第三章・岐路(その7)

 綾乃は潮音を鏡台の前に坐らせると、潮音の髪をとかし始めた。潮音はその間、鏡の中に映る自分の姿が目に映らないように顔を伏せていたが、潮音の髪は男の子だったころと比べて、デリケートさが増してブラシの通りがよくなっていた。綾乃にブラシで髪をとかされている間、潮音は心の奥底までもがくすぐったくなるような感触がして、思わずスカートの中でパンストに覆われた両足をきゅっと閉じ合わせてしまった。


 綾乃が潮音の髪をまとめてウィッグをかぶせ、そのつけ心地を調整すると、鏡を見るのをためらっていた潮音も、思いきって目を上げてみた。


 しかし潮音の整った目鼻立ちや流れるようなロングヘアのウィッグは、かえって今の服装を引き立たせているように見えた。やわらかなセーターの生地は両胸でふくよかな曲線を描き、膝丈よりも短いプリーツスカートは、黒いパンストで覆われたすらりとした両足とあいまって軽快な感じがした。潮音は鏡で自らの姿を目の前にしても、気恥ずかしさを感じながらも、なぜかそこから目を離すことができなかった。暁子も潮音の変貌ぶりを目の当たりにして、戸惑いを覚えずにはいられないようだった。


 そのような潮音の表情を眺めながら、綾乃はそっと潮音に声をかけた。


「どう? 女の子はちょっと服を着替えて髪型を整えてみるだけでもなりたい自分になれることができるし、そうすれば自信だってついてくるものよ」


 潮音ははっきりと感じ取っていた。今の自分は、男の子だったときには気がつきさえしなかった新しい世界の扉をまさに開けようとしていることに。…そして、気恥ずかしさや不安も感じている一方で、その新しい世界をのぞいてみたいという確かな感情が芽生えていることに。


 このようにして潮音がまごまごしていると、綾乃がスマホを取り出して潮音の写真を撮ろうとした。


「この写真、流風ちゃんにも送ろうっと」


 ここで流風の名前を聞いて、潮音は胸がどきりとした。


「この姿で…流風姉ちゃんにも会いたい」


 潮音は流風ならば、今の自分の姿を受け止めてくれるし、自分の気持ちも理解してくれるという確信を持っていた。


「そうね…じゃあお正月、おじいちゃんの家の集まりに出てみたら? たしかに受験勉強もあるけど、ほんの一日顔出すくらいなら問題ないでしょ。…それに、あんたのことはおじいちゃんやモニカさんもだいぶ心配していたから、元気な姿を見せてあげるだけでもいいと思うの」


その綾乃の提案には、潮音も納得した。しかしそこで暁子が声をかけた。


「でも潮音、あたしが塾行って勉強してる間、あんたはそうやってていいの? ちゃんと勉強しないと高校受からないよ」


 その暁子の言葉で、潮音はふと現実に引き戻されたような気がした。潮音が綾乃の部屋を出て自室に向かおうとしたとき、綾乃が潮音に軽く耳打ちした。


「ここまできたらいっそのこと、ブラとパンツももっとかわいくて女の子らしいものにしてみる?」


 その綾乃のささやきを聞いて、潮音は体中の血が沸騰しそうになった。


「何言ってんだよ…姉ちゃん」


 赤面して取り乱している潮音を、綾乃はニコニコしながら見ていた。


「冗談に決まってるでしょ。でも…考えといてもいいんじゃない?」


「いいかげんにしないと怒るぞ。勉強の邪魔するなよ」


「ところであんた、さっきから思ってたんだけど、女の子のかっこしてるときは、もっと言葉遣いにも気をつけて丁寧な言葉で話しなさい」


「余計なお世話だ」


「だから、その『余計なお世話だ』じゃないでしょ。あんた、そんな乱暴な言葉遣いで話す女の子見たら、そんな子と仲良くしようと思う? 自分の好き勝手するのが『自分らしさ』とは違うでしょ」


 その潮音と綾乃のやり取りを目の当りにして、暁子もやれやれとでも言いたげな表情をしながら潮音の家を出て自宅に戻っていった。



 潮音がなんとか自室に戻り、勉強机に向かって雑念を振り払おうとしても、今の自分が女の子の恰好をしているのかと思うと、高揚した気持ちをどうしても落ち着けることができなかった。いくら問題集に視線を集中させようとしても、意識はどうしても机の下のスカートや両足へと向かってしまう。そして心もとなさを感じて両足を固く閉ざすたびに、ナイロンの薄くてデリケートな繊維越しに両足が触れあった。そうなると心の奥底までくすぐられるような心地がして、とても勉強どころではなかった。


