第四章・人魚姫(その8)

 しかしそのとき、二人は公園の入口にじっとたたずんで自分たちを見守っている人影があるのに気づいた。優菜だった。潮音がぎくりとしている一方で、暁子はあわてて弁解しようとした。


「い、いや、ちょっとこれはその…」


 しかし優菜は、穏やかな表情で首を横に振った。


「…ええよ、全然気にしてへんから。それに藤坂君が四月から女子として、私と同じ高校通うことになるなんて信じられへんわ」


 そこで優菜は、あらためて決然とした表情で潮音に語りかけた。


「藤坂君…もっといろいろ私にも相談してくれたらよかったのに」


「ごめん、塩原さん…。塩原さんがオレのこと好きだったなんて全然知らなかったんだ」


「藤坂君が謝ることなんかあらへんよ。あたしこそもっと早く勇気を出して藤坂君に本当の気持ちを伝えとったら、もっと藤坂君の力になれたかもしれへんのに」


 潮音が優菜にどのように接してよいかわからずまごまごしていると、優菜はさらに言葉をついだ。


「藤坂君…もっと自信持ちや。このところ学校行きづらかったんはわかるけど、あさっての卒業式にはちゃんと来てよ。私だって…藤坂君のことはずっと心配しとったんやからね」


 そばで優菜の話を聞いていた暁子も口を開いた。


「そうだよ潮音。あさっての卒業式にはちゃんと来てよ」


 そう言われても潮音は、表情にためらいの色を浮かべていた。そのような潮音の姿を見て、暁子は思わず声をあげていた。


「あたし…あんたがウジウジしてるとこ見てるの耐えられないんだもの。あんたって入院するまでは、水泳だって一生懸命がんばってたし、クラスのみんなとも悪ふざけばかりしてたとはいえ仲良くやってたし、それに…あんたのそういう一本気で裏表のない、さらっとしたところは好きだったのに」


 その暁子の言葉を聞いて、優菜はちょっぴり困惑したような表情をした。しかし暁子は、肩をすくめて当惑気味の表情を浮かべたままの潮音に対して、さらに語調を強めていた。


「あんたはあれだけのことがありながら、ちゃんと高校にだって受かったんでしょ? だったらもっとしゃきっとしなよ。…あたしだってはっきり言って、松風みたいなお嬢様学校でちゃんとやってけるか不安なのに」


 優菜も暁子の強い態度に、思わず息をのんでいた。


「わかった…わかったよ、暁子」


 潮音に言われて、ようやく暁子も落ち着きを取り戻すと、すまなさそうな表情をした。


「潮音…きついこと言っちゃってごめん。でもわだかまりを抱えたままみんなと別れたら、あんたにとってもみんなにとっても後味悪いじゃない。一人でウジウジしてたって、それじゃあみんなますます落ち込むだけだよ」


 暁子の言葉で、潮音はようやく心の中のわだかまりが多少はほぐされたような気がした。


「ありがとう、暁子、それに塩原さん…なんか話してて気が楽になったよ」


 そうしているうちに、早春の日は西に傾きつつあった。暁子はそっと潮音に声をかけた。


「潮音、そろそろ家に帰った方がいいんじゃない?」


 そして優菜も、潮音の顔を見て言った。


「…アッコと藤坂君って、ほんまに仲ええよね」


 そのように言うときの優菜の表情は、どこか寂しそうだった。暁子はそのような優菜の表情を見ると、どこかばつの悪そうな表情をしたが、優菜は公園を後にする間際、くるりと後ろを振向いて言った。


「ねえ藤坂君、四月から一緒の高校になるから、心配なことあったら何でも相談してよ」


 潮音は先ほどまでとは一転した優菜の明るい表情に戸惑いを覚えていたが、暁子はそのような優菜の様子を見ながら苦笑していた。そして暁子は、軽く潮音の肩を叩くと、公園を出て潮音を家の前まで送ってやった。


 潮音は家に入る間際、自宅の右隣の家を指さして言った。


「暁子、この家にも四月から引越してくる人がいるみたいだよ」


「仲良くなれるといいのにね」


 そして潮音は、自宅の庭を向き直して暁子に言った。


 「ねえ暁子、夏の日にはこの庭でビニールプールに水をはって一緒に水遊びしたっけ。そのときの暁子はキャーキャー声上げてはしゃいでてさ。そのころ栄介はまだほんのちっちゃな子どもで、姉ちゃんが縁側で栄介のことをあやしてたよね。そしてその後では母さんがスイカを切ってくれて、そのまま縁側で口のまわりを汁で真っ赤にしながら、みんなでスイカをほおばったっけ」


 暁子もしんみりとした表情で、潮音の家の庭を眺めていた。

   


 暁子が自分の家に戻ってからも、潮音の頭からは暁子や優菜の表情が離れなかった。あの元気が取り柄に見えた暁子があんなに内心で悩んでいたなんてということが、今の潮音の胸にひしひしと迫ってきた。


──オレはたしかに男から女になってしまって、いろいろ苦しい思いだってした。でもオレはそのことに逃げ込んで甘えすぎていたのかもしれない。悩んでるのはみんな一緒なのに。


 玄関のドアを開けると、綾乃が潮音を出迎えた。そこで潮音は、暁子と会って話した内容をあらためて綾乃にも話した。


「そっか…暁子ちゃんもなんか無理してるところがあるって、私も気づいてたのよね。あんただったら暁子ちゃんとも仲良くできると思うから、いろいろ相手になってあげな」


「しかし暁子のやつ、姉ちゃんのことを『やさしくて女らしい』なんて言ってたもんな。それ聞いたときには思わずふき出しそうになったよ」


「あんたねえ…でも私だって自分の好きなようにやってるだけで、別に暁子ちゃんからあこがれられるほど大したことやってるつもりなんかないけどね」


 そこで潮音は、神妙な面持ちになってぼそりと口を開いた。


「でも姉ちゃん…もしオレがこうして女になっていなかったら、いやもしはじめから女だったとしても、暁子はそこまで自分の心のうちを打ち明けてたかなあ」


 綾乃は潮音が自分のことを「オレ」と言うのにやれやれといった表情をしながらも、気を取り直すと少し顔を曇らせている潮音にしんみりとした表情で話しかけた。


「…そうやって人の気持ちがわかるようになった、人のことを考えることができるようになったということは、あんたもそれだけ成長したってことよね」


「そうかなあ」


 潮音はそそくさと自分の部屋に戻ると、暁子の気の強い、どこか怒っているような顔をあらためて思い浮かべていた。


──あんたはあれだけのことがありながら、ちゃんと高校にだって受かったんでしょ? だったらもっとしゃきっとしなよ。


 潮音はそこですっくと立ち上がり、海辺で拾った貝殻を取り出してじっと眺めてみた。そのうちに、綾乃の言葉が潮音の脳裏に甦ってきた。


──人魚姫はしっかり自分の意志で生きようとした。そして自分が人間の足を手に入れたことを悔やんだりも、誰も他人を恨んだりもしなかった。それどころか自分の命を犠牲にしても、王子への愛と人魚としての誇りを貫き通した。これってとても強くて立派な生き方だと思うね。


 潮音は貝殻を手で強く握りしめた。そのうちに、潮音の心の中にひとつの決意がしっかりと芽生えていた。


──やはり卒業式にはちゃんと出よう。たとえそれがどんな結果になってもかまわない。…自分は自分なんだから。ありのままの自分を、これ以上隠すこともごまかすこともできないんだから。

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