第五章・卒業式(その2)

 式の進行は滞りなく終った。卒業証書授与のとき、「藤坂潮音」の名が呼び上げられると生徒たちの間に多少のざわめきが起きたが、潮音は自分を男子生徒として卒業させてくれた学校側の配慮に内心で感謝した。


 式典が終ると、潮音に「藤坂」と声をかける者がいた。潮音が振り向くと、浩三をはじめとする水泳部のメンバーたちが固まって立っていた。そして浩三のそばには、玲花の姿もあった。


「藤坂…高校どないするん」


 浩三が口を開いても、潮音はどのように反応すればよいのか戸惑っていた。玲花は浩三の傍らで、唇をかみしめて気づまりな表情をしながら潮音を見ていた。


「椎名君、藤坂君が高校どこ行くか話したくなさそうにしとるんやから、無理に聞かん方がええんやないかな」


 そう言われて、浩三も困惑したような表情をして口をつぐんだ。しばらくの間、重苦しい空気の中を、ただ雨だれの音だけが響きわたっていた。やがて浩三はそのような雰囲気に耐えられなくなったかのように、自分から口を開いた。


「藤坂、お前はあれだけ水泳部がんばっとったやないか。高校行っても水泳続けたいと言うとったやないか。…そのまま何も言わへんとみんなと別れたら、藤坂にとってもオレたちにとっても、どっちも気まずい思いが残るだけやないか」


 しかし潮音にとっては、このような浩三の声すら、よりプレッシャーとなって心に響いてくるばかりだった。潮音はようやく、心の底にたまった重苦しい感情を少しづつ吐き出すかのように、おもむろに口を開いた。


「みんな…ありがとう。オレのことなら…心配しなくて大丈夫だから」


 それでも浩三が重苦しい表情を崩そうとしないのを見て、潮音は思わず声を荒げていた。


「ばかやろう。お前は高校に入ったら、水泳部でインターハイに出るという夢があるんだろ。それがこんなにうじうじしててどうするんだよ。もうオレのことなんかにとらわれるのはよせよ」


 その潮音の言葉を聞いて、玲花が浩三をかばいながら言った。


「藤坂君…もうこれ以上はよしてや。椎名君はたしかに水泳部のエースとしてみんなの期待を集めとったけど、その裏で部活がない日も毎日自主トレしたり、食べるものにも気を使ったりと、かなりのプレッシャーに耐えとったんやからね」


 そこで潮音は、玲花にそっと言った。


「尾上さん…南稜行ったら浩三のことよろしく頼んだよ」


 そこで潮音は、ただ「さよなら」とだけ言い残すと、水泳部員たちのもとから振り返りもせずに走り去った。


 浩三をはじめとする水泳部のメンバーたちは、しばらくの間無言のままその場にじっと立ちすくんでいた。やがて玲花が浩三の背をそっと押して、二人で校門を出て雨の街へと消えていった。


 玲花が時折、傘ごしに浩三にちらりと視線を送っても、その元気なく肩を落した姿からは、水泳部のホープとして力強く活躍していたときの面影はうかがうべくもなかった。浩三はがっしりとしたたくましい体格をしているだけに、その落ち込んだ様子がよりいっそう目についた。


「椎名君…元気出してや。椎名君は南稜で水泳部に入って、大会目指すんやと言うとったやん。椎名君が本気で水泳の選手めざしたら会う機会もなかなかとれへんようになるから、今日のうちに私の気持ちを伝えておきたいと思うとったのに」


 玲花はあんなに元気でたくましく見えた浩三に、こんなにナイーブでもろい一面があったとはと感じていた。



 潮音が傘をさしながら校門のところまで来たとき、背後で暁子の声がした。潮音が振り返ると、暁子は心配そうな表情をしていた。


「潮音…さっきからずっと見てたよ。潮音はやっぱり、椎名君と一緒に高校でも水泳部に入りたかったの? …それにやっぱり、潮音は尾上さんのこと好きだったんだね」


 しかし潮音は、首を振って言った。


「そんなんじゃないんだ。…しばらくそっとしておいてくれ」


 潮音は暁子の呼び止めようとする声にも耳をとめずに、校門を後にして雨の降り続く通りへと歩き出していた。


 暁子はしばらく傘をさしながら、冷たい雨の中を立ちすくんでいた。そのような中、暁子の背後で声がした。


「アッコっていつもそうやね。困っとる人とかおったら助けてやらずにはおられへんとこがあって。…私が中学入ったばかりのころかてそうやったし。でもそれがアッコのええところなんやけど、それが時にはおせっかいになることかてあるんやないの? いっぺん藤坂君のことを突き放してみることも必要やないかな」


