第五章・卒業式(その3)

 潮音たちが敦義の屋敷に着くと、門から玄関に続く石畳の道の脇には水たまりができて、その水面にはいくつもの波紋が浮かんでいた。古い屋敷から漂ってくる、湿気を含んだひんやりした空気に触れると、潮音は自分の運命を一変させた「あの日」のことを思い出して、足取りが重くなった。


 それでもなんとか、潮音たちが敦義の屋敷の玄関の扉を開けると、モニカが潮音たちを出迎えた。モニカは学生服をまとった潮音の姿を見て目を丸くした。


「まあ、潮音ちゃんはお友達と一緒にわざわざ来てくれたん? 流風は帰って来とらへんけど」


「モニカさん…オレ、今日で中学を卒業したから、その機会に自分の気持ちを伝えておきたくて…」


「でもちょうどよかったわ。潮音ちゃんに見せたいものがあるんや」


 そう言ってモニカは、潮音たちを家の奥の広間に通すと、そのまま家の奥の部屋へと戻っていった。


 暁子は広間に腰を下ろすと、さっそくちゃぶ台の上に卒業アルバムを広げて潮音の前で広げてみせた。クラス写真、水泳部、体育祭、文化祭、課外授業、修学旅行…その写真の中で潮音は学生服姿のまま、何の屈託もなく先生や学校の仲間たちと一緒に笑顔を浮かべていた。アルバムのページを手繰っているうちに、潮音はあらためて自分が失ったものの大きさをかみしめて、またうなだれるしかなかった。暁子と優菜も、潮音のそのような顔を目の当りにしては、軽々しく声をかけることができなかった。


 ちょうどそのとき、モニカが広間に戻ってきた。そしてモニカは、古びたアルバムやかんざし、化粧用具を納めた漆塗りの箱などをちゃぶ台の上に並べた。


「あれ以来ダンナがあの鏡について調べてみたら、あの鏡の持ち主の女の子に関する遺品がいろいろ出てきたんや」


 むしろ暁子や優菜の方が、ちゃぶ台の上に並べられた小物の数々を興味深そうに眺めていた。そしてモニカは、ぼろぼろになったアルバムをそっと開いて潮音に示してみせた。


 かびくさい香りのするアルバムの中のモノクロ写真は、あちこち黒ずんで不鮮明ながら、あどけなさの残る端正な顔つきをした少女の姿を写していた。幼少のころから始まって、着物に袴の制服をまとった女学校のときの写真、着物姿で庭園を散策している写真…その写真の一枚一枚を見ながらアルバムをめくると、最後のページの一枚の写真に潮音は息をのまずにいられなかった。その写真には羽織袴で礼装した若者がしゃんと立つ傍らで、華やかな振袖の衣裳に身を包んだ令嬢が椅子にきちんと腰かけて写っていた。そしてその着物は、不鮮明なモノクロの写真を通して見ても、あの日土蔵の中で自分が見た少女の幻が着ていたものと同じだとわかった。


「こんな立派な写真がきちんと残っとるなんて、ダンナの先祖たちはそれだけこのお嬢ちゃんのことを大切に思っとったんやろね」


 モニカの言葉を聞きながら、潮音は写真の中の令嬢の表情に見入っていた。その柔和さの中にも芯の強さを秘めた表情や、真正面を見据えた視線は、どこか潮音の心の中に迫ってくるものがあった。


 アルバムの中の写真をじっと見つめている潮音の表情を見ると、モニカは一着の着物を取り出して大きく広げ、広間の片隅にあった衣桁にかけてみせた。その桜の花の模様を織り込んだ薄紅色の振袖の着物は、まさしくあの写真の中で令嬢が身にまとっていたものだった。


「この着物は、あの子の思いが残っているものやから、鏡と一緒に大切に残されていたんやね」


 その着物のあでやかな色合いや細やかな模様に、潮音は目を奪われていた。そのさやさやするような絹地にそっと指で触れているうちに、潮音は黒い学生服、そしてその奥のナベシャツで締め上げた胸の中で、心臓の動悸が速まり胸が苦しくなるのをひしひしと感じていた。


 ふと潮音は、広間の隅に古い姿見が立てかけられているのに気づいた。潮音はあらためて、その姿見の前に立って自分の姿を映してみた。


 入学以来三年間、着慣れたはずの黒い詰襟の学生服。──しかし、その学生服を着て鏡の前に立っている自分は、すでに卒業アルバムの写真の中で何の屈託もなく振舞っている「潮音」ではなかった。ナベシャツで胸を隠すことはできても、いかつい学生服はなで肩になった体形とはところどころサイズが合わなくなっている。細く小さくなった両手は、学生服の黒い袖から隠れそうになっていた。髪も男の子のように短く切りそろえたとはいえ、どこか不自然さは抜けなかった。そしてきめの細かくなった素肌、心なしか以前よりもぱっちりとしたかに見える瞳…。


