第三章・岐路(その10)

 潮音の祖父の家での一件があって以来、潮音はスカートをはくのもやめてしまった。家族に対しても寡黙なまま勉強机に向かうばかりの冬休みが過ぎ、三学期の始業式の前日の晩になっても、潮音は玲花から譲ってもらったセーラー服と、自らの詰襟の学生服とを交互に見比べながら戸惑っていた。


 たしかに潮音は、自分がセーラー服を着て女子として登校すれば、それである意味ふっ切れることができて、このところ自分の心の中につきまとっていた、重苦しいモヤモヤした気分を吹き飛ばせるかもしれないと感じていた。しかし潮音は、自分が女子の恰好で登校したら、浩三をはじめとする今まで親しく接してきたクラスの男子たちが自分にどんな目を向けるかと思うと、どうしてもセーラー服を着て学校に行く気にはなれなかった。


 潮音は忘れることができなかった。玲花の家で学ランからセーラー服に着替えたときや、正月に流風の部屋でスカートをはいたりメイクをしたりしてみたときの、あたかも魔法にでもかけられたかのような、心の奥底までもが甘酸っぱくなるような不思議な感触を。しかしだからこそ、潮音はそのときのことを、自分だけの秘密にしておきたいという思いもあった。


 潮音は制服をハンガーにかけて床についてからも、なかなか眠ることができなかった。そして潮音は早朝のまだ辺りが薄暗いうちに目を覚ますと、ナベシャツを着て胸の膨らみを隠し、ワイシャツと学生ズボンを身に着け男子生徒の姿になった。


 その姿で朝食のテーブルに降りてきた潮音の姿を見て、潮音の家族は皆呆気に取られていた。特に雄一は、無言のまま何か居心地の悪そうな表情をしていた。


「あんた…本当にそれでいいの?」


 動揺を隠せない綾乃の姿を前にしても、潮音は目を伏せたまま言葉を交わそうとしなかった。


「…そりゃあんたがそうしたいのなら、私ももう何も言わないけど。…でも、やっぱりあのときスカートはいたりするのいやだったの? そりゃ私だってちょっと悪乗りしすぎたかもしれないけど」


 綾乃が心配そうな顔をしてたずねても、潮音はただ「そんなことないから」と返事を返すのみだった。


 潮音が冬休みの前に玲花に貸してもらったコートを紙袋に入れ、学生カバンと一緒に持って家を出ると、家の前でちょうど暁子に出会った。潮音は暁子の姿を見て一瞬どきりとしたものの、暁子はむしろほっと息をついていた。


「潮音…やっぱりあんたはその恰好なんだね」


 そして暁子は、少々ためらいがちな表情を浮かべている潮音の手を引いて中学校に向かった。潮音が学校に着いて教室に入ると、生徒たちは冬休み前と変らない様子で互いにしゃべり合っていた。その中で玲花のみが、驚いたような面持ちで潮音に目を向けていた。


「藤坂君…やはり女子の服で学校来るんは抵抗あるんやね。でも無理せんでも、藤坂君が自分で決めればええよ」


 そこで潮音は、他の生徒たちに気づかれないようにこっそりと玲花にコートの入った紙袋を手渡した。



 それからしばらくは、潮音が男子の学生服を着て中学校に通う、いつも通りの日常が帰ってきた。しかし潮音は、自分が入院する前に比べて、男子も女子もどこかよそよそしい様子で自分に接している感じが、どうしても抜けなかった。


──オレはただ、男とか女とか関係なく、以前と同じように普通にみんなと接したいだけなのに。


 しかしそのようなことを気に留める余裕もないまま、すぐに私立高校の入試の出願期間が迫り、三年生の教室もあわただしさを増していく。潮音は校風が自由で制服もなく、私服登校が認められており、さらに浩三や玲花も進学を希望しているという理由で南稜高校を出願すると腹を決めてはいたものの、入試のときにはやはり女子の姿で会場に行かなければならないのだろうかと思っていた。


