第五章・卒業式(その5)

 潮音がモニカからすすめられた草履をはいて、暁子や優菜とともに敦義の屋敷の玄関を後にすると、雨の上がった空の雲の切れ目から、かすかに薄日がさしていた。潮音は草履で石畳を踏みしめながら、敦義の屋敷のそばにある神社の境内を少し歩いてみた。


 神社の参道の脇の植え込みには、いくつもの雨粒が雫になって葉の表でキラキラと輝いていた。雨上がりの湿気を含んだひんやりとした空気は、社殿を囲んでいる木立から木の芽の香りを潮音の頬にまで運んできた。参道の石畳を一歩一歩踏みしめながら歩いているうちに、潮音は固く閉ざされていた心が少しづつ解きほぐされていくのを感じていた。


 やがて潮音の目の前に、どっしりとした神社の社殿が現れた。潮音はあの少女の面影を思い出して、その前で目を閉じて手を合わせていた。潮音はさらにそこから目を離すと、幼い日に敦義の屋敷を訪れたとき、よくこの神社の境内で遊んだことを思い出していた。潮音の耳の奥まで、幼いころの流風たちの歓声が響いてくるような気がした。


──あのころは流風姉ちゃんとも、家のことなど何も気にせず無邪気に遊んでられたのに…。


 そうしていると、しばらくの間潮音と一緒に神社の境内をじっと眺めていた暁子が、そっと潮音の手を引いた。


「…もうそろそろ帰ろうか」


 潮音は黙ってうなづいた。そこで暁子は、優菜にも元気よく声をかけた。


「よかったら優菜も来ない?」

 


 神社から家まで戻る途中も、潮音の着物姿は通りを歩く人の目を引きつけていた。しかし潮音は、その人目を避けるようにしていた。潮音と並んで歩いている暁子や優菜も、横目でちらちらと潮音に視線を送りながら、何か気まずそうにしていた。


 やがて神社から離れたころになって、暁子が重い口を開いた。


「椎名君と尾上さんのことは、ほんとにあれでよかったの?」


「もういいんだ。やはり椎名は、水泳で強化選手になってインターハイに出るという目標があるんだし、そのためにはオレのことなんかにとらわれているわけにはいかないから…それに椎名は、その一方でものすごいプレッシャーに耐えているんだ。だから尾上さんこそ、椎名のそばにいて椎名のことを見守っていてほしいんだ。…でもバカだよね。自分がこのような目にあっても、自分の気持ちを一方的に人に言うばかりで」


 うつむきがちになる潮音に、暁子はそっと声をかけてやった。


「あんたは間違ってないと思うよ。ただ優しい言葉をかけるよりも、以前の通りに接して、そして思ったことをそのまま伝えることができる、その方が椎名君にとっても嬉しいんじゃないかな」


 優菜はしばらく黙ったまま暁子の話を聞いていたが、やがてぼそりと口を開いた。


「藤坂君…椎名君は南稜で運動部の強化選手の寮に入るみたいやで。そうなったらそれこそ自由に会えへんようになるし」


 優菜の話を聞いて、潮音はますます表情を曇らせた。そのような潮音の様子を見て、暁子は元気よく声をかけようとした。


「潮音、そんなに落ち込んでばかりいたってしょうがないじゃない。こんなときはパーッと遊んで元気出そうよ。優菜も一緒になってさ」


 優菜も乗り気になるのを見て、潮音はあらためて暁子の顔を見直した。暁子のどんな人でも、持ち前の明るさとまっすぐさで元気にさせる性格には、自分もだいぶ救われてきたと潮音は考え始めていた。


「その反面、暁子はおせっかいなところもあるけどね」


 潮音が言うと、優菜も言葉を返した。


「そこがアッコのええとこやん。そのおせっかいがあらへんかったら、藤坂君は今こうしてここにおらへんと思うで。あたしも中学の入試落ちて落ち込んどったときには、だいぶアッコに助けてもろたし」


 その優菜の言葉に、暁子は照れくさそうな表情をしていた。



 そうしているうちに、潮音たち三人は暁子の家の門の前まで来ていた。暁子がためらっている潮音の手を引いて自分の家の中へと連れ込むと、玄関先で一足先に家に帰っていた、暁子の母親の久美が潮音を出迎えた。いつもは共働きで忙しい久美も、この日は暁子のために年休を取っていたのだった。


 しかし久美も、しばらく潮音の着物姿をあちこち眺め回していた。


「これが潮音君? いろいろあって大変だったみたいね。でも…この着物すごくいい着物よね。きれいじゃない」


 久美も潮音の着物の色合いや柄を、うっとりしながら眺めていた。そして次の瞬間、久美はニコニコしながら暁子に目を向けた。


「そういえば、うちにも着物あったよね」


 そのときの暁子は、一瞬ぎくりとした表情をしていた。


 そして久美は、暁子と潮音を家の奥の和室に誘うと、押入の奥から桐の箱を取り出した。その中には、藤色を基調にした振袖がきちんとしまわれていた。


「これはお母さんが若いころにつくってもらったものよ。暁子にはまだちょっと大きいかもしれないけど」


 暁子はしばらくの間、じっと着物の柄を見つめた後で、立ち上がって自分の着ている制服に手をかけようとした。潮音があわてて暁子から目をそむけようとすると、暁子が声をあげた。


「何あわててるのよ。今は女同士なんだから問題ないでしょ。だいたいあんたこそさっきは、自分の裸見せびらかしてたくせに」


「暁子…オレは今でこそこうだけど、こないだまで男だったんだぜ」


「そんな着物着てそんなこと言っても説得力ないよ。だいたい、あたしはあんたと何年つきあってると思ってるの? そりゃあんたはクラスでも男子の間でエッチな話ばかりしてたけど、ほんとにそんなやつだったら、女の子になってもそこまでつきあったりはしないよ」


