってくれたんやから、いやなことなんか忘れて、パーっと楽しもうよ」


「でも暁子、本当にありがとう。オレはこのところずっと暁子に世話になりっぱなしでさ…今回だって暁子の親戚の家まで誘ってくれて。優菜だってあのとき一緒にプールに泳ぎに行ってくれなかったら、今日こうしてこんな風に旅行することなんかできなかったよ」


「だからそんなことなんか気にすることないって」


 暁子の屈託のない態度に、潮音もかすかに顔をほころばせた。



 潮音たちが新幹線を新尾道駅で降りると、駅前に一台の自動車が待っていた。自動車のそばで待っていたのは暁子の伯父の石川一登だった。暁子は一登と親しげに会話を交わすと、潮音と優菜を自動車の後部席に乗せた。


 自動車はそのまま、尾道の街の北のはずれにある新尾道駅から街の中心へと向かった。車の中で優菜と潮音が一登に簡単に自己紹介を済ませてからは、一登も屈託なく優菜や潮音に対しても、暁子の実家のある島はミカンやはっさくなどの柑橘類の栽培と造船が主な産業で、夏には戦国時代の水軍を模した祭りがあること、近年はしまなみ海道を自転車で渡るサイクリストが増えていることなど、気さくにいろいろな話をしてくれた。しかしそのときも、潮音は自分を女の子として紹介することに多少の後ろめたさを感じずにはいられなかった。


 やがて一登は、尾道市内のラーメン店の駐車場に車を停め、みんなで名物の尾道ラーメンの昼食を取った。さらに一登が尾道の街の中心近くの駐車場に車を停めると、潮音たちは古びた店も目につくアーケードの商店街をしばし散策した。


 このレトロな商店街を歩きながら、暁子や優菜は少しおしゃれな感じのする店の店頭に並べられた小物の数々に目を向けていたが、潮音は魔法の街にでも迷い込んだような不思議な感触になった。その商店街から少し抜け出すと、市街地のすぐそばまで海が迫ってフェリーの船着場があり、その川のように狭い海峡の向かい側に島影が大きく見えるのも、潮音にとっては物珍しく感じられた。潮音は海沿いの道を歩きながら、潮風を胸いっぱいに思いきり吸い込んだ。


 このようにして、春の陽光に照らされた古い街並みを歩いているうちに、潮音は今まで心の中に溜まっていたわだかまりが少しづつ解きほぐされていくのを感じていた。潮音が顔を上げると、心の中に小躍りしたくなるようなうきうきとした明るい感情が芽生えつつあった。


 しかしその一方で、潮音の心にはもう一つの感情が起こっていた。通りをすれ違う若い女性たちが着ていたり、服屋の店先に陳列されたりしているおしゃれな感じの服に、どうしても目が行ってしまうのだ。潮音は自分がこのような、男の子だった時には感じたことがないような感触を味わっているのは、今自分が着ているマーメイドスカートのせいかもしれないと感じていた。

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