第五章・卒業式(その4)

 自らの身体を全ての拘束から解き放つと、潮音は足元が崩れて、その姿のままで何もない虚空の中へと放り出されたかのような心もとなさを覚えた。薄紅色の着物の前に全てをさらけ出すと、その繊細な生地に心の奥までそっとなでられるかのような感じがして、ぞくりと身が縮こまるような思いがした。潮音は思わず手で胸と股間を覆って肩をすくめ、体をこわばらせて両足を固く閉ざした。


──こわい…。自分が自分じゃないような気がする。


 潮音の心臓の動悸はますます激しくなって、その音が耳の奥にまで届きそうな気がした。そればかりか、薄暗い大広間のしっとりとした湿気を含んだ、しんとした冷気が素肌全体にまとわりつくかのような気がして、全身に鳥肌が立つのを覚えた。周りにちらりと目をやると、畳の上に広がる脱ぎ散らかした黒い学生服が、あたかも影のように自分の足元でうごめいているように感じた。そして思わず脚を固く閉ざすと、すべすべした両腿が触れあう感触までもが、潮音の心の奥底にまでひたひたと迫ってくるような感じがした。潮音は両足のつま先から、ぞくぞくするような震えがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。


 潮音はしばらく目を伏せて、胸の中で荒れ狂う激情を抑えようとした。まるで時間が止まってしまったかのような、しんと静まり返った薄暗い広間の中では、かすかに外から聞こえてくる雨音だけが、潮音の研ぎ澄まされた心の奥にまで響いてくるような感じがした。


 ようやく心に落ち着きが戻ってくると、潮音は徐々に目を上げて古い姿見の中の自分に向き合った。


 しかしあらためて鏡で自分のありのままの姿を目の当りにしたとき、潮音はあらためて息を飲んだ。長く伸びた豊かな黒髪は、自らの色白になった素肌のきめの細かさをより強調していた。そしてそのすべすべした素肌は、薄暗い広間の中でひときわ際立った香気を放っていた。


 潮音はゆっくりと、自分の手を胸から離してみた。しかしこうしてみると、潮音はさえぎるものもなく、鏡のまん中で存在感を示している、そのつんとわずかばかり上を向いた張りのある両胸から目を離すことができなくなっていた。それはあたかも、まだ初々しい果実のようなみずみずしさと豊潤さをたたえていた。その先にちょこんと乗っている、まるで小さな花のつぼみのようにぽっちりとした、どこかあどけなさも残る桜色をした胸の先に指先でそっと触れてみると、潮音は思わずはっと息をついてしまった。そして下半身に目を移すと、すべすべした素肌が、細めのウエストから盛り上がったヒップ、そして贅肉のない長くてスマートな両足へと、流れるようなラインを描きながらそのまま続いていた。


 もちろん潮音も思春期の少年の常として、性に関することには一通り興味も持っていたし、こっそり隠れてヌードのグラビアを見たことだってある。しかしいざ自分のものとなった女の体は、これまで潮音が想像していたより、またどのようなグラビアより、ずっと気品とたおやかさに満ちあふれていた。


 このような自分のありのままの姿と向き合っているうちに、潮音は体の奥底から今まで感じたことがないような強い力が湧き上がってくるのを感じていた。潮音があらためて自らの手のひらを眺めていると、暖かい血がその細い指の先までも満たしていき、全身に力がみなぎってくるように感じて、拳をぐいと握りしめた。それはあたかも、心の中に張りつめていた氷が溶けて、清冽な水となってとうとうと流れ出したかのようだった。しばらくそのようにしているうちに、鏡の中の自分自身を見つめる潮音の視線も、いつしか落ち着いた穏やかなものへと変っていた。


 そのとき潮音の背後で、廊下を歩く足音がした。潮音があわてて学生服で体を隠すとそっと障子が開いて、そこにはモニカ、そして暁子と優菜が並んで立っていた。


 暁子たちははじめこそ戸口に立ちすくんだまま、潮音の今の姿を前にして目のやり場に困っていた。優菜は潮音の姿を目の前にして、ただ何も言えぬまま困惑の色を示していた。しかし暁子は、潮音の表情をじっと見つめると、そこから先ほどまでのような思いつめた、何かにおびえるかのような様子が消えていたことをしっかり見据えていた。


「ともかくあんた、そのかっこ何とかしてよ」


 暁子が声をあげると、さっそくモニカは潮音に和服を着るのに必要な小物の数々を示してみせた。


 モニカは潮音をあらためてきちんと立たせると、裾よけから長襦袢へと、てきぱきと着物を着せていった。長襦袢のわずかに紅をさした絹地の上から腰紐をぐいと締められたときには、はっと息をつかされる思いがした。潮音ははじめ、昔の女性はこんなに窮屈な着物を着ていたのかと感じたが、自分自身さっきまで胸をナベシャツで押しつぶして窮屈な思いをしていたことを考えると、いささか複雑な気分になった。


