第一章・新しい日(その5)
ホームルームが終り、少女たちが桜組の教室に戻って帰り支度をしているとき、美咲が潮音を呼び止めて声をかけた。
「藤坂さん、少し時間はいいかしら。話があるの。それから石川さんも藤坂さんと中学一緒だったわね」
美咲の表情を見て、暁子は無言のままうなづいた。そこで美咲は暁子にも声をかけた。
「石川さんも一緒に来てもらった方がいいかしら」
その声を聞いて潮音はびくりとした。
潮音と暁子が美咲の後ろについて行くと、案内された先は理事長室だった。潮音はもしかして自分の素性が学校側にばれたのではと思って、ますます不安が高まっていった。潮音がちらりと暁子の横顔に目を向けると、暁子も不安げな表情を浮かべている様子がありありとわかった。
二人が美咲に理事長室の中へと通されると、立派なテーブルの中央には理事長の吉野うららが座を占め、その傍らには潮音たちの学年主任で世界史を担当している、
潮音が理事長の席の前まで進むと、うららはにこりと微笑んで潮音に声をかけた。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。そこの椅子に坐りなさい」
潮音は綾乃からさんざん言われた椅子の坐り方を思い出しながら、そっと椅子に腰を下ろした。潮音はその動作を見守る、うららや久恵の視線も気になっていた。
ようやく体が椅子になじんでくると、潮音はしっかりとうららの顔を見据えた。そこでうららはさっそく口を開いた。
「藤坂さん、学校の様子はどうだったかしら。かなり緊張してるけど、やはり入試の直前にあれだけのことがあったんですものね。でもそれでありながら本校を受験して入学するとは、やはりそれだけの覚悟があったのでしょうね」
潮音はうららが事情を全て知っていたことに気づいて、思わず息を呑んだ。その傍らでは、暁子も緊張のあまり蒼白になっていた。
「何が言いたいかはだいたいわかるでしょ。あなたがさっき椅子に腰掛けるときだって、スカートに慣れない中で緊張している様子がよくわかったわよ」
潮音はうららの顔を見据えると、やがておもむろに口を開いた。
「私…が高校受ける前まで男だったこと、もうわかってたんですか」
「わかってたも何も、あなたの中学の提出した調査書にはっきり書いてあったわよ」
うららの傍らに立っていた美咲があっけらかんとした口調で話すと、潮音は拍子抜けしたような気分になった。暁子もやれやれとでも言いたげな表情で息をついていた。
「その調査書には、あなたの主治医だった黒田先生の手紙も添えられてたの。詳しくあなたの症状について説明した上で、学校としてもきちんとした対応をしてほしいとはっきり書いてたわ」
「だったらなぜ…学校は私の入学を許可してくれたのですか」
「そんなに気にすることはないわね。『性』というもののあり方にはいろいろあるということも明らかになってきているし。あなたはたとえ過去がどうだったとしても、今は体の上では女子なんだし、本校の入学試験を受験して合格した、それだけの話よ。何も引け目を感じることはないわ」
潮音は美咲の明るい口調がむしろ気になっていた。そこで今までの話を黙って聞いていた久恵が口をはさんだ。
「藤坂さん、ひとつ聞いていいかしら」
潮音がぎくりとする間もなく、久恵は言葉を続けた。
「ちょっと髪をほどいてみなさい」
潮音がびくびくしながら、後ろ髪を結んでいたリボンとゴムをほどくと、長く伸びた黒髪がはらりと垂れて両肩を覆い隠した。それを見て久恵は言った。
「藤坂さん、この入試の願書の写真を見ると、あなたの髪は短いのに、今ではこんなに髪が長く伸びているのはどういうことなの。一ヶ月か二ヶ月で髪がこれだけ伸びるなんて、どう考えても不自然だわ。そりゃ本校では長髪にしてはいけないという校則はないけど、まさかかつらかぶってるんじゃないでしょうね」
久恵は話している間も、あくまで冷徹な様子を崩そうとしなかった。暁子もびくりとした表情で潮音に目を向ける中で、潮音は一瞬身を引いてたじろいだものの、そこでしっかりと久恵の顔を見据えて、中学校の卒業式の日に神社を訪れたこと、そしてそこで令嬢の持っていた着物に触れたら髪が伸びたことをはっきりと話した。その話の間、暁子はかたずを飲んで潮音の顔を見守っていた。
久恵はきょとんとした顔つきで潮音の話を聞いていたが、潮音の話が終ると美咲が口をはさんだ。
「まあいいんじゃないの。男の子がいきなり女の子になっちゃうなんて話聞いた後では、どんな話聞いても驚かないわ。ウソでわざわざこんなこと言うはずがないでしょ。石川さんもその通りだと言いたいみたいだし。それにしても、着物とともに愛する人への思いが生き続けてるなんて、ロマンチックな話よね」
美咲がどこか上気したような口調で話すと、久恵はどこか煮え切らない表情を浮かべながらも、なんとか納得したようだった。
さらに美咲は潮音の不安げな様子を見て、なだめるように口を開いた。
「あまり過去のことにとらわれてクヨクヨしない方がいいわよ。それに学校生活でもいろいろ不安はあると思うけど、心配することはないわ。この話は学校の先生の間でも一部しか知らないから。困ったことや相談したいことがあったら遠慮しないでどんどん相談しに来なさい。それに石川さんも頼りになりそうね。石川さんが同じクラスにいるだけでも心強いんじゃないかしら。それに、うちの制服にはスラックスだってあるから、それをはいてもいいのよ。うちの生徒にあまりスラックスでくる子はいないけどね」