 潮音はこれじゃだめだと思って、勉強を放り出してベッドに身を投げ出した。そしてそのままの体勢で天井をぼんやりと眺めながら、自分はいったい何をやっているんだろうと考えていた。


 たしかに潮音は、自分の身体が女になってから後も、スカートなんか意地でもはくものかと思っていた。しかし潮音は今こうしてスカートをはいてみると、男の子だったときには感じたこともなかったような、熱い思いが胸の中に湧き上がるのを覚えていた。


──考えてみりゃ当り前の話だよな…。スカートはいたからって別に死ぬわけじゃないんだし。


 潮音はあらためてベッドから身を起こし、身のまわりを見回した。しかし綾乃に貸してもらったプリーツスカートの、タータンチェックの生地がベッドのシーツの上に花びらのように広がっているのを見たとき、潮音は自分の中で何かが動き出すのを感じていた。潮音がセーターのやわらかな生地の上からそっと胸に手を当てると、心臓が大きく波打つのが感じられた。


 たしかに今までの潮音は、目の前に大きな壁が立ちふさがったかのような気がして、その壁の前で戸惑っていた。しかし今こうして女の子の装いをしてみると、自分はその壁を越えられないとただ自分で思い込んでいただけではないかと思い始めていた。


 潮音はもはやじっとしていることはできなかった。部屋の中でくよくよ悩んでばかりいるわけにはいかない、ともかく少しでもいいから何か前に踏み出さなければならないという強い思いが心の奥で芽生え始めていた。こうなると、潮音はこれまで自分を縛り付ける鎖のように思っていた女物の服やロングヘアのウィッグですら、一方では自分の心をがんじがらめにしていた呪縛から解き放ってくれる鍵でもあるかのようにも感じ始めていた。そして潮音は、その矛盾した感情の狭間でただ戸惑いながらも、ベッドから立ち上がって勉強机に腰を下ろし、入試の過去問を広げてみた。


 そしてようやく潮音が過去問を解き終るころには、冬の早い日もとっぷりと暮れて外は暗くなっていた。潮音は普段の勉強のときより何倍もの気力を消費したような気がして、精神的にヘトヘトになっていた。そこに綾乃が、夕食ができたことを知らせに来た。


 綾乃は問題の答え合わせの結果を見ながら言った。


「よくがんばったじゃん。とはいえこれじゃあ南稜受かるためにはもっと勉強しなきゃいけないわね。でも少し休んだ方がいいよ。そろそろ夕ごはんだし」


 そして綾乃は、潮音の背をそっと押して居間へと向かった。頭にウィッグをかぶりセーターにスカートといういでたちで居間に現れた潮音の姿に、雄一と則子も目を丸くした。複雑そうな表情を浮かべてむっつりしたままの雄一だけでなく、則子もむしろ心配そうな表情をしていた。


「潮音…無理しなくていいのよ」


 しかし潮音は、首を横に振った。


「…いいんだ。いつかはけりをつかなきゃいけない問題なのだから」


 その潮音の言葉を聞いて、則子は少し顔をほころばせると、あらためて潮音のいでたちをあちこち眺め回していた。その則子のまなざしを感じ取っただけでも、則子が今の潮音の姿をどのような目で眺めているのかを感じ取って、潮音はげんなりした気分になった。傍らでは雄一も、無口なまま潮音の姿を複雑そうな表情で見ていた。


 潮音が言葉少なにそそくさと夕食を済ませて部屋に戻ると、則子は雄一に上気した表情で声をかけた。


「ねえパパ、あの子もこうしておしゃれしてみるとかわいいじゃない。やはり綾乃はセンスあるわ」


 雄一は何か複雑そうな表情を浮かべてむっつりしていたところに、則子に「パパ」と言われたことで、さらに不機嫌な表情で則子の方を見返した。しかし則子は、安堵したように息をつきながらさらに話を続けた。


「パパ、私もあの子のことは心配だったけど、最近になってやっと安心したわ。暁子ちゃんも面倒をいろいろ見てくれるし、ここは落ちついて子どもたちのことを信用しましょ。それにしても綾乃もしっかり者になったじゃない。あの子は暁子ちゃんとも仲良かったけど、ほんとは妹がほしかったのかもね」

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