第三章・岐路(その9)

 潮音たちが敦義の屋敷に戻り、昼食を済ませると、流風はさっそく綾乃と潮音を屋敷の二階にある自分の部屋に手招きした。しかし潮音は小ぎれいに片づけられ、鮮やかトーンで彩られた流風の部屋に足を踏み入れると、どこか落ち着かないものを感じていた。


 流風は潮音にクッションに腰を下ろすように勧めたが、そのとき潮音はプリーツスカートで坐るときの仕草にまた手間取ってしまった。


 それでもなんとかして潮音が体勢を整えると、流風は潮音の顔をまじまじと見つめながら言った。


「潮音ちゃん…その服、綾乃お姉ちゃんに着せてもらったの? そうやって女の子の服着るのいやじゃない?」


 流風にたずねられても、潮音は当惑の色を隠そうとしなかった。


「自分でもわからないんだ…オレは退院してからも、スカートなんか絶対はくものかと思っていたのに。今だって、流風姉ちゃんのスカートを見てすごくかわいいと思ってる。…今まではこんなの全然意識したことなかったのに」


 そこで綾乃が口をはさんだ。


「あんた、さっき初詣に行ったときだって、かわいい服の女の子がいたらちらちら見てたじゃん」


 そう言われると、潮音はますます赤面して口を閉ざしてしまった。そこで流風はにんまりとしながら言った。


「そんなにかわいい服着た女の子のことが気になるなら、潮音ちゃんももう少しおしゃれしてみる?」


 そこで流風は、自分の部屋のクローゼットの扉を開いて服を何着か取り出してみた。潮音は最初ラフなシャツやジーンズに目を向けたが、レディースのパンツやジーンズをはいたところで、形によってはヒップや脚のラインが余計目立ってしまうと思うとため息が出た。


 そこでようやく、潮音は流風がクローゼットから取り出した服にきちんと目を向ける気になった。流風はお嬢様らしく、持っている服も清楚で落ち着いた感じの服が多くて派手なものは見かけなかったが、その中でも潮音の目をひきつけたのは、今流風が着ているスカートと色や柄は違うものの、同じようなシックな雰囲気を醸し出していた一着のフレアスカートだった。潮音はそのスカートの花柄の生地を眺めているうちに、胸の高鳴りを感じて、パンストに覆われた両足をきゅっと閉じ合わせてしまった。


 綾乃と流風は、そのような潮音の様子をニコニコしながら眺めている。


「潮音ちゃん…やっぱりこのスカートが気になるの?」


 綾乃と流風の笑顔を見て、潮音はどきりとして身を引きそうになったが、こうなってはもはやこの二人に逆らうことはできそうにない。流風がそのスカートに合うような軽い色合いのブラウスを取り出すと、潮音はここまでくるともうやけくそだと思って、差し出されたブラウスを手に取った。


 潮音がためらいながらも服を着替えようとすると、ブラウスのボタンの合わせが男物のシャツと逆になっている点にまず戸惑いを感じた。それでもようやく潮音が着替えを終えると、さっそく綾乃は潮音を流風の部屋の壁にかけられた姿見に向かわせた。潮音は胸の高鳴りを感じながらしばらく目を伏せていたが、ようやく覚悟を決めてそっと目を上げて姿見と向き合った。


 しかしそのとき、潮音は先ほどまでとも違う、自分自身の今まで見たこともないような姿にただどぎまぎしていた。ロングスカートの花柄をあしらった生地は潮音の下半身をふんわりと覆い、少し歩いてみただけでその生地が歩幅に合わせてそっと揺れた。


 そのような潮音の姿を見て、綾乃は潮音にそっと声をかけてやった。


「どう? 同じスカートといってもさっきまでとは全然感じが違うでしょ。こういうかっこすると、なんかしっとりと落ち着いた気分になってこない?」


 潮音はそっと、スカートの生地を手に取ってみた。花柄のフレアがそっと下半身全体に広がるのを見て、潮音ははっと胸をつくような気持ちになった。潮音は男の子だった頃には感じたこともなかったような感触にただ戸惑っていた。


 潮音がそのままたたずんでいると、綾乃は次いで流風の取り出した服の中から、膝丈まであるデニムのスカートを示してみせた。トップもそれに合うようなラフなシャツに着替えさせてその上にジージャンを羽織ると、潮音はさっきまでと比べて多少ボーイッシュな服装に、少しは息をつけるような感じがした。しかしデニムのスカートの裾から膝小僧がのぞくのを見ると、いつものジーンズとは違った開放感に戸惑いを感じずにはいられなかった。流風も潮音の表情を眺めながら、自然と表情に笑みを浮かべていた。