そこで潮音が少し安堵した表情をすると、美咲は態度を一変させた。
「ただし、あなたはこの学校では要注意人物だということをくれぐれも忘れないようにね。何か変なことしたら、牧園先生のきつーいお灸が待ってるし、さらに問題があったら即退学よ」
その美咲の言葉に、潮音はほっとしたような困ったような、複雑そうな表情を浮かべた。
「牧園先生は私が松風の生徒だったとき、私のクラスの担任だったの。今でこそ年取ってちょっとは丸くなったけど、私が学校行ってたころは、ちょっと校則破ったり態度悪かったりしたら容赦なく反省文書かされたり礼法室で正座させられたりしたし、化粧品やマンガ、お菓子なんか持ち込んだら即没収されたんだから」
美咲がしゃべるのを、久恵はいやそうな表情で眺めていたが、うららはそのような様子をニコニコしながら眺めていた。
話が一段落すると、久恵は不安げに声をかけた。
「藤坂さん、明日と明後日のオリエンテーションは大丈夫かしら。もし何か困ったことがあるなら、特別に個室を用意しているから、それを使いなさい。でもあまり羽目を外して騒いだりしないようにね」
「はい…ありがとうございます、先生」
潮音がきちんと礼をして、暁子と一緒に理事長室を後にすると、美咲は潮音の立ち去ったドアを見つめながら、表情を少しほころばせた。
「なかなかいい子じゃない。あれだけ肝っ玉の坐っている子はそうそういるもんじゃないわ。私も最初話を聞いたときはさすがに驚いたし、学校でうまくやっていけるか心配だったけど、これなら大丈夫そうね」
それに対して久恵は、困ったものでも見るかのような顔で言った。
「たしかに長年生徒指導をやってると、ウソをついてる子なんて身振りや様子ですぐわかるものよ。でもあの口調や態度はそうは見えなかったからね。あんな子ははじめてだわ。でも吉野先生、あまり調子に乗らないでほしいわね。生徒と仲良くなりたいという気持ちもわかるけど、いくらうちの学校の卒業生だからといって、いつまでも学生気分で生徒に甘い顔をしていたら困るわ。もうちょっと先生としての自覚と威厳を持ちなさい」
久恵に釘を刺されて、美咲は悪びれたような表情を浮かべた。うららはこのような二人の様子をニコニコしながら見守っていた。
「美咲が学校に通っていたころから、牧園先生と美咲の様子は全然変ってないわね」
「理事長先生、吉野先生はここでは理事長先生の娘ではなく一人の教師なのですよ。けじめをつけてもらわなければ困るわ」
久恵は苦々しい表情を浮かべていた。
潮音が暁子と並んで理事長室を後にすると、理事長室の戸口で優菜が少し心配そうな表情をしながら待っていた。
「潮音…理事長室に呼ばれたのは、やはりあのことなん?」
「ああ…学校はみんなわかってたよ」
「でもええやん。いつまでもごまかし続けられるものでもないやろ。むしろ先生も知っとる方が学校通いやすいやん」
「たしかにオレや暁子のいる桜組の担任の吉野先生は、この点理解がありそうでほっとしたよ」
「でも潮音は先生になぜ髪が伸びたのか聞かれても、ごまかさずにはっきりほんとのこと言うんだもの。はたで聞いてるあたしの方が冷や冷やしたわ。ところで優菜のいる楓組の担任はどんな人なの?」
「
そこを光瑠や紫、恭子やキャサリンたち、潮音と同じ桜組のメンバーたちが通りかかった。光瑠はさっそく、潮音が髪をほどいているのに目を向けて、驚いたように声をあげた。
「藤坂さんってポニテも似合ってたけど、こうして髪の毛ほどいてもかわいいじゃん。すごくいいよ」
キャサリンも潮音の髪をうっとりしながら眺めている。潮音がまごついていると、光瑠が元気よく優菜に声をかけた。
「あなたはクラスは楓組だけど、藤坂さんや石川さんとたちと同じ中学を出たんでしょ? せっかくだから駅まで一緒に帰らない?」
光瑠に声をかけられて、優菜も顔を赤らめながらまごまごしていたが、そこで紫が光瑠に声をかけた。
「ごめん…私と恭子は生徒会の用事でこれからちょっと学校に残らなきゃいけないの。光瑠もしっかり高等部から入った子のフォロー頼むわね」
紫が潮音たちと別れて生徒会室に向かう間も、心の中で疑念を抱いていた。
──「藤坂潮音」って…たしか私が小学生のときに森末先生のバレエ教室に通ってたよね。藤坂流風先輩の親戚だと言ってたっけ。そのころは男の子がバレエ教室に通っていたのが珍しくて、先生にも結構かわいがってもらってたけど…たしかにあの子と感じは似てたわね。でもそれがどうして今になって、女子としてうちの学校に入ってきたわけ? 名前まで一緒なんて、そんな偶然ある?
そのような紫の様子を見て、傍らにいた恭子が声をかけた。
「どないしたん? なんか気になってることでもあるん?」
恭子の声で、紫ははっと我に返った。
「いや…今度入った子に藤坂潮音という子がいるでしょ。あの子は小学校のときバレエの教室で一緒だったような気がするんだけど…」
紫の気づまりそうな表情を見て、恭子も心の中で「藤坂潮音」という名前を心にとめていた。
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