──違う。何もかもが違う。こんなの…オレじゃない。


 潮音が学生服の上から胸に手を当てると、ますます心臓の動悸が激しくなっていくのを感じた。さらに細くなった指を唇に当てると、呼吸が荒くなっていく様子がはっきりとわかった。もはや潮音に学生服の下で激しく渦を巻き、心の中の壁を突き破って奔流のように流れ出そうとしているものを抑えることはできなかった。潮音は一刻も早く、この奔流を解き放ちたかった。


 潮音は衣桁にかけられた薄紅色の着物に目を向けると、その繊細な柄をしっかり見据えた。潮音は心の奥で、先ほどのアルバムの中で見た少女の面影に語りかけていた。


──オレはあんたに恨みがあるわけじゃないんだ。自分らしく生きたい、自分の好きな人と一緒になりたいと願いながらそれができなかった、これがどれだけつらいことか今では痛いくらいよくわかるから。…でもオレにはわかんないんだ。「自分らしく生きる」ってどういうことなのか。そもそも「自分」って何なのか。…教えてよ。どうすれば現実から目を背けずに強く生きていけるのか。


 潮音はしばらくの間、姿見の前でそのまま身体をこわばらせてじっと身をすくめていた。しかしそのとき、潮音は背筋にぞくりとするような震えを感じた。そしてそれと同時に、潮音は自分の心の奥で何かがはじけて、ゆっくりと頭をもたげてくるのを感じていた。それはあたかも、まだ幼い芽が固い種の殻を破り、重い土を押し上げてすくすくと伸び始めたかのようだった。


 そのときだ。潮音の髪がするすると伸び始めた。潮音は思わず両手で自らの頭を押さえたが、それでも伸びようとする髪は指の間をするりとすり抜けていった。モニカに暁子、優菜といった、その場に居合わせた一同も固唾を飲んでその一部始終を見守っていた。


 そして潮音の髪は、黒い学生服の肩を覆うようにふわりと垂れると、潮音の肩甲骨を覆うあたりまで達したところで伸びるのを止めた。潮音が髪を手に取ると、きめ細かな髪は水のようにさらりと指のすき間から流れ落ちた。潮音が少し頭を動かしただけで、髪はさらさらと揺れて潮音の耳元をくすぐった。


 しかしモニカは、潮音の様子を目にしても落ち着いた態度を崩そうとしなかった。


「どうやらあのお嬢様も、潮音ちゃんのことを認めたみたいやね。潮音ちゃん…この着物着てみる? そしたらあのお嬢ちゃんのつらい気持ちも晴れると思うんやけど」


 潮音はモニカの声に、思わずうなづいていた。


「着物着るにはいろいろ準備いるからね。今から下着とかとか足袋とか持ってくるわ」


 そう言ってモニカが大広間を後にしようとしたとき、潮音は暁子と優菜にそっと声をかけた。


「しばらく…そっとしてて。今どうすればいいかわかんないから」


 その様子を見て、モニカは暁子の背をそっと押して、暁子と優菜を大広間から立ち去らせた。暁子と優菜は大広間を後にする間際、気詰りな表情で障子越しに潮音の姿をそっと振り向いた。



 しんと静まり返った大広間に一人だけ残されると、潮音は体中の神経が指の先までますます鋭敏に研ぎ澄まされていくように感じていた。衣桁にかけられた着物の繊細な柄は、潮音の心の奥まで見すかしているように思えた。


 潮音はすっくと立ち上がると、学生服の金色のボタンを外し、一気にそれを脱ぎ捨てた。古い姿見に映った、白いワイシャツの襟元からのぞくあらわになった首筋が、潮音の感情をますます荒々しく高ぶらせた。潮音がその勢いにまかせてベルトを外してズボンを下ろし、ワイシャツも靴下もすべて脱ぎ去ると、ウエストから腰にかけてのなだらかな体のラインとつややかな素肌、無駄毛のないスレンダーな両足が姿を現した。


 潮音がそのまま呼吸をおいてナベシャツを脱ぐと、ふたつの胸がそっと揺れた。朝からずっと胸を締めつけていたナベシャツの圧迫感から解放されて、ほっと一息つくことができたのもつかの間、それはあたかもパンドラの箱の封印を解いたようなものだった。気がつくと潮音は、腰の周りを覆っていたボクサーショーツにも手をかけて、両足から引き抜いていた。

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