 そのようにして潮音が流風の服を何着か着替えてみた後には、精神的にヘトヘトになっていた。そして潮音は、部屋のじゅうたんの上にへたり込んでしまった。


「なんか疲れた…。だいたいオレは着せ替え人形じゃないんだぞ」


 いささか疲れ気味の潮音の表情を見て、流風はなだめるように声をかけた。


「そうやって落ち着きなくしてるから、疲れちゃうのよ。もっとリラックスすればいいのに」


 綾乃もすました表情で潮音に声をかけた。


「あんたもさっき服を着替えていた間、いやそうな顔してなかったけど。これであんたも少しは、女の子のおしゃれするときの楽しみが少しはわかったんじゃないの?」


 さらに綾乃は言葉を継いだ。


「女の子の服って、ボーイッシュなものからかわいいものまで、色も形もいっぱいあるでしょ? そりゃ私もパンツでかっこよく決めたくなるときだってあるけど、おしゃれなスカートをはいてみたときにはそれだけで気持ちがウキウキしてくるし、おしとやかな感じの服を着ると優しくてしっとりとした気持ちになる。それこそが女の特権というものよ」


 潮音はそのとき、もし暁子だったら今の綾乃の話をどのように聞くだろうと考えていた。


「あのね、さっきあんたはずっと自分が人からどう見られてるか気になったって言ってたよね。でも女っていうのは、常に『人から見られてる』ということを意識することによって自分に磨きをかけていくものなのよ。最初はどうすればいいか迷うことだってあるかもしれないけど、そうするうちにだんだん自分らしいスタイルだって見えてくるしね。自分はスカートなんて似合わない、それが自分らしいスタイルだというのならそれでも構わない。ま、私にしてみりゃズボンにばかりとらわれていて、さっそうとスカートひるがえして表歩く自由もない男の方がよっぽどかわいそうだと思うけどね」


「自分らしいスタイルって…」


 黙りこくったままの潮音の顔を見て、流風は心配そうに口をはさんだ。


「何かもったいないよね。潮音ちゃんってこうして見ると顔だって悪くないし。でも潮音ちゃんがそんなにスリムでひきしまった体してるのは、やはり水泳やって体鍛えてたおかげよね」


 潮音が一瞬意表をつかれた表情をしているのを、流風は笑顔で眺めていた。


「女の子になっても、そしてスカートはいてても、やっぱり潮音ちゃんは潮音ちゃんだよ。もっと自分に自信持つといいよ」


 流風に言われて、潮音は少し元気を取り戻したようだった。そこで流風が、鏡台の引き出しから化粧品を何点か取り出しながら言った。


「潮音ちゃんもちょっと化粧してみたら? さすがに学校じゃ禁止されてるけど、今だったらいいでしょ」


 潮音はここまできたらもはや綾乃や流風からは逃げられないと覚悟を決めると、流風に言われるままに鏡台の前に腰を下ろした。


 流風は潮音にじっとするように言うと、潮音の顔にナチュラルメイクを施していった。潮音は自らの素肌に化粧品を塗られる間、あたかも心の琴線までをもくすぐられるような気恥ずかしい思いが抜けなかった。


 マスカラでまつ毛もぱっちりとし、唇に淡いピンクのルージュを引かれると、潮音は顔がよりつややかさを増したかに見えた。さらに流風は潮音に手を差し出すように言うと、潮音の両手の爪にパールピンクのマニキュアを塗っていった。すると潮音の指先はより華やかさを増したかのように見えた。


 一通り化粧が済んでも、潮音はどことなく落ち着かなさを感じていた。


「女って毎日こんなことしなきゃいけないのかよ。化粧品の金だってバカにならないし」


「さすがに中学生や高校生は、もともと肌がきれいなのだから、学校に毎日化粧をしていく必要はないわね。でも時にはメイクをしてみるのもなかなか楽しいでしょ?」


 綾乃にとりすました表情で言われて、潮音はルージュを塗った唇をあらためてかみしめながら、その感触に戸惑っていた。


 しかしそこで、流風の部屋のドアの外で物音がした。則子がそろそろ帰宅する時間になったことを告げに来たのだった。


 則子がドアを開けると、その背後には雄一の姿もあった。しかし雄一は、化粧をした潮音の姿を見ると急に顔色を変えて大声をあげた。


「潮音、受験前だというのにお前はこんなところでチャラチャラした格好して女の子と遊んでいたのか」


 その時の雄一の声は、明らかに怒気を含んでいた。


「ちょっと待ってよお父さん。潮音だってこのところ受験で疲れていたみたいだったから、流風ちゃんと一緒に気を慰めようとしただけなんだから」


 綾乃がなだめようとしても、雄一の怒りはおさまらないようだった。綾乃と潮音を連れて部屋を立ち去る間際、雄一は流風をきっとにらみつけた。流風はその雄一の視線を感じると、目を伏せてしまった。雄一が機嫌悪げに敦義の屋敷を立ち去るのを、モニカも何かくやしげな表情で見送った。


 帰宅してから後も、潮音の一家には重苦しい空気が流れていた。綾乃と潮音が無言のまま自分の部屋に戻った後、則子が厳しい表情を浮かべて雄一に言った。


「パパ、あなたがモニカさんのことを新しいお母さんと呼ぶのに抵抗があるのはわかるわ。でもモニカさんにも、まして流風ちゃんにも何も罪はないはずでしょ。流風ちゃんに冷たく当たるのもいいかげんにしなさいよ。…それに、潮音のことももっと広い心で受け入れてやるべきではないかしら」


 則子に言われても、雄一は唇をかみしめて黙りこくったままだった。

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