第五章・卒業式(その1)

 卒業式の当日は、朝からまるで寒の戻りが来たかのような冷たい雨が降り続いていた。潮音は朝まだ薄暗いうちにベッドから起きると、上半身にナベシャツを着込んで胸の膨らみを隠した。潮音は両胸をナベシャツできつく締めつけられる感触に息苦しさを感じずにはいられなかったが、それと同時に、潮音は退院直後までは自分自身ブラをつけることにあれだけ抵抗していたはずだったのに、その自分がいつの間にかブラを手放せなくなっていることにあらためて気づいていた。


 なんとかしてそのナベシャツの上にTシャツを着込み、その上からワイシャツを羽織り袖のボタンをとめたときには、手首が細くなっていることが今さらのように認識できた。黒い学生ズボンに両足を通すと、ヒップは窮屈なのにベルトのあたりはブカブカになっていた。中学校に戻る前に美容院で切り落としてベリーショートにした髪も、三か月ばかりの間にうなじにかかるくらいまで伸びていた。


 潮音がその恰好のまま居間に出て来ても、家族はみんな学生服姿の潮音の姿を前にして言葉少なだった。


「あんた、ほんとにそれでいいの?」


 綾乃にたずねられると、潮音はきっぱりと答えた。


「ああ、男子として三年間学校に通った以上は、男子としてケリをつけたいんだ」


「あんたってほんと強情よね」


 綾乃はため息交じりに言った。


 朝食がすんで黒い学生服を着ると、いくら胸の膨らみはナベシャツで隠せても、今のなで肩の体形には学生服は少しいかつすぎるような感じがした。潮音は部屋を出る前、あらためて自分の姿を鏡に映してみた。


 潮音は自分がこの学生服を着るのも今日が最後なのかと思うと、あらためて胸の中に感慨がこみ上げてきた。しかしそれは単に中学校を卒業するというだけでなく、男子として十五年余り生きてきた自分と訣別するということでもあった。自室を後にする前に、潮音はこの前海辺で拾った貝殻が机の上に置かれているのに気づくと、それを手に取って学生服のポケットに忍ばせた。


 潮音があらためて居間に下りてくると、綾乃もそっと声をかけた。


「潮音…学ラン着るのも今日が最後だね」


 しかし潮音は言葉を返そうとしなかった。綾乃は潮音の全身をしげしげと見まわしながら言った。


「でもあらためて見てみると、宝塚の男役みたいでかっこいいじゃん。いや、なんかショタっぽくてかえってかわいいかも」


 実際にそうだった。ボーイッシュな髪型や整った顔立ち、きめの細かな肌だけを見ると、美少年としても十分に通用するかもしれない。むしろ学生服の黒い生地が、つややかになった頬の色白さをいっそう引き立たせているようにすら見えた。


「せっかく今日限りで見られなくなるんだから、写真撮っとこうね」


 綾乃はスマホを持ってきて、顔中に笑みを浮かべながら何枚も写真を撮った。


──姉ちゃん…後で絶対ぶん殴ってやる。


 綾乃が写真を撮るのに潮音がげんなりしていると、きちんとスーツを着た則子が声をかけた。


「二人ともふざけてるんじゃないの。そろそろ行くわよ、潮音。それからパパもなんか言ってやって」


 雄一は出勤の準備をしながら、ぼそりと潮音に声をかけた。


「卒業おめでとう。これからもがんばるんだぞ」


 そのような雄一の姿を見て、則子はため息がちに言った。


「たく、ほんとパパってシャイなんだから。もうちょっとなんか言えばいいのに。でもそこがかえってパパらしいけどね」


 則子に「パパ」と言われて、雄一はまたいやそうな顔をした。


「母さんこそ早くしないと遅れるぞ」


 潮音は則子をせかすと、二人でそろって家を後にし、傘をさしながら雨の降る通りへと足を向けた。



 潮音は傘をさしながら雨の降る通りを中学校へと向かう間、普通の中学生としてこの通学路を行き来した日々のことをあらためて思い出していた。通学路を歩きながらクラスメイトと世間話をしたり、冗談を言い合ったりしたこと、水泳部の朝練のために早起きしたこと、時にはテストの出来が悪くて肩を落しながら帰宅したこと、そしてその彼方に見えた青く染まる海…それら全てが潮音にとってかけがえのないことのように思われた。


 潮音はあらためて、自分があの日、古い屋敷の土蔵で古い鏡を手にしなければ、高校はどこに行くのであれ、普通の男子中学生として今日の卒業式を迎えていたはずだったのにと思っていた。そう思うと、ナベシャツで膨らみを押しつぶされた胸の圧迫感や息苦しさがよりこたえた。潮音はかえって、街を歩く人たちが自分に不審な目を向けていないかと気になった。


 潮音が中学に近づくにつれて、制服を着た生徒の姿も増えていった。しかし潮音は、暁子などごく一部の生徒以外には、自分が松風女子高校に入学することを秘密にしていた。クラスの他の生徒の側にも、潮音の進学先については聞きづらい雰囲気があった。潮音はクラスメイトの顔を見ても、自分が女子高に進学することを彼らが知ったらどのような顔をするかと気がかりでならなかった。


 校門の前では、「卒業式」と書かれた看板が雨に煙っていた。中学の構内は、正装した来賓や保護者たちの姿も加わりひときわ華やかに見えた。潮音が若干の気後れを感じながらも校内に足を踏み入れると、校門のところで学生服の胸元にリボンをつけてもらった。


 そのとき暁子が、母親につきそわれながら校門に入ってきた。暁子は潮音の姿を見て目を丸くすると、潮音を物陰へと連れ込んだ。


「潮音…やっぱり来てくれたのね」


 しかし潮音が不安げな表情をやめようとしないのを見て、暁子はやれやれとでも言いたげな顔をすると潮音を励ましてやった。


「潮音、もっと自信持ってしっかりしなよ。クラスの誰も、あんたのこと変だなんて思ってないよ」


 そして暁子は、潮音の手を引くと卒業する三年生たちの集合場所へと向かった。


 集合場所には、すでに胸にリボンをつけた潮音のクラスメイトたちが集まっていた。潮音はあらためて、クラスの男子たちはどちらかというと自分を見ても目のやり場に困っている一方で、むしろ女子たちの方が自分に向けて気になるような視線を送っているのを感じて、複雑な心境にならざるを得なかった。


 潮音をはじめとする卒業生たちが列を作って、卒業式の行われる体育館に入ると、潮音には雨が降って湿気の混じった体育館の空気が、ひときわひんやりしているように感じられた。

 

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