 優菜の声だった。


 優菜は小学五年生のころから中学受験のために、放課後や日曜日も塾に通って勉強したり模試を受けたりしていた。しかし優菜が中学受験に失敗して夕凪中学に入学した当初は、中学の雰囲気になじめずに校内でも孤立しがちだった。そのような優菜に対しても暁子が友達として接したおかげで、優菜は少しづつ中学の仲間になじめるようになった。さらに優菜はそのような自分を変えたいという思いから水泳部に入り、引っ込み思案だった性格も前向きになっていった。


 優菜の声を聞いて、暁子は言葉を返した。


「優菜の方こそ、潮音のことずっと心配してたじゃない。…それに優菜、あんたも小学校のころからだいぶ変ったよ。やはり水泳部入ってからかな」


 暁子が心配そうな表情を崩さずにいると、優菜はその顔を見て、軽く息をついて暁子と一緒に校門を後にした。



 潮音は中学を後にして、卒業証書と卒業アルバムを手にしたまま、冷たい雨の降り続く街をさまよっていた。潮音が毎日行き来した通学路も、行き交う人々がさす色とりどりの傘や店の看板、点滅する信号が雨ににじんでいる。そして坂の下にはるかに遠望できる明石海峡も、今日は灰色に煙っている。


 しかしこの通い慣れたはずの通学路を歩きながら、潮音は街を歩く人々から一人だけ浮き上がったかのような、深い孤独感を感じていた。自分もあの日、敦義の屋敷の土蔵の中で古い鏡を手にするまでは、平凡などこにでもいる男子中学生の一人として、皆と一緒にいられたはずだった。


 潮音の頭に、浩三や玲花、優菜をはじめとする水泳部のメンバーたち、そして一緒に机を並べたクラスメイトや世話になった先生たちの表情があらためて浮かび上がった。もはや以前のように、自然に彼らと接することはできないのか──そう考えると、潮音は心がかきむしられるような思いがした。


 たしかに潮音は退院して間もないころには、一刻も早く男子に戻りたい、男子として学校の仲間たちとも今まで通りに接したいと思っていた。自分は今、少なくとも外から見る限りは胸の膨らみを隠し、黒い詰襟の学生服を着て男子として街を歩いている。声まではともかく、少し見ただけでは、なんとか男子として通じるかもしれない。


 しかし潮音は今男子としてふるまっているはずなのに、自分が今感じているこの違和感や後ろめたさは何だろうと考えていた。そう思うと、ナベシャツできつく締め上げた両胸がますます息苦しく感じられた。


──もう男には戻れないのだろうか…。しかしそうだとしても、女になることもできないのだろうか…。自分って何? 自分の居場所はどこにある? そしてこれからどのようにして生きていけばいい?


 しかし潮音がそう考えれば考えるほど、心の中はもつれた糸玉のようにからまっていくばかりで、どんどん無限の深みに落ちていくような感じがした。潮音はポケットから貝殻を取り出すと、かじかんだ手でぎゅっとそれを握りしめた。そのうちに潮音は肌寒さを感じてきたので、ともかく家に戻ろうと考えた。

         

 潮音が自宅に戻ると、門の前には暁子と優菜が並んで立っていた。


「どこ行ってたの。心配してたんだからね」


 暁子は心配そうな表情を浮かべて潮音のもとに駆け寄った。


「藤坂君…そんなに一人で何もかも抱え込まんといてよ。アッコや私かておるんやから」


 優菜も心配そうにしている。


 そのとき潮音の脳裏には、あの秋の日に古い土蔵の中で、鏡を手にしたときの記憶がまじまじと蘇ってきた。そして潮音は、これまで固く閉ざしていた口をそっと開いた。


「暁子…塩原さん…オレはもういっぺんおじいちゃんの家に行ってみたいんだ。中学を卒業したことだし、この機会に自分の気持ちをはっきりさせておきたいから…」


 しばらく黙って潮音の言葉を聞いていた暁子も、きっぱりと言った。


「潮音…その方がいいと思うよ。あたしだって一緒についていってあげるから。もうここまできたら、うじうじしてる場合じゃないでしょ」


 優菜も意を決したように、潮音の顔をはっきりと見た。


「私かて行くよ。もう藤坂君の落ち込んどるところは見とうないもん」


 潮音はまじまじと暁子と優菜の顔を見た後で、深くうなづいた。その潮音の様子を見ると、暁子と優菜もふと息をついて、三人で傘をさしながら敦義の屋敷に向かった。

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