 潮音が南稜高校の入試の願書を受け取ると、潮音はそれに写真を貼らなければならないことに気づいた。潮音はこのときばかりは仕方ないと思うと、日曜日にセーラー服に着替えてその上にコートを羽織り、写真屋に行って証明写真を撮ってもらった。


 潮音が一月中に南稜高校に入試の願書を提出すると、数日して受験票が郵送されてきた。そして二月に入ってしばらくたつと、とうとう入試の当日が来た。潮音は覚悟を決めてセーラー服を身にまとったものの、こんな北風の吹く寒い日にスカートで入試を受けなければならないとは、女子もなかなか大変なのだなと思った。


 潮音が綾乃にも手伝ってもらって身だしなみを整え、セーラー服の上にコートを羽織って、神戸の街の中心に近い高台にある南稜高校に向かうと、さまざまな中学校の制服を着た中学生たちが校舎の前に列を作っていた。その中には玲花の姿もあったが、玲花も潮音がセーラー服姿で入試の会場に現れたことに驚きの表情を示したものの、入試の前だけに軽々しく話しかけることはできなかった。


 南稜高校は最近進学とスポーツの両面で実績を伸ばしている新興の進学校というだけあって、校舎も新しくきれいで最新の設備も整っているが、潮音にそのようなことを気に留めている余裕はない。受験番号の通りに教室に誘導されて席につくと、潮音は一心に入試問題と向き合った。しかし潮音は、周囲の女子の受験生たちは自分よりもずっと立ち居振る舞いが自然に見えるように感じていた。


 午後の面接も、潮音がセーラー服で面接担当の教師と向き合ったときには、なんともいえない緊張感を覚えずにはいられなかった。ようやく入試が終って夕方になり、南稜高校の校門を後にしたときには、潮音は精神的にヘトヘトになっていた。潮音は、同じ日に松風女子学園を受験した暁子や優菜はうまくいったのだろうかと気になっていた。


 そのときになって、潮音とは別の部屋で入試を受けていた玲花と、スポーツ枠で受験していた浩三が連れ立って歩いてきた。そこで玲花は、さっそく潮音に声をかけた。


「藤坂君、ようがんばったやん」


「できた自信はないけどな。ともかく明後日には合格発表があるから、それを待つしかないよ」


 しかし玲花の傍らにいた浩三は、玲花が声をかけた少女が潮音本人だということにはじめは気づかないようだった。その浩三も、しばらくして今目の前にいる、コートの下に制服のプリーツスカートをはいたショートヘアの少女の姿から潮音の面影を読み取ると、あらためてショックを受けていた。


「お前…ほんとに藤坂かよ」


 浩三の動揺する姿を見ると、潮音も観念してコートのボタンを外し、その下に着ていたセーラー服を示してみせた。しかし潮音が困惑した表情を浮かべて、浩三と視線を合わそうとしなかった反面、浩三の潮音を見る姿勢は明らかに違っていた。


「藤坂…めちゃくちゃかわいいやん。そのかっこで学校来ればええのに」


 そのように言う浩三は、顔を赤らめてどこか気恥ずかしそうにしていた。しかしクラスの男子、特にこれまで友達だと思っていた浩三から、このような視線を向けられることこそ、潮音が最も恐れていたことだった。


「椎名…オレだって好きでこんな恰好してるんじゃないんだよ」


 潮音にこのような態度を取られると、浩三の表情にも当惑の色が深まっていった。二人の傍らにいた玲花も、潮音と浩三の間をどのように取り持てばいいのか、答えを見つけられないまま戸惑っていた。


 潮音が帰宅すると、ちょうど松風女子学園の入試から帰ってきた暁子とばったり出会った。


「潮音…南稜の入試どうだったの」


 しかし暁子は、潮音の固くこわばった表情を見ると、あまりうまくいかなかったのかもしれないと直感した。


「潮音…あんたはよくやったよ。いきなりあんなことになって、それでもちゃんと学校行って高校受験までやったんだから。…だからそんなに気にしなくていいよ。きっと大丈夫だよ」


 潮音は暁子と別れて帰宅してからも、入試のことよりもむしろ浩三の、女子の姿をした自分を見たときの戸惑った表情の方が心の中から離れなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る