第五章・卒業式(その6)
潮音が家に戻ると、則子と綾乃も潮音と暁子の振袖姿、そして潮音の長く伸びた豊かな黒髪に目を丸くしていた。潮音が自分の髪の伸びたいきさつを話しても、則子と綾乃は呆気に取られたような表情をしていた。しかししばらくすると、則子はやたらと潮音の着物をほめそやして、写真を何枚も撮ってみせた。
潮音がそのような則子や綾乃の態度にげんなりしながら自室に戻ると、暁子も潮音の部屋をあちこち見渡した。
「小学校のころは潮音の家にもちょくちょく遊びに行ってたけど、潮音の部屋に入るのなんか久しぶりだわ」
一方で優菜は、どこか気恥ずかしそうな様子をしている。
「私もこんな形で藤坂君の部屋に来るなんて思うとらへんかったわ」
「優菜、もう『藤坂君』なんて言わないで、ストレートに『潮音』と言っていいんじゃない?」
暁子に言われると、優菜は余計に顔を赤らめていた。
「それやったら藤坂君も私のこと『優菜』と呼んでええよ」
その優菜の言葉には、潮音も照れくさそうにしていた。
「で、着替えるったってどうすりゃいいんだよ」
潮音は今までの経験から、自分が着せ替え人形にされることは覚悟していた。しかし暁子は潮音がクローゼットを開けると、その中に潮音が玲花から譲ってもらったセーラー服があるのに気がついた。そこで暁子は少し考えた後で、潮音に言った。
「じゃあ潮音、この制服に着替えてよ。あたしも家戻って着替えるから、しばらくしたらまたあたしの家に来て」
そして暁子は、優菜を連れて潮音の部屋を後にした。潮音は暁子の真意をはかりかねたが、それでもため息をついて自らのまとっていた着物に手をかけ始めた。
潮音がなんとかして服をセーラー服に着替えると、長く伸びた髪か四角い襟の上にはらりとかかった。潮音はあらためて、さっきまでの着物に比べてだいぶ身軽に動けるようになったことにふと息をついた。続いて潮音は、則子や綾乃の手を借りて着物をきちんと畳むと、敦義の屋敷から持って帰った黒い詰襟の学生服を袋から取り出し、自分はもはやこの学生服を着ることもないのだろうかと思いながらも、それをきちんとハンガーに架けた。
潮音が暁子の家に向かった頃には、早春の陽も西に傾いて辺りには暮色が漂い始めていた。潮音が暁子の家に入ると、暁子が優菜と並んで玄関口に立っていたが、その暁子の姿を見て潮音は呆気にとられた。暁子は優菜とおそろいの、夕凪中学の制服のセーラー服に着替えていたのだった。
「なんで暁子まで制服着てるんだよ」
「いいじゃん。優菜も制服着てるし、せっかくあんたにも着替えてもらったんだから」
しかし暁子の方も、セーラー服に着替えた潮音の姿にはっと息をつかされる思いがした。暁子は冬休みのとき、潮音がこのセーラー服を着ているところを見ていた。しかしそのときの潮音はおどおどした表情を浮かべていて、ぎこちなさがいやでも目についた。
しかし今、暁子の前にいる潮音はあのときと同じセーラー服を身にまとっていても、仕草も表情も落ち着いていて、ほとんど不自然さを感じさせなかった。そして潮音の長く伸びた黒髪も、今の潮音のセーラー服姿によく似合っていた。少なくとも、何も知らない人が今の潮音を見ても、「彼女」がほんの数か月前までは男子として、詰襟の学生服を着て中学校に通っていたとは信じないに違いない。暁子はあらためて潮音の全身を見返して、潮音が「女」に染まっていく様子に戸惑いと不安を覚えていた。
「潮音…こうして見てると、あんたって元から女の子だったみたい」
「何言ってんだよ、暁子。セーラー服着てこいと言ったのは暁子の方だろ」
そこで優菜が、二人の間を取り持った。
「まあまあアッコ、せっかく潮音も来てくれたんやから、何かやって遊ぼうよ」
そこで暁子はさっそく潮音と優菜を居間に誘うと、人気のゲームソフトを取り出した。
「このゲーム、前からやってみたかったんだ。受験の間はがまんしてたけど」
「栄介のやつ、あたしが勉強してる間もこれ見よがしにこのゲームやってるんだもの」
「でもこんなかっこでゲームやるなんて変な感じ」
暁子は潮音にコントローラーを手渡すと、自分もテレビの前に腰を下ろし、ゲームをスタートさせた。
しかしゲームがスタートしても、潮音はテレビの画面に目をやりつつも、隣に坐っている暁子にもちらちらと視線を向けずにはいられなかった。コントローラーを手に画面と向き合っている暁子の表情は、いつもの明るく元気な暁子と変っていなかった。暁子のセーラー服姿と、ゲームに興じている楽しそうな表情とのギャップに、潮音はやはりちぐはぐなものを感じずにはいられなかった。優菜もこのようにしてゲームで遊んでいるうちに、いつしかかすかに笑顔を浮かべていた。