 潮音は暁子の屈託のない様子に戸惑いながら、そそくさと暁子に背を向けた。


「誤解するなよ。オレは暁子の裸なんかに今さら興味ないからな」


「そりゃあんたの方がスタイルいいもんね」


 暁子が皮肉めかした口調で言うと、そばにいた優菜もやれやれとでも言いたげな表情をしていた。


 そこで潮音が思いきって振り向くと、暁子は制服を脱いでブラとショーツだけの姿になっていた。しかしそこで、潮音はあらためて暁子の姿に目を向けた。


「暁子…スタイルがどうのなんて、そんなに気にすることないのに。むしろこれから大きくなるかもしれないんだから」


「それってほめてるの?」


「それに暁子、思ったよりかわいいブラしてるじゃん。どうせ暁子のブラなんて、スーパーのバーゲンの特売品をまとめ買いしたものだと思ってたけど」


「いいかげんにしないと怒るよ」


 そのような暁子と潮音のやりとりを、優菜は呆れた表情で眺めながらため息をついた。


「二人とももっと素直になればいいのに。これからいったいどうなるんやろ」


 そして久美も暁子をなだめた。


「二人ともいいかげんにしなさい。潮音君が女の子になったとかいっても、そういうとこだけは前と何も変ってないんだから」


 そして久美は暁子を落ち着かせると、暁子に長襦袢から順に着物をてきぱきと着せていった。潮音はその様子をじっと眺めていた。


「暁子の母さん、着付けできるんだ。こないだ姉ちゃんが着物着たときなんかは、母さんと二人で着付けの本見ながらてんてこ舞いしてたのに」


「当り前でしょ。だてにアパレル関係の仕事やってないからね。でもあたしがこうやって着物着せてもらうのなんて、七五三のとき以来だっけ。そのころはお母さんも私にしょっちゅうかわいい服とか着せてたんだけど」


「その娘にしちゃ暁子はしゃれっ気がないけどな」


「殴られたい?」


「潮音君もそう思うでしょ? この子ももうちょっとおしゃれでもしたらかわいいのに。でもまあ、暁子らしいのが一番だけどね」


「お母さんまでそんなこと言わないでよ。だいたいあたしらしいっていったい何よ。…でもお母さん、そんなに帯きつく締めたら苦しいってば」


 そうしているうちに久美は白い長襦袢の上から暁子に藤色の着物を羽織らせ、てきぱきと身なりを整えていった。潮音は暁子の姿が目の前で華麗に変っていく様子を見て、いつしか自分の記憶に残る、やんちゃで気が強かった暁子の姿を思い出していた。潮音は暁子がいつしか大人っぽい表情を見せるようになっていたことに戸惑いを感じる一方で、久美から着物の着方や帯の締め方について説明を受けるときの、暁子のきょとんとしたあどけない表情を眺めているうちに、やはり暁子も母親の前では素直になるんだと思って、表情もいつしか和んでいた。


 帯の上に帯締めをとめて、ようやく着物の着付けが終ると、久美は暁子の髪をとかした後、髪を結わえてリボンをつけた。しかしおめかしが終っても、暁子は顔を赤面させながら、落ち着かなさそうにきょろきょろしていた。


 潮音は暁子の、着物で華やかに装った姿を目の当りにして、あらためてどきりとさせられた。しかしその一方で、暁子が慣れない着物姿に窮屈さを感じて、はにかみ気味な様子をしているところに何となくおかしさを感じていた。


「暁子…かわいいじゃん」


 潮音にほめられても、暁子はむっとした表情をしていた。


「お世辞言ってくれなくてもいいよ。どうせあたしは普段かわいくないとか言いたいんでしょ。だいたい、なんでついこの前まで男だったあんたの方が、こうやって着物でおめかししてもあたしより決ってるわけ?」


「暁子ももっと素直になりなさい。せっかく潮音君もほめてくれているのに」


 久美は困った顔をした。しかしそこで一瞬ふくれっ面になった暁子も、いつしか笑顔を取り戻していた。


「でもよかったよ。さっきまで落ち込んでいたあんたが、元気出してくれたんだから。これだけでもこの着物着た価値あったわ」


 そう言う暁子の顔は、どこか安心したように見えた。久美もそのような暁子の様子にほっとした顔をすると、優菜に顔を向けた。


「優菜ちゃんもいつかちゃんと着物着てみる? 松風って礼法の授業とかもあるんでしょ」


 久美に言われると、優菜は恥ずかしそうに赤面して手を振った。


 そして久美は、潮音と暁子の写真を撮った後で言った。


「せっかく友達が来てくれたんだから、みんなでごはん食べて行かない? 卒業祝いだから、ごちそう用意してるわよ」


「あたしも手伝わなくていいの?」


「暁子にはいつも無理させてるからね。今日はめいっぱい遊んできなさい」


「でもせっかく着替えたのはいいけど、このかっこじゃ遊びにくいよね。潮音もいっぺん家に帰って荷物置いて、着替えてきたら?」


 潮音もその暁子の提案に従おうとすると、暁子と優菜も潮音について行った。


「なんで暁子と塩原さんまでついて来るんだよ」


「あたしは潮音のお母さんと綾乃お姉ちゃんにも、このかっこ見せてあげたいからね」


「私も藤坂君の家行くんはじめてやわ」


 優菜の表情もどこか嬉しそうだった。

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