「モニカさんって、フィリピンの生れなのにどうして着物の着付けができるの」


「日本の着物はきれいやからね。うちも着られるようになりたいと思って、着付け教室に通ったんよ。いつか流風にも、きれいな着物用意してあげようと思っとるんやけど」


 着物を羽織り、モニカが形を整えていくにつれて、潮音は感情の波がひたひたと高まっていくのを感じていた。着物の上から帯を締めてその上に帯締をとめてから、モニカに「出来たで」と言われたときには、胸の奥の高揚感を抑えることができなかった。


 そのままモニカが潮音を姿見の前に坐らせると、きちんと正座をしていなければならないのに潮音は少々窮屈な思いがした。しかしモニカは、潮音が息をつく間もなく髪を櫛でとかし始め、きちんと着物に似合うように編み上げた。潮音は櫛がデリケートな髪をなでていき、さらにその髪を編み上げられる間、その髪の先の感触までもがより鋭敏になって、心の奥底までもがくすぐられるように感じていた。やがてモニカは、令嬢の遺品であるかんざしを潮音の髪にさした。潮音はその鼈甲でできたかんざしを見て、あらためて人魚姫の話を思い出していた。


 その次にモニカは、潮音の顔にうっすらとナチュラルメイクを施した。その間も潮音は気恥ずかしさで胸がいっぱいになったが、ようやく身支度が終ると潮音は畳の上に脱ぎ散らかした学生服を畳み、そのポケットから貝殻を取り出すと、それを懐に忍ばせた。


 潮音ははじめこそ着物の着心地に窮屈さを感じていたものの、いざ姿見に向き合うと、その着物のあでやかさにあらためて自分でも目を奪われていた。手をそっと動かすだけで、繊細な桜の花模様を織り込んだ振袖ははらりと揺れて、あたかも花びらが春風に舞ったかのように見えた。そのような自分の姿を見ていると、潮音は両目から涙があふれてくるのを抑えることができなくなっていた。


 モニカが手際よく潮音に着物を着せるのを興味深そうに眺めていた暁子と優菜も、潮音が着物に着替え終わってからしばらくの間は潮音に声をかけることができなかった。特に暁子は、今の潮音の姿に動揺を抑えきれない様子だった。


 ようやく潮音の体に着物がなじんできた頃になって、玄関の扉が開く音が聞こえた。潮音の祖父の敦義が家に戻ってきたのだった。そこで潮音は、しっかりとモニカを見据えて言った。


「おじいちゃんを…呼んできて下さい」


 潮音の言葉にモニカは当惑した表情を示したものの、潮音の決然とした表情を見て、モニカも黙ってうなづいた。程なくして、敦義がモニカにつきそわれて広間に入ってきた。


 敦義はいざ着物姿の潮音を目の当たりにすると、最初は驚いて当惑するのみだった。敦義は潮音と視線を合わそうとしないまま、重い口を開いた。


「潮音…あの日わしがお前に土蔵の片づけの手伝いを頼んだりせえへんかったら、お前もそんな風にはならんかったのに。すまん…ほんまにすまん」


 しかしそこで、潮音はしっかりと敦義の顔を見据えながら言った。


「気にしないでよ。おじいちゃんのせいじゃないから。それにオレ、いくら女になったからといって、オレ自身は何も変わっちゃいないから」


 敦義の落ち込んだ様子は、潮音も直視することができなかった。


「おじいちゃん…たしかにオレが女になったときには、どうすりゃいいのか悩んでばかりだったよ。でもこうやってウジウジしてたってしょうがないじゃないか」


 それでも敦義が当惑の色を隠せないでいると、モニカがそっと敦義に声をかけた。


「ダンナももっと潮音ちゃんのこと信用して任せたらええんとちゃうかな。そりゃ潮音ちゃんのことが心配なんはわかるけど、潮音ちゃんは今日かてこうしてちゃんと家に来てくれたし、ずっとしっかりしとるよ。潮音ちゃんのことならきっと大丈夫やと思うから」


 モニカに諭されると、敦義も多少は気を取り直したような表情をして屋敷の奥に戻っていった。むしろ暁子や優菜の方が、親子ほども歳の差の離れた夫婦同士が仲の良さそうな様子をしているのを気まずそうに眺めていた。


 そのようにしているうちに、潮音は窓の外が明るくなっているのに気づいた。いつしか雨も上がって、雲の切れ目からかすかに日がさしてきていたのだった。


 そこで暁子が、潮音の肩をそっと抱いて声をかけた。


「…あたしたちももう帰ろうか」


「でもこの着物…」


 潮音が戸惑っていると、モニカが声をかけた。


「潮音ちゃんが持ってってええで。この着物は潮音ちゃんが持っていて、はじめて意味があるものやと思うから」


 潮音は今まで着てきた学生服をまとめて、モニカの用意してくれた袋にしまった。

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