第三章・岐路(その8)

 やがて新年が明けた。潮音は実家で行われる新年の集まりに出るため、綾乃に手伝ってもらって装いを整えた。潮音が淡いトーンのセーターにタータンチェックのプリーツスカートを身にまとい、頭にウィッグをセットしてもらってからも、フォーマルに装った則子は鏡台を前にして化粧や身支度に時間を取られていた。


「母さんも早くしないと出発が遅れるぞ」


 しかし潮音の、母親が化粧をする姿に対して向けるまなざしは、男の子だった頃とは明らかに違っていた。以前の潮音は、家族で出かけるときに則子や綾乃が準備に手間取っていてもイライラするだけだったが、今の潮音は則子が化粧をする姿をじっと眺めていてもそのような気持ちは起きなかった。


──どうして女って、こんなにわざわざ時間かけて化粧するんだろう。


 しかしここで、潮音は少し前に綾乃に言われたことを思い出していた。


──女の子はちょっと服を着替えて髪型を整えてみるだけでもなりたい自分になれることができるし、そうすれば自信だってついてくるものよ。


 潮音は唇を噛みしめながら、その「なりたい自分」とは何なのだろうとあらためて考え直していた。


 気がつくと、潮音の背後に綾乃が立っていた。綾乃も潮音の表情や身振りから、潮音の心中を察したようだった。綾乃は潮音の肩をぽんと軽く叩くと、潮音にハーフコートを差し出した。


 ようやく則子の身支度も終り、一家で通りに出ると、眼下に広がる明石海峡は、冬の冷気の中でより青みを増し、波も若干高くなっているように感じられた。穏やかな日差しが照らしているとはいえ、冬の風は冷たい。それに加えて、プリーツスカートがヒップや両脚の動きとともにひらひらと揺れて外気が舞い込んでくる。潮音はなんともいえない落ちつかなさを感じて、はにかみながらしきりに手でヒップやスカートの裾を押さえていた。


 その様子を見て、綾乃は潮音に声をかけた。


「もっと顔を上げて、姿勢をよくして歩きな。そうすると自信だってついてくるから」


「でも…やっぱり気になってしょうがないんだ。周りの人が自分のことをどんな目で見てるのかと思って」


「周りを見てごらん。誰もあんたのことを変だなんて思っちゃいないよ」


 新年ということもあって、通りには初詣帰りらしい人の姿もちらほら見かける。潮音はとりわけ、街を歩いている若い男たちの表情を気にした。自分もほんの少し前までは見る方の立場だっただけに、彼らが自分に対してどのような視線を向けているか、彼らの視線は自分の体のどの辺りに集まっているのかはそれなりに理解できた。


──オレって…服を着替えただけでそんなにかわいく見えるんだろうか。


 そう考えると、潮音は胸が高鳴って頭に血が上るような思いがした。潮音はいつしか小股でとぼとぼと歩くようになっていた。


「確かに乱暴にどたどた歩くのはよくないけど、もう少し身軽に落ちついて歩けるようになった方がいいわね」


 綾乃に言われても、潮音はスカートの裾を手で押さえて赤面したままだった。


「姉ちゃんこそそんなスカートだと足広げにくくない?」


 綾乃は膝丈までのスカートを気にとめることもなく、ブーツの足音を歩道の敷石に響かせて足取りも軽く歩いている。


「むしろこれくらいの方が、ステップを意識して落ちついて歩けるようになるものよ。慣れればきちんとした身ぶりだって自然と身につくしね」


 潮音は綾乃が、自分よりもだいぶ先を歩いているように感じていた。



 潮音の一家が敦義の暮らす実家に着くと、お正月らしくあでやかな着物で装ったモニカが玄関口で潮音を迎えてくれた。


「これが潮音ちゃん? めっちゃかわいいなったやん」


 元来陽気な性格のモニカは、最初こそ女の子の姿をした潮音の姿に驚いていたものの、潮音の姿をじっと見つめていた後で着物姿のまま潮音を抱きとめた。


「ほんま…潮音ちゃんのことはずっと心配しおったんよ。特にダンナは潮音ちゃんが女の子になってしもたという話を聞いたときは、しばらくずっと落ち込んどったわ。でも今こうして潮音ちゃんが元気な姿見せてくれて、ほんまに嬉しいわあ」


 モニカが明るく振舞っている一方で、羽織袴をきちんと着こなした潮音の祖父の敦義は、潮音の姿を複雑そうな表情で眺めていた。


「潮音…お前がこうなったのにはわしにも責任がある。お前にはどうお詫びすればいいのか」


「おじいちゃん…気にしないでよ。オレはたしかに女になったことには戸惑いもあるけど、今は学校だってなんとか行けてるし、こうして元気でいられるのだから…」


 潮音のねぎらう言葉を聞いても、敦義は黙ったままだった。潮音は敦義の表情から苦悩の色がありありと浮んでいることを読み取ると、自分がまだ幼かったころに、敦義とよくキャッチボールをして遊んだことを思い出していた。潮音は敦義も自分のことを男の孫として期待をかけていたのだということを感じ取ると、やりきれなさを覚えずにはいられなかった。


 そうしているうちに、家の奥から流風が姿を現した。しかし潮音は、その流風の姿を見て思わず息を飲んだ。流風は清楚なブラウスをきちんと着こなしていただけでなく、花柄がプリントされたカラフルなロングスカートをはいていた。潮音はそのスカートの華やかで繊細な生地が、古い煤けた屋敷の中でひときわ彩りを放っているのに目をひきつけられていた。


 流風の側も、潮音が髪をセットして、プリーツスカートをはいて現れたのに目を丸くしていた。そこでさっそく流風は、潮音に提案した。


「お昼ご飯までまだ時間あるし、せっかくだから一緒に神社に初詣に行かない?」


 潮音が綾乃や流風と一緒に、屋敷の近くにある海の神をまつった古い神社に向かうと、社殿の前の石畳の参道には初詣の客が列を作り、その傍らには屋台も軒を連ねて、辺りは正月のなごやかなムードに満ちていた。しかし潮音は、社殿の前の列に並んでいる間も、隣に立っている流風のことを意識せずにはいられなかった。フィリピン人の母親の血を引いて、目がぱっちりとして彫りの深い表情をした流風の顔は、今のフェミニンな服装にもしっかりマッチしていた。潮音は流風の花柄のスカートが揺れるのを目にするたびに、気後れのようなものを感じていた。


 ふと潮音が周囲に目を配ってみると、冬の寒さの中にもかかわらず、ミニスカートで生足をあらわにしている女の子もいる。潮音はこのような恰好で寒くないのだろうかと、他人事ながら気にならずにいられなかった。


 一通り新年のお参りを済ませて、おみくじを引いて敦義の家に戻る途中で、潮音はぼそりと流風に声をかけた。


「流風姉ちゃん…そのスカートかわいいね」


 それに対して流風は、怪訝そうな顔で潮音を見返した。


「どうしたの? 今までそんなこと言ったことなかったのに」


 流風にたずねられても、潮音は赤面したままもじもじしていた。それに対して綾乃がさっそく声をかけた。


「あんた、もしかして自分も流風ちゃんの服着てみたいとか思ってるんじゃないの?」


 潮音はそれに対して、肯定も否定もしなかった。しかし綾乃も流風も、潮音の心の中で何かが動き出していることを鋭敏に感じ取っていた。



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