そうやってゲームで盛り上がっている間に、日もとっぷりと暮れて夕食の準備ができていた。いつの間にか帰っていた暁子の弟の栄介も、セーラー服を着た潮音の姿を見て目を白黒させていた。
「これが…潮音兄ちゃんなの?」
栄介の表情からは、驚きと戸惑いの色が抜けなかった。そのような栄介の顔を見ていると、潮音はどこか後ろめたさを感じずにはいられなかった。
食事の間、潮音が久美の作った料理にいち早く箸をつけようとすると、さっそく暁子が口をはさんだ。
「せっかくだから、もっとお行儀よくご飯食べられるように訓練したら?」
「女だから行儀よくしなきゃいけないなんてことはないだろ。暁子こそ栄介とおかずの取り合いばかりしてたくせに」
「そんなこと言うんだったら、あんた自身今までどうなのよ」
その一方で優菜は、もの静かな態度で箸を運んでいた。
「でも暁子のお母さんって料理うまいよね。お代りしてもいいかな」
「そんなに食べてばっかりいるとデブになって、せっかくのプロポーションが台無しだよ」
「余計なお世話。暁子こそもう少し食べた方が胸大きくなるんじゃないか?」
「何よ、あんたの方がちょっと胸でかいからと言って」
「やれやれ、せっかくかわいくおめかししてもこれじゃあ台なしだわ」
互いに悪態をつき合う二人を見て、久美はため息をついていた。
「潮音君…いやもう潮音ちゃんと言った方がいいかしら…も、女の子になったとは言っても、こうして見ると昔と何も変ってないわね」
久美に言われると潮音は、自分のセーラー服姿を見回しながら照れくさそうな表情で言った。
「女になっても自分は自分だと、最近になってようやく覚悟が出来てきたんです。…そう思ったら、こうして女の恰好するのだって前ほどにはいやじゃなくなってきたし」
潮音を横目に、久美は暁子を向き直してため息をついた。
「でも暁子ったら、やんちゃで意地っ張りで困っちゃう。逆に潮音ちゃんの方が、素直な女の子って感じ」
「お母さんまでそんなこと言わないでよ」
暁子はすっかり困った様子をしていた。
「いいんです。だからこそ暁子にもいろんなところでずいぶん助けてもらったし」
「でも昔も、お母さんが仕事で帰り遅いときには、潮音の家でこうして一緒にごはん食べたこともあったよね」
暁子のしんみりとした表情を見ると、久美は少し首をかしげながら言った。
「私もずっと気になってたの。うちは共働きだし、お父さんも出張ばかりで留守にすることが多かったけど、これが暁子に寂しい思いをさせてたのかな、だからこうやって意地を張ってるのかなって」
しかし潮音は首を振って言った。
「気にしないで下さい。だからこそ暁子はこんなにしっかりしてるんだから。暁子は栄介の世話だってちゃんとやってきたし、それに…ほんとに暁子がいなかったら、今ごろ自分はどうなってたかわかんないし」
潮音がそう言う間も、暁子は照れくさそうにしていた。
「あんたまでそんなこと言わないでよ…恥ずかしいじゃん。それにお母さんも気にしないでよ。寂しさなんてみんなや栄介と一緒に遊べば忘れられたし、今じゃお母さんがほんとに仕事にやりがい感じてることだって、あたしや栄介のためにがんばってきたことだってわかるから」
しかしそこで久美は、笑顔を浮かべて言った。
「暁子、強がらなくてもいいのよ。それにさっきの着物はいつか暁子が年頃になったら、暁子に着せてあげようとずっと思っていたの。このチャンスが来たのは潮音ちゃんのおかげよね」
潮音にはそのときの暁子の神妙そうな表情が印象に残っていた。
「でも潮音ちゃん、これからも暁子のことをよろしくね。暁子はこう見えて寂しがりやのところがあるから」
しかし優菜は、そのような潮音と暁子の様子を見て、いささか気後れを感じていた。
「なんかこうして見てると、潮音とアッコって小学校のときからずっと一緒で仲よさそうやったなって…。今度かて私は潮音に対して何もしてあげられへんかったのに」
「違うよ。優菜…は去年の暮、オレと一緒にプールに行ってくれたじゃん。…あのとき泳いでみて、ようやく自分自身を取り戻すためのきっかけがつかめたんだ」
潮音の話を聞くと、暁子も優菜に明るく声をかけた。
「優菜もそんな辛気臭い顔しないでよ。これからいくらでも仲良くなれるでしょ」
そのときの優菜の表情は、どこかふっきれたように見えた。そのような優菜の顔を見て、暁子はさらに声をかけた。
「こうなったらご飯終ってからももっと遊ばない?」
「いいねえ」
優菜もさっそく乗り気になっているのを見て、潮音はやれやれと息をついた。
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